年齢主義(ねんれいしゅぎ)と課程主義(かていしゅぎ)は、教育学において教育制度上で対立する二つの主義である。この語には、学年制度・入学制度の場面で使われる意味と、義務教育制度の場面で使われる意味がある。学年制度・入学制度の意味での年齢主義と課程主義は、学校などにおいて、学習者をどの学年に所属させるか(進級させるか)や、どのレベルのカリキュラムを与えるかや、入学志願者の入学を許可するかを決定する際の、判断基準となる考え方のことを指す。この場合は、年齢主義では、学習者・入学志願者の年齢によって学年・学習内容・合否が決定され、課程主義では、学習者・入学志願者の学力(習熟度・到達度)や履修状況(学歴)によって学年・学習内容・合否が決定される。通常はこの意味で用いられるので、本記事では、主にこれについて詳述する。義務教育制度の意味での年齢主義と課程主義は、何をもって義務教育期間(就学年限)の開始と終了とみなすかを決定する際の、判断基準となる考え方のことを指す。この場合は、年齢主義では、一定の年齢に達したら義務教育期間は終了し、課程主義では、一定の課程を修了したら義務教育期間は終了する。これについては教育行政学の範疇なので、「義務教育」の記事内で詳述する。また学年制度・入学制度の意味と義務教育制度の意味の両方において、年数主義という第三の用語が使われる(後述)。英語では学年制度の意味の年齢主義にage-grade system(年齢-学年制)またはSocial promotion(社会的進級)の語が当てられることもある。年齢主義は、学習者の年齢によって、決まった学年または学級に所属する形態である。このため年齢主義の学校では、基本的には同一学年には同じ年齢(本記事では、生年月日が1年以上違わない事を指す)の生徒だけが在籍しているが、同じ学年でも生徒間の学力は大きく異なっている。基本的には、全くトラブルがなく良好な成績評価のまま卒業まで至ることを理想状態としている制度である。休学期間があっても、復学時は「年齢相当学年(後述)」に復帰する。途中で成績が低下しても、原級留置は行われずに年を追うごとに進級する。ただし、補習や特別支援学級への移籍などの能力別教育が行われる場合もある。成績が良好な生徒に対しても飛び級は行われず、1学年ずつ進級する。ただし、拡充(発展的な授業、エンリッチメント)や才能開発コースへの移籍などの能力別教育が行われる場合もある。異種の制度からの転入生・編入生を除けば原級留置も飛び級も存在しない形態である。日本においては、ある学年に低年齢で在籍できないという問題よりも、高年齢で在籍できないという問題を指す場合に、この用語が使われることが多い。課程主義は、学習者の学習段階によって、決まった学年または学級に所属する形態である。このため課程主義の学校では、基本的には同一学年には異年齢の生徒も所属するが、同じ学年の生徒間の学力はあまり異なっていない。標準的な生徒の場合は、年齢主義の学校と変わらない進級の仕方をする。休学期間があった場合は、復学時には以前に在籍していた学年に戻る。成績が低下した時は、原級留置が行われて同じ学年を再度履修する。成績が良好な生徒などに対して飛び級をさせる場合もある。所属する課程は、進級試験の成績などの純粋な学力によって決められる場合もあるし、出席日数などの履修状況や、授業理解力などの知能水準によって決められる場合もある。日本においては、飛び級が行われるという部分よりも、原級留置が行われるという部分を指す場合に、この用語が使われることが多い。多くの国の学校制度では、完全な年齢主義または完全な課程主義のどちらかであるわけではなく、片方の影響が強いという程度である。例えば日本では、義務教育段階での多くの学校の考え方は年齢主義にかなり近いが、原級留置や就学猶予も稀にあるので、課程主義的な要素も存在する。逆に高等学校では、制度上は課程主義が原則であるが、多くの高校では最低年齢の生徒が多いため、実態として年齢主義的な要素も存在する。また義務教育段階で課程主義を基本としている諸外国でも、原級留置が2回程度しか許可されなかったり、一般的な在学年齢との差が大きい人は在学できなかったりする場合もあり、年齢主義的要素が存在しないわけではない。年齢主義と課程主義は相互に対立する概念だが、同様な対立する概念として履修主義と修得主義がある。履修主義は授業に出席していれば実際に学力が身に付いたかを問わずに進級または単位取得をさせる考え方のことで、年数主義(後述)と類似した考え方であり、年齢主義ともある程度近い考え方である。修得主義(習得主義)は実際に学力が身に付かなければ次の課程に進まない考え方であり、課程主義と類似した考え方である。ただし、この節の最後で後述するように必ずしも定義は確定していない。ただしどちらも課程主義の一種と考えることもできる。修得主義は真の課程主義であり、履修主義は年齢主義や年数主義に近い課程主義である。学校の入学志願者に対して入学を許可するかどうかを決定する際の判断基準としても年齢主義と課程主義という用語が使われる。年齢主義の選抜制度の場合は、志願者の学力や学歴に関係なく、一定年齢である場合に入学を許可する。年齢基準は下限のみの場合、上限のみの場合、両方ともにある場合が考えられる。課程主義の選抜制度の場合は、志願者の年齢に関係なく、学力や学歴が基準を満たしている場合に入学を許可する。現実には、「15歳以上、かつ入試問題で一定以上の点を取ること」というように、年齢主義と課程主義を併用する例も考えられる。(なお、入学決定基準の意味では「年数主義」の用語は使われない)前述した進級基準・入学基準の意味以外に、義務教育の開始時期と終了時期を決める際の基準としても、年齢主義と課程主義という用語が使われる。年齢主義の義務教育制度では、義務教育終了年齢の時点でどの学校のどの学年に所属していても、義務教育期間が終了する。例えば就学猶予をしたり、学齢期に飛び級・原級留置をしたりしても、義務教育終了の年齢は変動しない。課程主義の義務教育制度では、定められた課程を修了していなければ、何歳になっても義務教育期間が継続する。日本など、多くの国の義務教育制度では年齢主義を取っている。多くの地域では、国家の近代化にともなって、義務教育終了基準は課程主義での運用から年齢主義での運用に移り変わってきている。なお、この意味での年齢主義と課程主義は、進級基準における年齢主義と課程主義とは関係がない。たとえば進級基準について課程主義を取っていることで有名なフランスでも、義務教育終了基準は年齢主義であるし、進級制度がどちらの主義であるのかと、義務教育制度がどちらの主義であるのかは、特に関連性がないといえる。この意味の用法については、「義務教育」を参照。日本においては、年齢と学習段階のどちらを基準にして進級すべきかという方面の教育制度については、1947年の学制改革以来約60年間にわたり以前の習慣にならう意識が強く、その改革や研究についてはあまり話題にならなかったため、各用語はあまり意味が整理されていない。そのため、年齢主義、年数主義、課程主義、履修主義、修得主義という用語のうち、どの用語にどの意味を付与するかということは、それぞれの学者によって考え方が違うため、事典などでさえも定義が統一されていない。例えば年齢主義と課程主義を、進級基準の意味で解説している事典もあるが、義務教育終了基準の意味で解説している事典もある。また年齢主義と年数主義を同じ意味で使っている事典、履修主義と修得主義を同じ意味で使っている事典も存在する。なお本記事では、年齢主義・課程主義については、記事全体では「何を基準として当該学年に所属させるか(進級させるか)」という進級基準の意味で使用・解説し、「何を基準として義務教育期間の開始と終了とするか」という義務教育終了基準の意味でも、特記した上で部分的に使用・解説している。また、年齢主義という言葉は、「一定年齢にならなければ入学・進級できない」という意味に使われる場合と、「一定年齢になれば卒業(退学)・進級しなければならない」という意味に使われる場合がある。課程主義という言葉も、「一定の学力がなければ入学・進級できない」という意味に使われる場合と、「一定の学力があれば早期卒業・飛び級できる」という意味に使われる場合がある。このため、上記のようなことを細かく論ずる際には、年齢主義・課程主義という言葉をそのまま用いるよりも、「強制進級制」や「進級試験制」、「飛び級制度」や「最低年齢制限」などの個別の用語を用いた方が理解しやすい場合もある。年齢主義と課程主義とは別の概念として、年数主義(ねんすうしゅぎ)という用語を使用する場合もある。これは日本では年齢主義と同じ意味に用いられる場合も多いが、「在学年齢が何歳であっても、飛び級や原級留置を行わずに進級し、一定期間在学すること」という意味合いで、在学期間を増減しない考え方の意味に用いられる場合もある。例えば日本のように、初等教育への就学年齢がほぼ一定である制度のもとでは、年齢主義と年数主義はほぼ同じ意味となるが、諸外国のように就学年齢をある程度自由に決められる制度のもとでは、年数主義と年齢主義は違った意味合いを持つ。例えば、小学校の修業年限が6年間と決められていて、実際に6年間で修了する場合でも、6歳のときに入学すれば12歳のときに卒業することになるし、8歳のときに入学すれば14歳のときに卒業することになる。このように、在学期間が同じであるが在学年齢が違う場合は、年齢主義とは呼べないが年数主義とは呼べる。すなわち、原級留置・飛び級を行わない制度であっても、就学年齢に違いがあれば同一学年同一年齢でなくなるため、年齢主義と呼ぶことは不適切になるのである。近年、文部科学省の中央教育審議会では、就学年齢の弾力化を検討する際に、これまで年齢主義と同義に扱ってきた「年数主義」の語に対して、上記のような新しい意味を付与するようにすることが提案されている(下記リンク参照)。上記の三用語を分ける考え方では、一般的には年数主義は課程主義と年齢主義の中間に位置する考え方であるとされている。しかし、年齢主義と課程主義は対立する考え方であるが、年齢主義と年数主義が並存する場合(たとえば就学開始年齢を固定する場合)もあるし、課程主義と年数主義が並存する場合(たとえば出席日数のみを進級の基準とする場合)もあるので、年数主義は必ずしもどちらかと対立する概念ではない。年数主義は、開発途上国に多い類型であるといわれている。なぜならば、開発途上国では貧困や義務教育制度の不完全さのため、就学時期にばらつきがあるためである。一方、義務教育終了基準の意味での年数主義は、一定の学齢期に一定期間の就学義務があるという制度のことである。年齢主義の制度においては、在学者の学習段階を考慮せずに一律に進級させることになるため、同じ年齢の生徒が同じ学年に所属し、同年齢集団を形作る。また、成績の良し悪しによって所属する学年が変わらないため、原級留置になったことによる敗北感・劣等感を与えないということもある(もっとも、原級留置になったことによって劣等感・敗北感が生まれるかどうかはその文化圏によって違うが)。体力・社会経験などを考えると、小学校段階、あるいは中学校段階までは同年齢集団での教育が望ましいとの考え方もある。同じ学年に学力が違う生徒が所属することによって起こる問題については、成績不良者に対する補習、成績優秀者に対する拡充(発展的な授業、エンリッチメント)、習熟度別学級編成、入学者選抜などの、能力別教育を実施することによって緩和され、ある程度個人差にあった教育が可能である。ただし逆に言えば、こういったフォローがしっかり行われないと、学業不振者を見捨てることになる制度でもある。しかしながら、「年齢相当学年(後述)」の学習内容と本人の学力の差が2学年程度であれば、上記のような能力別教育などで対応できるが、大幅に年齢相当学年の学習内容と本人の学力相当の学習内容が異なる人の場合はそれも困難である。また、すでに最高学年の相当年齢を過ぎた人(学齢超過者)に至っては、入学すらできないことになる(学齢も参照)。学校教育は若年者のみが享受するものではなく、生涯学習の重要性が叫ばれているが、高年齢を理由として入学が不能になると、若いころ学校教育が受けられなかった人はもはや学校教育を受けることが不可能になるし、一度学校に行ったものの学習成果がなかった人に対してもやり直しのチャンスを与えないことになる。また、年齢主義の制度のもとでは、拡充・補習を行うかどうかに関わらず、学年が高くなるほど生徒間の学力差が増大してしまうという問題があり、一定の課程を修了していなくても自動的に学校を卒業することになるため、形式的卒業者が増え、その学校を卒業したことによる「一定の学力がある」という社会的信用が失われる。また、習熟度にあった十分な教育が行われないと、本人の基礎学力がなくても自動的に進級することになるため、学年が進むにつれてますます授業を理解できなくなり、落ちこぼれを作ってしまうという問題がある。逆に成績が優れている生徒の場合は、授業で教わることをすでに知っていたりして、浮きこぼれとなってしまう。また、年齢主義を取っていない学校や、外国の学校などの全くカリキュラムが違う学校で過ごしてきた生徒が転編入する際に、以前のカリキュラムと合わない学年に編入されてしまうという問題がある。これは上学年に編入される場合、望まない飛び級といわれる。課程主義の制度においては、学力を基準として学習集団を作れるため、学級内の学力の水準は同質であり、授業がすすめやすい。また、選択的不登校や身体療養などのための休学の後も、学年は自動的には進級していないため、自分の年齢に追われずにゆとりを持って教育を受けられる。また、年度末生まれなどで発達がゆっくりしている児童でも、就学猶予や低学年時の原級留置を行うことにより個人のペースにあった授業を受けられる。また、年齢主義制度で見られる、補習授業や拡充授業を行う際の、同年齢集団から同学力集団を抽出するという手間が存在しないため、学校側にとって教育課程の運営がしやすい。またこれは副次的な効果であるが、異年齢学級では学力的には等質でも社会体験の異なる集団での学校生活となるため、現実社会と同様な場を作れる。しかしながら、学力のみを進級基準とした制度のもとでは、成績が著しく悪い生徒は何度も原級留置をすることになり、そういった生徒への適切な支援が難しい。また、知的障害や学習障害など、学習面で障害がある生徒の場合、進級基準を杓子定規に適用すると、何年たっても最低学年のままになるという問題が発生してしまう。こういった生徒に対しては特別支援学級や特別支援学校などの特別支援教育の場で教育するという配慮をすべきだといわれるが、明らかに重度の障害の場合は所属先を迷わずにすんでも、ボーダーライン上にある生徒の場合は、どこからどこまでが健常で、障害なのかを分けることが難しいため、普通学級で補習を受けながら原級留置をするか、特別支援学級で特別支援教育を受けながら進級するかを決める判断が難しい。実際、明治初期の日本の小学校では厳格な進級試験があったため、障害児は落第を繰り返すことになった(後述)。また、低年齢で高い学年に飛び級できる制度のもとでは、低年齢で上学年・上級学校に行くのは心身発達の面で生徒にとって好ましくないという説もある(ただし高等教育段階では悪影響は少なく、アメリカ合衆国では大学早期卒業者の将来は良好なようだ)。年齢主義と課程主義のどちらが生徒にとって優しい制度であるのかについては、はっきりとした答えは出されていない。原級留置になることや同年齢平均者に対して学年が低いことを恥とみなす文化圏では年齢主義が歓迎され、そうでない文化圏では課程主義が歓迎される傾向がある。たとえば心理学者の河合隼雄は1960年代のスイス在住時に、現地の学校では低年齢でも原級留置が行われることに驚いて、日本ではそういうことはないと誇りながら言ったら、逆に現地の教員から日本の教育は不親切だと言われたという話がある(講演を参照)。また、どちらの方式が生徒自身が他人との能力の差を気にしなくてよいのかということも一概には言えない。年齢主義の場合は自分の所属学年を見ただけでは能力差を意識しにくいが、同学年の生徒間では能力差が大きいため、日常的な学校生活では他生徒との能力差を意識するシーンが多い。課程主義の場合は自分の所属学年によって能力差を意識せざるを得ないが、同学年の生徒間の能力差はあまりないため、日常的な学校生活で能力差をあまり意識せずにすむ。しかし日本では、ほとんどの小中学校が年齢主義を基本として運営されているという画一的な状態であるため、日本国内での両者の比較は難しいという問題がある(後述)。もっとも、こういった比較は学齢者の場合であって、学齢超過者の場合は、年齢主義の制度のもとでは原級留置の弊害を議論する以前に入学すらできないという大問題があるので、課程主義または年数主義の制度でしか対応できないことになる。また、課程主義制度の場合は、同年齢の平均よりも下の学年に在籍していることが、能力的な劣等感を生むといわれるが、年齢主義制度であっても、完全に一律化(平等化)された教育が行われているのでない限り、学力によって個別に教育方法が変わるし、成績評価も変わる。すなわち、習熟度別学級で基礎クラスに在籍していたり、あるいは放課後に補習を受けたりする場合や、テストや通知表の評価が低かったりする場合でも、学年の違いほどではないが「他の同年齢の生徒と違う」という劣等感の原因となるので、年齢主義制度だからといって劣等感を生まないわけではない。課程主義の制度のもとでは、進級時期が来るたびに学力などによって各生徒が振り分けられるが、年齢主義の制度のもとでは、クラス替えを行わなければ毎年同じクラスメートになる。このため、課程主義では進級時期の度にクラスのメンバーが変わるので、同級生と離れ離れになる体験を味わうというマイナス面が指摘される。しかし、逆に飛び級や原級留置をすることによって新しい同級生と知り合える機会も2倍増えるうえ、もとの学年でいじめが存在した場合も加害者と離れられるので、必ずしもマイナス面ばかりではない。また、授業時間外で友人間の交流が容易な場合は、離れ離れになることによる問題は緩和できる。また、クラスのうちどのくらいの生徒が飛び級・原級留置の対象となるかによっても影響の度合いは変わり、クラスで2、3人程度しか飛び級・原級留置をしないのであれば、新しいクラスには前の同級生が誰もいない可能性が高いが、クラスの数割が飛び級・原級留置をするのであれば、新しいクラスにも前の同級生がいる可能性が高くなる(もっとも、1学年を進級単位とする学年制においては、クラスの数割も飛び級や原級留置をすることはほとんどないであろうが、6ヵ月進級制や3ヵ月進級制においては、そういったことも考えられる)。また、「等質集団」と「異質集団」のどちらが教育効果が高いかという観点も色々な論がある。課程主義は学力的な等質集団、社会的な異質集団を形作り、年齢主義はその逆である。一斉教授法のもとでは、学力的な等質集団の方がずっと授業がしやすい。しかし、習熟度別学級編成には効果がないとする論者からは、「協同学習」や「共学び・共育ち」という標語のもと、学力異質集団の方が教育効果は高いという意見も出されている。しかし逆に、年齢階層が異なる社会的異質集団の方が社会的な面の発達が促されるという意見もあり、どちらがより良い方法であるかは不明である。ただし、年齢主義の制度でも、イベント時などに異学年生徒と触れ合うという形で、異年齢集団との交流を実現することも可能ではある。両者の中間に当たる年数主義の場合は、入学時期が適切であれば、課程主義に見られる原級留置の悪影響などもなく、年齢主義に見られる発達段階に合わない授業もない。ただし、入学年齢が可変である以外は年齢主義と同様であるため、入学後の成績の変化などに対しては対応できないという問題がある。こういった年齢主義・課程主義・年数主義という考え方は、全教科・全科目を特定の学年や等級に所属して学ぶという、従来の学年制や等級制のシステムにおける考え方であるが、これ以外にも、グッドラッド・アンダーソンによって提唱された無学年制や、教科ごとに違う学年で学ぶという部分飛び級・部分原級留置の形を取ったシステムなど、新しい取り組みはいくつか存在する。ただし、決定的な改良案といえるものは存在しないようだ。前述のように、年齢主義を取る制度では集団内に学力が異なる生徒が存在するという問題はよく注目されるが、それと同様に集団内に社会性や体格などが異なる生徒も存在するということにも注目しなければならない。生年月日を基準とした年齢主義を押し通すことは、むしろ知能年齢や肉体年齢や社会性の発達段階などの、いわば発達年齢の差を生むことになってしまう。もっとも課程主義でも社会性や体格ではなく学力に応じて学年が決まるため、この問題は課程主義にすれば解決するわけではないが、年齢主義で運用したとしても、異質になるのは学力だけではないという事にも留意すべきである。そもそも心理学的には、平均的に見ると社会性と知能・学力は一緒に発達するものであり、学力が高い生徒は知能や社会性も発達している例も多いため、むしろ課程主義の方が発達年齢が似通った生徒が集まる可能性もある。課程主義の導入に対する懸念を持っている側からは、「課程主義を導入すれば、成績が悪いと原級留置になってしまうので、学校生活が窮屈になる」との批判があるが、課程主義は必ずしも成績が悪ければ強制的に原級留置をすることになる制度を意味するわけではない。進級基準の厳格化は学力低下の対策として万能ではなく、本人が原級留置に対して抵抗があるのに成績不良を理由として強制的に原級留置を行うと、学習意欲が減衰したり不登校になったりするため、むしろ逆効果になることが予測できる。このため公立小中学校であれば、成績不良であっても強制的に原級留置にすることは避けるべきだとされている。実際に課程主義を取っているフランスでも、進級に当たっては本人や保護者の意見を聞くようになっている。また原級留置は欠席のために授業を受けられなかった場合や、外国からの帰国直後などで語学力が不足していた場合に限定すべきだといわれる。なぜなら、そういった理由があったために履修が困難だった場合は、原級留置後に十分な条件で授業を受けることによって対応できるが、1年間毎日出席して授業を受けているにも関わらず成績不良となった場合は、通常の授業では効果が薄かったことを意味するので、そういった生徒が全く同じ内容の授業を翌年にもう一度受けたとしても、効果的に学力が身に付くとは考えにくいからである。この観点からすれば、成績不良を理由とする原級留置の効果は薄いと考えられるので、学業不振の生徒に対しては、補習、カウンセリング、特別支援教育の実施というように、個人にあった支援を検討するべきである。また、現行の原級留置制度は、1年を単位とする学年制のもとでは失うものが大きいという欠点もある。例えば約1年休学した生徒であれば原級留置になるのは迷わないが、半年間休学した生徒は、原級留置にするべきか、補習を受けつつ進級すべきか迷うという問題がある。ただし、成績不良の生徒であっても、8歳ごろまでであれば、生まれ月、出生時体重、幼稚園・保育所就園の有無、家庭環境などで個人差が大きいため、現時点での成績が悪くても時間を与えることで個人差をカバーできると考えられるので、就学猶予と同様な考え方のもとに、原級留置によって発達を待つという考え方もある。なお、課程主義の定義に対する混乱や知識不足から、財政面について誤った見解が出される場合もある。たとえば、「義務教育費国庫負担制度がある国では、義務教育期間に原級留置が行われると教育税が1年分余分に国庫から支出されてしまうため、原級留置の適用拡大は国家財政に負担を与える」という主張が時折見受けられる。しかしこの説は、「一定の課程を修了するまで無償の義務教育期間が終了しない」という制度を指している「義務教育終了基準についての課程主義」によって義務教育制度が運営されている場合であれば、原級留置が行われると義務教育期間が延長するので、正鵠を射ているのであるが、「一定の年齢に達するまで無償の義務教育期間が終了しない」という制度を指している「義務教育終了基準についての年齢主義」によって義務教育制度が運営されている場合には、原級留置が行われても一定年齢で義務教育期間が終了するため、的を射ていない説なのである。よって、上記のような主張を根拠とした「課程主義の導入は国家財政に負担を強いるので反対である」という意見は、「義務教育終了基準についての課程主義」を導入しようとすることに対する批判なのであれば当てはまるのであるが、「学習者が一定の課程を修了しなければ学年を進級させない」という制度を指している「進級基準についての課程主義」を導入しようとしていることに対する批判なのであれば、無関係なので当てはまらない批判なのである。要するに、義務教育期間の終了基準が年齢主義で運用されていれば、学齢超過者の授業料は原則として自己負担となるので、原級留置が増加しても財政面での負担は増加しないのである。また、飛び級も可能とする課程主義制度を取った場合は、たとえ義務教育期間の終了基準までも課程主義に変更しても、原級留置と飛び級がほぼ同数であれば、財政面の負担は変わらないと考えられる。下記のように、全ての教育方針が年齢主義と課程主義のどちらかに分類できるわけではなく、両方を部分的に併用している場合もある。なお、年齢の下限とは学年の上限である。以上のように、実際の制度は年齢主義あるいは課程主義の一言で言い表せるものではなく、細分化されている。また、ある学年は基本的に原級留置を行わず、ある学年で厳しく落第させるといった、学年ごとに方針が異なるという例もある。年齢主義も課程主義も、学校が現れてからの概念であるが、必ずしも普遍的な義務教育制度が完成してからの物ではない。古代より学校そのものは存在し、一部の階層を対象に教育が行われていた。近代的な学校以前の教育施設は、制度も目的も対象者もさまざまであり、また初等学校と高等学校との連携が取られていたわけではない。傾向的には、世代が下るにつれ初中等教育が年齢主義的になっている。これらは、義務教育制度が発達し、児童労働の防止の観点から就学義務が設けられるなどの趨勢と一致し、小学校は児童のための学校という認識が強まっていった。また、徴兵制などのもとでは、知識レベルではなく体格レベルでまとめた方が将来の兵士の養成に役立つため、学校もそういった形態になりやすい。例えばナチスドイツ期のヒトラーユーゲントや、日本の青年学校なども、徴兵制度などと密接なかかわりがあった。学校と軍の関わりが強いと、国民の錬成の観点からも年齢主義は歓迎される。学校を知識習得のための場としてだけみるならば、年齢主義は意味がないが、心身の発達に応じて教育を施すことを目的とするのであれば、やはり同年齢教育に近い方が指導しやすい。この点は、学校外教育がどの程度充実しているかによっても異なり、例えばボーイスカウトなどの青少年の共同団体が一般的である社会とそうでない社会によっても異なる。また専業主婦が多かったり、大家族が多かったりする社会では、学校は純粋に知識の獲得のみの役割を担うことが容易である。しかし、生涯学習の理念に基づき、「教育は若年期だけのものではない」という考えから、各国で在学年齢の広範囲化がすすんでいる。これらは特に大学などで顕著で、欧米ではさまざまな年齢の大学生が存在する。また積極的に低年齢者を大学に入学させている国も存在するなど、制度はあくまで二の次であり、個人の特性を第一に考えている場合も多い。歴史的には、近代的学校制度が整うまでに一般的であった年齢階梯制の役割を、学校が肩代わりしていくといった変化が見られる。当初は、知識を得る場としての学校や私塾と、同年齢集団である青年団や若者組は、明確に異なるものであったが、学校が同学年同年齢のシステムに近づいていくに伴い、学校が同年齢集団の場と化していった。特にこういった傾向は、日本のような1日の授業時間の長い学校制度で顕著である。また、年齢主義は生年月日および年齢(の下限・上限)を基準にするため、国民の生年月日を記録する制度がない国・地域では正常に機能しない。現代でも生年月日を厳格に記録していない国・地域もあるため、この場合は精密な年齢主義は不可能である。こういったことから、年齢主義の普及には戸籍に生年月日を記録する制度の導入が前提条件となる。社会と政府の近代化に伴い、同年齢教育が実行可能になったといえよう。また、児童労働の防止を目的とした義務教育制度の発足により、特定年齢層の全員就学の必要性が高まったことも原因である(「義務教育」の記事を参照)。江戸時代は寺子屋で町民の子弟を教育していたが、ここには年齢による学年は存在せず、師匠が生徒の進度にあわせて教育するという形態を取っていた。1868年(明治1年)の明治維新の影響で、1872年(明治5年)に学制が公布されて近代的な学校制度が始まり、学齢児童の就学が行われた。学制下の下等小学と上等小学では、等級制という半年間のレベル別学級に分けた進度別編成が行われ、どちらの小学校も8等級あり修業年限は4年間であった。等級制のもとでは、月ごとの小試験、期末の中試験(進級試験)、学校末の大試験(卒業試験)によって厳密な進級・卒業判定がなされた。当時のこの風景は今でも季語に残っており、「大試験 学年試験 進級試験 卒業試験 受験 及第 落第」が春の季語となっている。また飛び級も可能であったため、進級試験の際に数段階進級した生徒もおり、例えば夏目漱石は2回(学年制に直せば1年になる)の飛び級経験がある(ただしその後落第した)。また小学校入学年齢の下限は一応存在したが、厳密に守られていたわけではなく、寺田寅彦のように1年程度早期に入学する例もあった。当時の学校は、同じ等級に属していても年齢はかなり隔たりがあった。一例を挙げれば、1877年の大分県の下等小学第八級(現在の小学1年前半の時期に相当)には2万2千人が在籍していたが、在学年齢は3歳6ヶ月から19歳2ヶ月までであった。また下等小学第二級(現在の小学4年前半の時期に相当)では540人が在籍していたが、年齢は8歳1ヶ月から18歳7ヶ月であった。このように、現代では幼稚園から大学に通っていてもおかしくない年齢層の人が同じ学級で学んでいたのである。勿論ながら、中学校や専門学校ではさらに年齢はばらばらだった。このように、実質的には年齢に縛られない明確な課程主義に基づく制度であった。ただし、学制では小学、中学については在学年齢が下限・上限ともに明文化されており、制度上はかなり厳密な年齢主義のような形で書かれているが、実際にはこの規定は前記のように有名無実であり、教育令期以降は年齢上限の規定は廃された。しかしながら、すぐに進級不可能な児童が下級に蓄積されていく一方であり、教員数などの面で教育に困難をきたしてしまった。たとえば、明治8年の下等小学では、最初級である第八級に在学している児童が65%で、第七級に在学している児童が17%であり、現在の一年生に相当するこの二つの等級の児童が82%と飛躍的に多く、上の等級に上っていくに連れて急激に減少している。このように、初級をずっと繰り返して4年間過ぎてしまうという例がかなりあった。また上等小学にいたってはわずか0.1%ほどであり、これは明治19年になっても0.8%でしかなく、ごくわずかの児童しか通えなかった。この原因としては、以下のものがあげられる。このように社会的に教育環境が整っていなかったため、一定の課程を修めることを進級の前提とする方式では破綻をきたしてしまったのである。開智学校のような近代的建築で有名な学校は、政府が特に力を入れたモデルスクールであり、大部分の小学校は劣悪な環境であった。こうした問題に対する対策として、徐々に年齢主義も取り入れられるようになっていった。また、落第を繰り返す児童のうち少なからぬ者が障害児であったとされているが、そういった児童に対する教育の場として1890年に松本尋常小学校では落第生学級が設置された(日本初の特殊学級)。1885年(明治18年)には、これまで6ヶ月だった小学校の1等級の期間が1年に変更され、現在の学年に近い形となった。また、1891年(明治24年)には学年という概念が用いられるようになり、等級制から学年制に移り変わりはじめた。そうして1900年(明治33年)の第三次小学校令では、「試験ヲ用フルコトナク児童平素ノ成績ヲ考査」と定められ、反対意見もあったが小学校における次学年への進級試験や卒業試験が廃止された。1925年になると、旧制中学校の入学者のうち大体13歳(現役)である尋常小学校卒業者が50%を上回り、学年差=年齢差という形態に近づいていった。難関中学校は浪人が多かったが、そうでない学校は現役生が多かったため、そういった学校ほど学年内の年齢差は少なかった。ただし、入学時年齢には5歳程度の幅があり、卒業時年齢も20代後半や30代前半という例も見られる。また、師範学校においては一般入試よりも推薦入学のほうが多かったため、旧制中学よりも年齢差は少なかったとされる(ただし第二部では年齢層は高めかつ広めであった)。こうして、次第に年齢主義的な運用に近づいて行き、また実際に年齢差が縮小して行ったため、学校においても長幼の序が重んじられるようになり、年下の者が年上の者を追い越すことが不敬とされ、徐々に年齢階級的な意識も広まってきた。そのため、この時代あたりから学年差による年功序列的な「先輩・後輩」関係が現れるようになったとされる。一方、飛び級(飛び入学)については、五年制中学校を四年修了した段階で上級学校に進学できる四修などで、ある程度は認められていた。(不破哲三などが体験者)。また、旧制高校においては、ずっと年齢のばらつきが大きい状態が続いた。明治30年代の学校制度では、修業年限は小学校6年、中学校5年、高等学校3年、大学3~4年であり、6歳から就学して留年や飛び級や浪人をせずに進学していけば、23歳~24歳で大学を卒業することになるが、上級学校と下級学校の接続が円滑でなかったため、進学の難易度が高く、平均的な大学卒業年齢は26歳~27歳であったといわれている。このように、むしろ現役進学者にあたる年齢層の方が少数派ですらあった。学校制度を扱う文献などには、戦前の学校系統図が掲載されていることがあるが、中には大学院段階まで年齢が付記されている場合がある。しかし、特に戦前はこのように年齢的な集約性が低かったので、中等教育以降に年齢を付記するのはむしろ弊害がある。外国でも同様な図はあるが、高等教育以降に年齢を付記していない例や、後期中等教育以降に年齢を付記していない例もある。また、図の学校の部分に網掛けをするなどして「義務教育である」と表示している例も見られるが、完全に課程主義の義務教育制度の場合は問題ないものの、年齢主義の義務教育制度の場合は、図と異なる年齢でその学校に在学していた場合に現実と合致しない表記となってしまうため、問題がある。なお、戦前においては制度上の年齢主義はさほど強固ではなかったものの、法規によって入学年齢の下限が定められている例も多かった。例えば中学校・高等女学校はともに12歳が下限であり、高等中学校は17歳が下限であった。とはいえ後述のようにわずかにそれより若い年齢での入学はあったようだ。なお、戦前・戦後とも法規において年齢の下限が定められていない学校種は多いが、それでも下級学校の卒業を入学要件としているので、実質的な下限はあるとみなせる。現代では学校種ごとの在学年齢の統計は一部を除いて取られておらず、学校基本調査でも特別支援学校と高校通信制課程にしか年齢回答欄がない。しかし戦前は比較的在学年齢の統計が充実しており、府県統計書では小学校の年齢項目は見当たらないものの、中学校などの入学・卒業時点の年齢については、多くの県で掲載されている。中学校の最低入学年齢はほぼ12歳で、まれに11歳代後半の例が見られる程度であるが、明治末期の私立中学校に27歳の入学者がいるなど、最高年齢はかなりばらつきがある。障害者向けの学校はさらに幅広く、例えばある県の盲学校は、昭和初期の初等部の第一学年入学時年齢は6歳から15歳、中等部の入学時年齢は12歳から44歳と幅広く、また他県の聾唖学校の初等部も年齢的に幅広い。また、中学校などの落第・及第の統計も取られており、落第者の比率は、明治末期では中学校で1割程度、高等女学校ではわずかであり、昭和初期には低下が見られる。1945年の太平洋戦争の敗戦を受けて、1947年に学制改革が行われた。これによって義務教育年限は9年間となり、年齢相当学年(後述)からの飛び級は禁止された。終戦からしばらくの間は、小中学校は基本的には年齢主義であるものの、貧困から学齢を過ぎて就学する人、学齢期でも周囲の児童より年齢が高い児童なども多く、欠席日数などによる原級留置などもあり、飛び級禁止になった以外は課程主義の要素も残った。しかし徐々に同一学年同一年齢になってゆく。もっとも、小中学校における原級留置については、後述のように統計は存在しないので数値的には判断不能であるが、時代を下るにつれて減ってきているといわれる。一方、就学猶予と就学免除については、統計では1970年代を境として著しく減少しているが、これは小学校入学者のうちの就学猶予経験者が激減したということを表しているわけではなく、1979年に養護学校が義務教育学校となり、重度障害児も全員入学できる制度になったことが大きく影響している。学制改革以来、21世紀までに学校制度はほとんど変更されていない。一方、義務教育期間の終了基準については、学制発布当初から年齢主義と課程主義の併用によって決定されていたため、一定の教育課程を修了していない場合は、学齢を超過するまでは就学義務が存在した。たとえば小学校令(明治33年)では、「尋常小学校ノ教科ヲ修了シタルトキヲ以テ就学ノ終期トス。」となっており、学齢期は6歳から14歳までの8年間であった。このように当時は義務教育期と学齢期が違う概念だった。この課程主義は、1941年の国民学校令によって「満14歳ニ達シタル日ノ属スル学年ノ終迄」とされて完全な年齢主義に転換するまで続いた。以後、現在に至るまで義務教育期間の終了基準は年齢主義である。これについては「義務教育」の記事で詳述する。なお、戦時中は徴兵の観点から、男子に対しての定時制義務教育として青年学校制度が制定された。これも同年齢層に対する教育が前提であった。なお、戦前は出生届に医師の証明書が必須ではなかったため、恣意的に戸籍上の生年月日を操作することも可能であった(特に丙午に当たっていた1906年(明治39年)など)。戦後生まれでも大島健伸の様に、学校入学時期を早めるために生年月日を偽った例もある。よく学校は知育・徳育・体育の場であるといわれるが、学校が同年齢集団となる場合、知育の場としての性格が薄れて行く傾向が見られる。前述の通り、江戸時代においては寺子屋などの私塾が読み書きそろばんの習得の場であった。畿内では男性の識字率がかなり高く、これは寺子屋の貢献が大きいといわれる。明治時代に学校制度が施行されてからもしばらくの間は、小学校は進級試験のある課程主義で運営され、それまでの寺子屋に代わる日常生活のための識字の場であり、また立身出世のための学問の場でもあった。しかし軍国化がすすむに伴い、知育よりも軍役に耐える国民を作り出すための体育が重視され始め、国民学校制度の頃にはほぼ年齢主義となった。戦後もこの影響は払拭できず、ほとんどの小中学校は同学年=同年齢の集団に対する教育の場と位置づけられた。年齢主義を徹底すると、学年は能力に応じて所属する教育の場ではなく、同年齢者の集合する場となるため、様々な個別化教育を行わないと能力に合った教育が難しくなる。しかしながら、日本では諸外国のように個人の能力差に応じた教育があまり行われなかったため、学習指導要領が簡素化されてからは学校で十分に進学のための知識を習得することは難しくなり、学習塾が人気を呼ぶこととなった。進学志向の強い生徒や家庭は、公立の小中学校では高校受験や大学受験に適した学力を身につけることは困難だと判断し、学習塾や予備校や学習参考書や通信教育を利用し、独学傾向が強まって行った。また、長期欠席生徒が進学を目指す場合もそうならざるを得ない。こうなると小中学校は学力を身につける場という性格が薄れていき、通塾率の高い地域においては、学校は社会教育の場、塾は受験勉強をする場という住み分けすらなされている。一方、私立学校においては知育重視の教育をするところもあり、必ずしも学校離れが起きているわけではない。このように、江戸時代における知育の場は寺子屋などの私塾であったが、明治時代にはそれが小学校になり、高度経済成長期以降には再び学習塾や予備校などの学校外教育機関に戻るという変遷をたどっている。現代では学校以外にも学びの場所は多いため、相対的に学校の魅力や必要性が低下している。こういった状況は、塾の費用を負担できない階層や教育に対する意識が少ない階層にしわ寄せが行くため、学力格差・教育格差や学力低下としてよく批判される。しかし、日本ではすでに識字率が高止まりし、それ以上の学校知があまり社会で役に立たないという共通認識も強いため、あまり深刻には受け止められていない。ただ、中学校までもが幼稚園と同じように同年齢教育の場になっているため、学習者の年齢によっては学校教育が受けられず、独学や学習塾などに頼るしかないという本末転倒な状況は依然として存在する。日本の学校教育は、法制度における規定(建前)と実際の運用(実態)が異なっている場合や、教育者の目標(建前)と生徒・親の行動(本音)が異なっている場合がかなり存在する。これは特に在学年齢について著しいため、初学者にとっては非常に理解しづらい。そのため、まずは「制度と実態が大きく乖離している」と認識することが実態を理解する上での近道である。現代の日本では、以下のように就学前の教育施設および児童福祉施設と、前期中等教育までの学校と、後期中等教育以上の学校で大きく年齢主義と課程主義の運用方法が分かれる。法律上は、在学年齢に上限があるのはグループ1のみで、グループ2以上は上限がないとされているが、実態はそれほど単純ではなく、年齢によってかなり縛りがあるということが重要である。(上記のグループの名前は本記事のみで通用する区分である)ただし、中学校の夜間学級・通信教育課程のようにグループ2に所属しながら実態はグループ3のものとなっているという場合や、特別支援学校の小学部・中学部などのようにグループ2に所属しながらグループ3の特徴もあわせ持っているという場合もあり、必ずしもすべての学校で明確な区切りがあるわけではない。グループ1のうちの就学前教育を行う施設は、法制度上も年齢主義での運用となっており、実態も年齢主義での運用となっている。このため、所属するのは幼児のみである。グループ2の小学校・中学校などでは、基本的には年齢主義を取っており、複式学級を除けばある学年に所属する児童生徒はほとんどが同一年齢である。制度上は原級留置など課程主義的な運用も可能であるが、実際には成績不良・長期欠席でもほとんど進級・卒業をさせており、生徒が「今の学年にとどまりたい」と希望し、かつ保護者がこれに同意してもほぼ強制的に進級させられるケースもある(後述の裁判例を参照)。この理由としては、年齢主義で運営してきた長年の習慣があることと、学校教育法で義務教育期間の終了を年齢基準としていることがあげられる。ただし、必ずしも硬直的な年齢主義のみで運営されているわけではなく、原級留置や就学猶予は皆無ではない。一方、年齢相当学年(後述)を超える飛び級については、一律禁止となっている。公立学校では学年内能力別教育はあまり存在しない。日本では4月1日時点で満6歳から満14歳である人に対し、学齢期という呼び方がなされ、日本国民にとっては学齢期は義務教育期と同等となっている。また、通常は初中等教育が学齢教育期の教育を行っているため、グループ2の学校は学齢期の児童生徒がほとんどを占めている。(要推敲)学齢は在学年齢の下限を定める物であるが、上限を定める物ではないため、学齢未満の者の在学は不可能だが、学齢超過の者の在学は可能である(学齢を参照)。初中等教育の学校に在学している学齢超過者は0.49%程度であり(学齢を参照)、かなり少数派である。グループ3の高等学校・大学などでは、基本的には課程主義を取っており、出席日数・成績が不良の場合は進級・卒業できないが、高校(特に全日制高校)においては年齢主義的な要素もある。また、近年では高校2年からすぐ大学に入学できる飛び入学や、大学の早期卒業、大学院への飛び入学などの制度が行われ始めており、年数主義も弱まり始めているが、やはり大幅な年限短縮は不可能であるため、年数主義が強いといえる。これらの学校では、生徒学生が何歳で在学しているかよりも、何年間在学しているかの方が重要であるため、年齢主義の色彩は薄いが、課程主義であるとともに年数主義であるといえる。高等学校における原級留置は年間0.6%程度であり、諸外国と比較すると少ない。これは年数主義かつ履修主義であるといえる。また19歳以上の生徒も少ないため、ある程度年齢主義であるともいえる。大学における留年は、国立大学が10~20%、私立大学が5~10%程度であり、諸外国と比較すると少ないものの、ある程度課程主義的になっている。より詳細な情報は、#日本における学校ごとの現状を参照。日本において年齢と入学できる学校の関係は以下の一覧のとおりとなっている。以下の2の学校では3の学校に入れる年齢である人の新入学・転入学・編入学・在学などがきわめて少なく、また3の学校でも4の学校に入れる年齢である人の新入学・転入学・編入学・在学などが少ない(過年度生も参照)。大学・大学院では飛び入学・早期卒業があるため、表の年齢よりも低い年齢での所属がありえるが、それ以外の学校種においては、表内の年齢下限は厳格である。また大学校は独自にさまざまな年齢制限を設けている。より詳しい表は「学校制度」を参照。日本では学校の報告による正確な在学年齢統計が存在しないため、本人または家族の申告による国勢調査の不正確なデータを参考として利用せざるをえない。ここで掲載するのは、2000年9月30日時点の国勢調査を基にした統計である。回答は自己申告のため、正確ではない可能性がある。また表示されている年齢は9月30日時点の年齢であるため、学年基準(4月1日時点の年齢)と一致しないため、特に低年齢生徒と高年齢生徒の境界部分が分かりにくくなっている。そのため、出生日による調整として、便宜的に境界年齢の上の側の1歳分の人数の半分相当の人数を加算した数値も併記し、円グラフではその部分を色分けしている。他にも高等専門学校(15歳から入学可能)と短大(18歳から入学可能)など、複数の学校種がまとめて統計されているため、この国勢調査の在学年齢統計は、さほど精密な統計ではないとみなすべきである。ここで算出しているのは、小学校・中学校とその同等学校については、16歳以上の児童生徒または学齢超過児童生徒かどうかの統計であり、高等学校とその同等学校については、19歳以上の生徒または「3年制高等学校の卒業可能最低年齢」超過生徒(学年初日で18歳以上である生徒)かどうかの統計である。また、この統計では第何学年に所属しているかが不明であるため、原級留置や就学猶予などによって「学年相当年齢よりも高年齢」となった学齢・卒業可能最低年齢以下の高年齢児童生徒を把握できない。よって高年齢児童生徒はこの統計の数字よりもかなり多く存在すると考えるべきである。2000年の国勢調査を見ると、小学校・中学校などではかなり年齢的な集約性があることが分かる。高校などにおいても、その傾向は見られる。多数派の年齢より高い年齢の在学者もある程度見られるが、実際には入学や在学などにはさまざまな困難が付きまとう。一方、大学などにおいては卒業可能最低年齢を超えている学生は少数派ではあるものの、ある程度多く存在する。後述のように、統計上は大部分の学校種で年齢主義は年代を追うごとに緩和しているという結果がでている。しかし、高等教育段階も含め普遍的にそういう傾向が生まれているとは限らず、そういった年齢多様性が高い学校あるいは課程の中においてのみの現象にとどまっている可能性も否定できない。それは、日本の企業社会の間には依然として年功序列制や新卒一括採用などが根強く残っていることも主な原因の一つである。最新の国勢調査は2010年であり、在学年齢にかかわる部分は2012年ごろの公表が予定されている。国勢調査は5年に1回だが、小規模調査では学校の統計は取らないため、2005年調査にはこのデータはない。web上には1980年以降のものしか掲載されておらず、1970年以前のデータは存在するものの、図書館などに行かなければ入手できないため、加筆していない。「小中学生数」は、小学校と、中学校と、盲学校・聾学校・養護学校の小学部/中学部の児童生徒についての統計である。小学校/小学部と、中学校/中学部は一緒に統計されているため分離できない。「高校生数」は、高等学校と、盲学校・聾学校・養護学校の高等部の生徒についての統計である。高等専門学校は入っていない。専修学校も入っていないとも思えるが不明である。数値算出の詳細は脚注を参照のこと。なお、国勢調査では小学校と中学校が分離されずに集計されているため、中学校分のみを算出するには推計に頼るしかない。これらの過去のデータから見ると、中学校・中学部の16歳以上の児童生徒の比率は20年間で2.2倍に、高校・高等部の19歳以上の生徒の比率は1.7倍に増えている傾向が分かる。高校は1990年以降の伸びが大きい。この統計からは小中学校において原級留置が増えているのか高年齢入学が増えているのかはわからない(高校は原級留置と過年度生の統計があるが、中学にはどちらもない)。90年代から不登校生徒が急増し、長期欠席を理由とする原級留置はあまり見られなくなってきたとの説明が良く聞かれるが、実際の統計上は高年齢生徒が増加していることが分かる。ただし中学校においては、2クラスに1人の割合でしか学齢超過者が存在しないという結果であり、年齢的な多様性はきわめて低い。学齢超過の生徒といえば夜間中学校に通っているというイメージもあるが、夜間中学校の生徒数は2000年当時は約3000人であるため、94%以上は全日制の中学校・中学部(または小学校・小学部)の生徒であることが分かる。また特別支援学校の在籍者も少ない。中学校・中学部について、出生日による調整をして20歳以上の児童生徒(年度内に20歳になる場合を含む)を推計すると、1万3827人よりやや多く存在することになる。同様にして30歳以上の児童生徒(年度内に30歳になる場合を含む)を推計すると、1582人よりやや多く存在することになる。なお16歳の小中学生と全小中学生の比較では、80年は0.060%、90年は0.135%、00年は0.125%と、伸びはストップしており、90年以降の伸びは17歳以上の構成者が多いことが分かる。19歳の高校生の比率については、3つの回ともあまり変わりはない。「高等専門学校生・短期大学生・専門学校生数」は、高等専門学校と、短期大学と、専門学校の学生についての統計である。「大学生・大学院生数」は、四年制以上の大学と、大学院の学生についての統計である。これらの過去のデータから見ると、高等専門学校・短大・専門学校の21歳以上の学生の比率はこの20年間で1.5倍に増えているが、大学・大学院生の23歳以上の学生の比率は1.2倍にしか増えていないことがわかる。高等専門学校・短大・専門学校の場合は1990年に落ち込んでいるが、理由は不明である。大学・大学院の23歳以上の人の比率については、大学の総数が増え、入学難易度が落ちたことから、浪人をせずに入学する人が多くなっているのが、増加を押さえている一因であると考えられる。25歳以上の人の比率については、大学院重点化による大学院生の増加と、生涯学習の機運の高まりによる高年齢大学生数の増加が影響し、ある程度増加していると考えられる。粗就学率と純就学率の比率により
出典:wikipedia
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