露仏同盟(ろふつどうめい、ロシア語 )とは、フランスとロシアの間で成立した軍事同盟。1891年より両国の交渉が公然化し、最終的には1894年1月4日に締結された。ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行うことが定められた。1890年、ドイツ帝国の宰相・ビスマルクの辞任にともない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視する観点から対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体制参照)、この年より親政を行う皇帝・ヴィルヘルム2世はこのことに固執しなかった。そして、1887年より継続していた独露再保障条約が更新されないことになった。ロシアはクリミア戦争やシベリア鉄道等に多額の融資を必要としてきた。この需要に対して各国同様、ドイツの銀行団も貸していた。ロシア・ドイツ間の取引は1822年の600万ポンド借款までさかのぼる。翌年にはベアリングス銀行とホープ商会の協力を得て4千万ルーブルを起債した。しかしドイツも大不況とカルテルで余所に資金を回す余裕がなくなって、ロシア国債の引受を断るようになった。それでも海底ケーブルを使える時代となっており、特にロスチャイルドは独仏の身内が通じていたので、早々と1888年11月12日の機密第73号電報で、募集額5億フラン中、フランス銀行団が3億2500万フランを引き受け、残りはロンドン・アムステルダム・ベルリンおよびサンクトペテルブルク数行のシンジケートが引受けると発電されたのである。気をよくしたロシアは翌年にも7億フランと12億フランの外債をパリ証券取引所で募集し、引き受け手を見つけることができた。ドイツ・オーストリア・イタリアといった中欧・南欧諸国を東西から挟撃する体制によって仮想敵国を三国同盟(のちの第一次世界大戦ではイタリアが離脱し、東欧諸国およびオスマン帝国などが加わる中央同盟が成立する)に設定した同盟とはいえ、同盟の成立当初においては露仏同盟と三国同盟が必ずしも戦争に至るような対立関係にあったわけではない。当時のヨーロッパ王室・帝室の常としてロシア皇帝ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が縁戚関係だったこともあり、日清戦争後の三国干渉(1895年)をロシア・フランス・ドイツが行ったように、各国ごとの国益によっては連携する余地も存在していた。むしろ、同盟成立当初においてロシア・フランスの両国にとって懸案だったのはイギリスであった。ロシアにとっては中央アジア・イランなどでの南下政策の妨げであり、フランスにとっては自国の「アフリカ横断政策」の妨げとなっていたのが3C政策をとるイギリスだったからである。しかし、ヴィルヘルム2世は世界政策(新航路政策)を掲げ、艦隊法の制定以降イギリスとの建艦競争に突入した上、中東進出(いわゆる「3B政策」)を企図してロシアとの関係も悪化させた。その結果、露仏同盟は対独同盟としての性格を強め、のちの英仏協商、英露協商と結びついて対独包囲網の一角を担うことになった。露仏同盟は露清銀行を代表とする外資の呼び水となった。1891年より建設に着手するシベリア鉄道等、ロシア企業へ巨額の外資、特にベルギー資本が流入した。債権を除いた国別外国投資をフランス・イギリス・ドイツ・ベルギーの順に100万ルーブル単位で記す。1890年は61.4、29.8、68.8、17.1であった。それが1900年に210.1、102.8、197.4、220.1となった。この1900年、ロシアの銀行の総資本に占める外資の割合は28.3%に達していた。巨額の投下資本はロシア革命で回収が問題となってシベリア出兵に発展した。
出典:wikipedia
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