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ステン短機関銃

ステンガン(Stengun)、もしくは単にステン(STEN)は、第二次世界大戦中のイギリスで開発された短機関銃である。合理化された設計によって傑出した生産性を備え、大量生産されて、連合国軍やレジスタンスの主力小火器として大戦中を通じ用いられた。第二次世界大戦初期の1940年、ナチス・ドイツによるフランス侵攻作戦で敗北したイギリス及びフランス軍の残存部隊は、同年5月以降、イギリス本土への撤退作戦を開始した(ダンケルク撤退)。多大な犠牲を払いつつ、イギリス軍は10万人のフランス兵を伴い撤退に成功した。この大規模撤退に際し武器・弾薬などは多くを放棄せざるを得ず、イギリスまで逃れた英仏軍の兵士たちの多くが無装備状態であった。従ってこれを補う小火器の大量供給は急務となった。しかし1940年7月以降、ドイツ空軍の英国上空侵攻が始まり、英国側は厳しい防衛航空戦を強いられる(バトル・オブ・ブリテン)。イギリス空軍の奮戦によって侵攻は食い止められたものの、イギリス国内の軍需工場や施設などもかなりの損害を受け、英国における兵器生産にも障害が生じた。このような厳しい状況に対し、生産手法の新たな打開策が求められた。イギリス軍はヨーロッパの戦いを通じて短機関銃の有用性を認めていた。1940年にはドイツ製短機関銃MP28をコピーしたランチェスター短機関銃が発表されていたものの、決して生産性の高い設計ではなかった為、現在の戦況において大規模な配備を実現するのは難しいと考えられていた。1941年に入り、イギリス軍はロンドンの北部にあった国営兵器工場・エンフィールド王立造兵廠に、扱いやすく生産性の良い短機関銃の開発を要請した。これを受け、エンフィールド造兵廠の技師であるレジナルド・V・シェパード(Reginald V. Shepherd)とハロルド・J・ターピン(Harold J. Turpin)は共同で新型サブマシンガンの開発にあたった。開発にあたって彼らが参考にしたのはドイツ製のMP28とMP40だった。特にMP40は当時における最先端の短機関銃であり、銃としての性能自体もさることながら、鋼板プレス部品の多用など、それ以前の短機関銃とは隔絶した生産合理化策が加えられた、極めて斬新な銃だった。シェパードとターピンらはこれらのドイツ製短機関銃を徹底的に調査・分析した。実包はドイツ軍の制式拳銃弾である9mmパラベラム弾が採用された。通常、短機関銃の実包は制式拳銃と同様の拳銃弾を使用するのが望ましいが、弾薬補給の複雑化を承知でこの実包を採用した背景には、イギリスの制式拳銃弾である38エンフィールド(9mm)弾が回転式拳銃(リボルバー)用のリムド(有起縁式)実包であり、自動火器の使用に向いていなかったという理由があった。従前では考えられないほどの特異な合理化設計が図られ、1941年6月に試作銃を完成させた。「ステン」(STEN)という名称は名称は、2人の技師の頭文字(S、T)と、エンフィールド造兵廠の頭文字(EN)に由来する。また、第二次世界大戦初期のイギリスでは短機関銃をマシンカービン(Machine Carbine)と呼称していたため、採用当初の制式名称は9mm STEN Machine Carbine, Mark 1(ステン9mmマシンカービン Mk.I)とされていた。制式火器採用トライアルをパスした後、イギリス政府はさっそく大手銃器メーカーBSA社にステンガンの量産を依頼した。8月に入るとBSA社は試験的に25丁を生産し軍に納入した。その後9月、10月と生産を増やしていった。最初の生産型Mk.Iは、まだ伝統的な小銃形式を模した第一次世界大戦型の短機関銃の姿を残しており、左から水平に差し込まれる箱形弾倉、木製の先台、折り畳み式フォア・グリップ、スプーン型のフラッシュハイダーなどが装備されていた。採用後まもなくして一層の省力化を試みたMk.IIの生産に移行したため、Mk.Iおよび小改良を加えたMk.I*の生産数は10万挺程度に留まった。Mk.IIの基本的なデザインはMk.Iと同様だったが、木製部品やフラッシュハイダー、フォア・グリップなどは廃され、フル・バレルジャケットは短めのベンチレーデットパイプに変更された。円筒状のボルトを同じく円筒状のレシーバーに収めており、その外観は水道管用の鉄パイプに引き金と箱形弾倉を差し込んだような異様な姿となった。ストックは一本の鋼管にバッドプレートとグリップ代わりとなる三角形の孔開き鉄板を溶接したものだった。前方のフォア・グリップは省かれ、レシーバー先端部に留めたバレルカバー(ベンチレーデットパイプ)を代用にしていた。これらは本来、銃器生産に携わらぬ工場で下請け生産するために取られた措置であったが、意外なことにこれだけ省力化されてもフルオート専用ではなく、セミ/フル切り替えセレクターによって単発射撃が可能であった。Mk.IIは推定200万挺にも及ぶ大量生産が行われた。自転車部品メーカー、装身具メーカー、果ては醸造所に至るまでの町工場やカナダなど英連邦の兵器工場などでも生産された。サプレッサーを取り付けたMk.II(S)も少数生産されている。フルオート射撃はサプレッサーの寿命を著しく縮める為、Mk.II(S)のマニュアルでは極力セミオート射撃を行うこととされていた。Mk.IIIは更に設計を簡素化したモデルで、Mk.Iを元に玩具メーカーのラインズ・ブラザーズが開発した。開発時期はMk.IIとほぼ同時である。主にイギリス本国のホームガードへ供給された。総生産数は約87万6千挺。バレルとレシーバーが一体化され、部品の数は僅か47個、5時間で完成できる。弾倉などの一部を除いてMk.IやIIとの部品互換性はない。簡素化したことで潤滑油が不要だが、元々、銃器設計経験のないLB社の設計ミスと簡素化されすぎた工作から、Mk.IIに比べて動作不良率が高く、低耐久性や分解整備の困難さも相まって評判は悪い。軍のトライアルでも射撃停止、規定発砲数に達する以前にガタが来るなど散々な結果を露呈したが、兵器不足から小改良の上で制式採用され、最前線で使用されない二線級向けと割り切って生産が続行された。Mk.IVは銃床を折り畳み式にして、全長を短縮させる工夫を施した空挺部隊用の特殊型。トリガーガード周りに差違のあるAタイプとBタイプの二種が試作されたが、どちらも制式採用されずに試作のみで終わっている。1943年になるとMk.Vが加わった。これはMk.Iへ先祖返りした正統な改良発展型とでも言えるステンガンで、Mk.I以来の木製ストックを復活させ、ピストルグリップを追加。照準線を長く取るべく、レシーバー上に溶接された照星を銃口付近へ移した上で制式小銃に準じたガード付きに改正して命中精度を高めると共に、着剣装置を備えて銃剣突撃が可能なように改めた最終生産型である。外見はかなり変化しているが、生産性にも配慮されており、ボルトなど部品の多くはMk.-IIと共用可能だった。なお、Mk.VIはMk.-Vにサプレッサーを装備した消音型で、本来なら表記はMk.IIにならってMk.V(S)となるはずだが、なぜか独立した形式名を与えられている。基本構成はMk.Vそのままだが、サプレッサー装着の関係で着剣装置はオミットされた。ステンガンの構造はオープンボルト式で、引き金を引くとボルトが弾薬を叩くが、チェンバーが空でボルトが閉鎖されていても強い衝撃を与えると、安全装置を掛けていないと次弾を拾って発火してしまうオープンボルト式SMG共通の欠点がある。照準器は固定式ピープサイト。左側へ突き出したマガジンハウジングは90°回転させ下方へ向けることができた。これは非戦闘時に排莢口と装弾口を塞ぎ異物侵入を防止することと輸送時の都合を考慮した設計だったが、耐久性に問題があったほか、戦闘時にもマガジンハウジングと装弾口のズレが起こりやすく、特にマガジン部を保持して連射するとしばしば装弾不良が発生した。生産を開始してからも長らく弾倉部の給弾不良が多発し(これはMP38/40同様、シングル・フィード・マガジンの構造から来る問題でどうしようもなかった)、Mk.IIやIIIの初期生産ロットでは新品配布時の分解調整が必須という、粗製濫造を絵に描いたような銃であった。弾倉は32発だが、作動を円滑にするには1、2発少なく装填した方が良いとされた。ランチェスター短機関銃用の50発弾倉も流用可能で、これは孤立を余儀なくされる状況が多い空挺隊員が好んで使用している。また、動作不良を減少させるため、実包は通常の9mmパラベラムより、装薬量を増した専用実包の使用が推奨された。小火器としての全体性能はMP40や米軍供与のトンプソン・サブマシンガンに及ばないとされているが、短機関銃として標準的な使い方である100m前後での射撃であればそれらに劣るものではなく、正しく保持しさえすれば実射時のバランスは意外なほど良好であった。また下方にマガジンを備えた銃に比べて伏せ射ちのしやすが評価されている。Mk.IIの実射レポートでは「噂の装弾不良はなく、問題なく全弾発射した」「反動はマイルドでマズルブラストは気にならず、M3グリースガンやトンプソンと違い、発砲時の銃口の跳ねや片方への首振りするようなことがなく、非常にコントロールしやすい」と評価されており、後にドイツ軍がコピー生産(後述)した事実や、1943年以降、兵器不足の危機が過ぎた後もステンに代わるSMGが大戦中に制式化されなかったことからも、当初は完璧とは言えなかったものの、その後の改修、改良を重ねられていったことからも兵器としての基本設計が優れていたと言える。英軍将兵からは「ステンチ(悪臭)ガン」や「ウールワースガン」(「ウールワース」は安売りスーパーマーケットチェーンの名) 、はなはだしくは「プランパーズデライト(デブ女の性具)」や「パイプ・ガン」という蔑称で呼ばれたが、一丁あたりの製造単価はわずか7ドル60セントであり、当時としては類を見ないほど低コストで大量生産化に成功した銃だった。最終的に400万挺以上が生産され、これによってイギリス軍は歩兵用兵器の再整備を図ることができた。カナダやオーストラリアで製造されたものには独自に再設計されたものも存在する。供給先としてイギリス軍はもちろんのこと、当時ドイツ軍に対しゲリラ攻撃を行っていたフランスほかヨーロッパ諸国のレジスタンスに対しても盛んに供給され、またデンマークのように現地でコピー生産された例もある。小型軽量なステンMk.IIは弾倉を外し、ストックとバレルを分解すると大きめのハンドバッグにも収納可能なため隠密行動に適し、組み立ても簡単だった。しかも使用する9ミリパラベラム弾はドイツ軍装備の収奪で賄えるなど、レジスタンスが使うには多くの面で好都合だったのである。中にはポーランドのブリスカヴィカのようにレジスタンス組織がステンを基に独自改良型の短機関銃を設計した例もあった。大量に供給されたことからドイツ軍の手に落ちる機会も多く、ドイツ軍では鹵獲したステンガンにMP749(e)の制式名称を付与した。大戦後半にはドイツ国内でステンガンの模倣品も生産され、Mk.IIのコピー品である通称「ポツダム器材("Gerät Potsdam、ゲレート・ポツダム")」、弾倉をMP40互換としたMP3008、通称「ノイミュンスター器材("Gerät Neumünster、ゲレート・ノイミュンスター")」が知られている。大戦終結後もステンガンは英連邦の主力火器として朝鮮戦争他で活躍したが、英軍は後継として1953年にスターリング・サブマシンガンを制式採用し、L85が制式化される1985年までフルオート射撃不可能なL1A1ライフルを補完することとなる。これに伴ってステンは特殊部隊用のMk.VIを除いて現役を退き、Mk.VIも1960年代に運用を終えている。また、建国当初のイスラエル軍や旧英領植民地でも中印国境紛争頃まで使用された。だが、これらも時代の趨勢には逆らえず、1960年代にはより威力があり、射程も長いアサルトライフルに取って代わられた。非正規装備としてはベトナム戦争やボスニア紛争での使用が確認されているが、造りの荒さのためか、これだけ大量生産された火器にしては1970年代以降の使用例はあまり見られない。ステンガンの遊戯銃は総じてモデル化された例は少なく、2016年現在に至るまでエアソフトガンや電動ガンでは日本製の製品は皆無である。モデルガンでは1970年代にハドソンがMk.II(バリエーションとしてMk.IIS)。MGCがMk.IIIをそれぞれフルオートモデル化していたが、52年度規制で鋼製プレス加工が規制されたり、会社が倒産、または遊戯銃部門を廃業したために現在では絶版。モデルガン以外ではLSが、過去に1/1のプラ製組み立てキットとしてMk.IIを製品化していた。他に玩具としてステンをデフォルメ化した拳銃型銀玉鉄砲も存在したが、製造元他の詳細は不明。一説ではサンコロナ社製とも言われている「動画映像」。最近は海外製電動ガンなどで、ステンのラインナップが確認されている。主に第二次世界大戦のイギリス軍やレジスタンスを描いた作品に登場する。

出典:wikipedia

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