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ARTA

ARTA(エーアールティーエー、)は、元F1ドライバーの鈴木亜久里とオートバックスが提携して1997年に設立した日本のモータースポーツプロジェクト。設立当初の名称は“ARTA F1 Project”であったが、「F1」の文字を正式な許可なく使用したことが問題になったので、後に“ARTA Project”のみに変更された。正しい読みは「エーアールティーエー」だが、参戦当初のレース中継では「アルタ」とも呼ばれていた。F1でチャンピオン争いをできるような世界に通用するドライバーを発掘・育成することを目的に設立されたプロジェクトである。レーシングカートの大会「ARTAチャレンジ」を主催し若年層の才能発掘と育成を目指す他、下位カテゴリーに参戦する若い才能へのサポートを行い、レーシングチームとしてはフォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権(JGTC、現 SUPER GT)に参戦。2001年には同プロジェクトの支援を受けた金石年弘が、ドイツF3のシリーズチャンピオンに輝いているほか、2003年には金石勝智をドイツツーリングカー選手権に送り込むなど、ドライバー支援のかたちでのスポンサードも積極的に行っている。2007年にはARTAとして参戦、あるいはドライバーのサポートを行っているカテゴリーがとモータースポーツの底辺から頂点までを占めるようになり、世界最大規模のレーシングプロジェクト体系となった。しかし、2007年限りでIRLから撤退。2008年にはスーパーアグリF1チームがシーズン途中で撤退。2009年は経済情勢の悪化から、フォーミュラ・ニッポン参戦を断念するなど活動規模は縮小傾向にあるが、現在も日本有数のレーシングチームの1つである。フォーミュラ・ニッポン発足時(1996年)から参戦していた「FUNAI SUPER AGURI(フナイ・スーパーアグリ)」が、1998年より「ARTA」となる。2002年までに優勝は3回のみで、いずれのシーズンもチーム・ドライバー共にチャンピオン争いに大きく絡むことはなかった。2003年はチームルマンとのジョイントチーム「Forum eng, ARTA Team LeMans(フォーラムエンジニアリング・エーアールティーエー・チームルマン)」で参戦したが、実質的にはチームルマンそのものであり、この体制は1年で終了。このシーズンをもってシリーズから一時撤退した。2006年より参戦を再開。メンテナンスはSUPER GTと同様に童夢へ委託。予選での速さはみせるものの、決勝での結果には結びつかず、同一の態勢で臨んだ2007年も精彩なくシーズンを終えた。2008年には自社メンテ体制に変更するも状況は変わらなかった。経済情勢の悪化などもあって、2009年より再び参戦を休止している。1998年・1999年にはスカイラインGT-Rで参戦した。2000年よりホンダとジョイントし、マシンをNSXに変更。初年度はオーナードライバーの亜久里に加えて土屋圭市がドライブした。2001年より亜久里に変わって金石勝智がドライブし、この年、最終戦までタイトル争いを演じた。2003年は金石勝智のドイツツーリングカー選手権(DTM)参戦に伴い、従兄弟の金石年弘がドライブ。この年で土屋圭市が現役ドライバーを引退した。2004年はDTM帰りの金石勝智と伊藤大輔がドライブした。この年は前年に引退した土屋圭市が監督に就任。しかしこの年はマシンの不調もあり、わずか2ポイントしか獲得できなかった。2005年からはTeam Honda Racingとして、TAKATA童夢NSX同様ホンダワークスとなり、総監督に鈴木亜久里、監督に童夢の中村卓哉を迎えた体制となり、ドライバーも昨年に引き続き伊藤大輔がドライブし、もう一人は当初ジョナサン・コシェだったが、開幕直前に元F1ドライバーのラルフ・ファーマンに変更した。シーズン序盤はやや苦戦気味であったが、第3戦(セパン)から他チームに先駆けてターボエンジンからNAエンジンへの換装を機に復調。ポールポジションを3回獲得し、第7戦(オートポリス)では見事ポール トゥ ウィンで優勝を遂げ、最終戦までチャンピオン争いを繰り広げた。2006年も引き続き伊藤大輔とラルフ・ファーマンのコンビで参戦。開幕戦では圧倒的な速さでポールポジションを獲得したが、なかなか優勝することができないでいた。しかし第4戦(セパン)でポール トゥ ウィンを飾る事ができた。一時はポイントランキングトップにつけるも後半戦で不運に次ぐ不運により後退。ランキング7位でシーズンを終えた。2007年はTeam Honda Racingを解散し、再びARTAとして前年と同じ布陣で参戦する。開幕戦(鈴鹿)では最終ラップでリタイヤしたものの圧倒的な速さを見せ(予選では鈴鹿におけるGT500のコースレコードを樹立した)、第2戦(岡山)、第5戦(菅生)で優勝し早くも2勝を上げる。さらに勢いは止まらず、最終戦を前にした第8戦(オートポリス)で優勝を飾り、ARTA NSXはHONDAにとって2度目となるシリーズタイトルを最終戦を待たずして獲得した。これはJGTC時代を含めてGT500史上初めてのことである。2008年は、メンテナンス体制が自社(スーパーアグリカンパニー)メンテ体制に回帰することになり、再びサテライトチームの位置づけに戻ることになった。ドライバーも伊藤大輔がトヨタ陣営のチームルマンに移籍したため、ラルフ・ファーマンがエースの役目を果たす一方でパートナーには新たにルーキーの伊沢拓也が選ばれることになった。NSX最終年となった2009年は、前年に引き続きラルフ・ファーマンと伊沢拓也のコンビで参戦、第7戦(富士)と最終戦(もてぎ)で2勝を挙げ、ランキング2位でシーズンを終えている。2010年は、車両もHSV-010 GTに変更した。第6戦鈴鹿では、このレースのために第3ドライバーとして登録していた小林崇志がGT500史上最年少となるポールポジションを獲得し、レースも優勝を飾った。しかし、これ以外は精彩を欠き、シリーズ11位でシーズンを終えた。2011年は、小林崇志がレギュラーに昇格し武藤英紀とコンビを組んだが、チームランキング15位、ドライバーズランキング14位と低迷した。翌2012年は武藤に代わってラルフ・ファーマンが復帰したが、チームランキング15位、ドライバーズランキング16位に終わる。HSV-010最終年となる2013年は、前年までGT300クラスに参戦していた松浦孝亮が小林崇志と入れ替わりラルフ・ファーマンとコンビを組んで参戦。
第4戦菅生、天候が目まぐるしく変わった影響でトップグループが集団クラッシュすると、その間隙を突いて残り9ラップでDENSO KOBELCO SC430の脇阪寿一、KeePer TOM'S SC430の伊藤大輔の元ARTAの2人を一気に抜き去り、残り9周でトップに立つ。ファイナルラップ、GT300クラスのトップARTA CR-Z GTに追いつくと、そのままランデブー走行を繰り広げ2台同時にトップチェッカー。ARTA HSV-010にとって3年ぶりの優勝、ARTA初の両クラス同時優勝を飾った。2014年はファーマンに代わって元F1ドライバーのヴィタントニオ・リウッツィを起用、松浦とコンビを組んだ。チームランキング14位、ドライバーズランキング16位。2001年にトヨタ・MR-Sで参戦を開始。2002年には新田守男・高木真一のコンビでシリーズチャンピオンを獲得した。2003年にマシンをオートバックスが独自開発したガライヤにスイッチする。この年はコーナリングはいいものの、日産から供給されたSR20DET(シルビアと同一エンジン)がパワー不足で、不本意な成績に終わる。翌2004年にはエンジンを同じ日産製のVQ35DE(GT300クラスに参戦したフェアレディZと同一エンジン)に換装するなどのパワーアップを図り、2連勝するなど活躍しチャンピオン争いをするが、惜しくも1ポイント差で敗れる。2005年も第7戦(オートポリス)までポイントランキングトップだったが、最終戦で惜しくも敗れ、シリーズ総合3位に終わっている。シーズン中に、監督の『チャンピオンになれなかったらチーム解散』という一言があったことから、この年を限りに参戦を終了することとなった。しかし、2007年に鈴木亜久里の「プロジェクト発足10年目という節目の年に、どうしてもガライヤを走らせたかった」という思いから、再び2005年と同じ布陣での参戦が決まった。1年のブランクがあったものの元々速いマシンが故か、公式テストでは他に引けを取らないポテンシャルを見せた。シーズンでは開幕直後こそトラブル等で芳しくない成績を残していたが、第3戦(富士)ラウンドで見事に優勝を果たしている。しかし中盤はは不運に見舞われることが多くなかなか結果が残せなかったものの、第6戦と第7戦で連続表彰台で巻き返しを見せチャンピオン争いに残ったが、結局シリーズ4位という結果に終わりタイトル獲得には至らなかった。2008年も引き続き同じ体制で参戦することになった。マシンは前年度同様ガライヤであるが、シャシーが新造されており、第2戦(岡山)と第5戦(菅生)で優勝、シリーズ2位でシーズンを終えた。2009年も前年同様の体制で参戦し、第3戦(富士スピードウェイ)で優勝、チームランキング4位、ドライバーズランキング5位でシーズンを終えている。2010年も新田・高木コンビで参戦を続けたが、シーズンは未勝利、ランキングも最終戦でフェアレディZに乗るハセミモータースポーツの星野一樹、柳田真孝組に逆転チャンピオンを許し、ランキング2位に終わった。2011年は新田守男がチームを離れ、代わりのドライバーとして松浦孝亮を起用。さらに、それまでGT300クラスにはタイヤ供給を行っていなかったブリヂストンがガライヤのためだけにGT300用タイヤを開発・供給するという体制で挑んだが、結果はドライバーズランキング12位、チームランキング10位に終わり、ガライヤ最終年の2012年も同様の体制で、ドライバーズランキング9位、チームランキング8位に終わった。2013年は、マシンをホンダ・CR-Zに変更し、カーナンバーも43から55に変更される。ドライバーは前年までGT500クラスに参戦していた小林崇志が松浦孝亮と入れ替わり、高木真一とコンビを組む。
第3戦マレーシアで見事優勝し、CR-Z GTの初勝利、GT300におけるブリヂストンの初勝利、16号車の無限CR-Z GTとともにワンツーフィニッシュを飾った。
続く第4戦菅生でも速さと戦略の巧さを見せ優勝。2位に無限CR-Z GTが入り、2戦連続CR-Z GTのワンツーフィニッシュとなった。また、ファイナルラップで追いついたGT500のトップARTA HSV-010とランデブー走行し同時トップチェッカー、ARTA初の両クラス同時優勝を果たした。チームランキング、ドライバーズランキングいずれも7位。2014年は2013年と同様の体制で第3戦(オートポリス)で優勝、チームランキング10位、ドライバーズランキング11位。2016年は昨年でCR-Z GTでの参戦を終了したGT300クラスでは、新たにBMW M6 GT3を投入することを正式に発表した。ドライバーは昨年と同様、高木真一と小林崇志が起用されている。2003年よりエイドリアン・フェルナンデス率いるフェルナンデス・レーシングと提携し「SUPER AGURI FERNANDEZ RACING(スーパーアグリ・フェルナンデス・レーシング)」としてインディカー・シリーズに参戦。ドライバーにはロジャー安川を起用。2004年からドライバーを松浦孝亮に変更。松浦はこの年のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。2007年は提携先をパンサー・レーシングに変更し「SUPER AGURI PANTHER RACING(スーパーアグリ・パンサー・レーシング)」として参戦したが、目立った成果をあげることなくこの年をもって撤退した。前述の通り、スーパーアグリF1チームとして、2006年からF1世界選手権に参戦を行っていた。チーム自体はARTAの直接運営ではないが(殆どが元アロウズやラルースのスタッフで運営)、オートバックスがスポンサーシップを行い、オートバックスモータースポーツのCMに登場し、ARTA関係のイベントに登場し、ARTAのホームページ上でもARTA体系の頂点と記されるなど、ARTA Projectの一部として見做されている。これにより、ARTAはモータースポーツの底辺であるカートから頂点のF1までを網羅するレーシングプロジェクト体系を完成させ、スーパーアグリF1チームにARTA出身の井出有治を迎えることで、設立の目的である「世界に通用する人材(ドライバー)を育て底辺(カート)から頂点(F1)までの道筋を示す」を達成した。
チームは2008年シーズン途中で資金面の問題が立ち行かなくなり、グランプリ撤退、解散した。

出典:wikipedia

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