小松線(こまつせん)は、石川県小松市内の小松駅 - 鵜川遊泉寺駅間を結んでいた北陸鉄道の鉄道路線。モータリゼーションの進行による利用者の大幅な減少により北陸鉄道の経営合理化の対象となり、1986年(昭和61年)5月31日限りで全線廃線となった。ほぼ中間に位置する加賀八幡駅が交換駅で朝夕は約20分毎、日中は約60分毎の運行で、廃止時点では一日に20往復が設定されていた。小松線の前身となる白山電気鉄道(免許時白山鉄道)は鳥越村の鈴木源平ほか67名の発起により1926年(大正15年)3月に能美郡小松町-同郡中海間の敷設免許状が下付されたことに始まる。11月に会社を設立し、資本金65万円としたが株金の払込がすすまなかったため不足分を借入金でまかない工事をすすめ1929年(昭和4年)5月になり小松 - 遊泉寺(後に鵜川遊泉寺)間の開業をむかえることになる。ところが開業間もない12月には債権者の訴えにより破産宣告をうけてしまった。これは1930年(昭和5年)4月に抗告により破産宣告は取消となったが、その後も経営者は度々変わり株主総会決議無効確認の訴訟など内紛もあった。負債は累積しついに半額減資しその後175,000円の増資を行って資本金を50万円とした。やがて戦時体制になり鵜川遊泉寺近くの洞窟に海軍軍需部の施設や中島飛行機の疎開工場が建設された。1945年(昭和20年)5月北陸本線の手取川橋梁が破壊された時の迂回路として鵜川遊泉寺-加賀佐野間の免許が申請された。県当局(県警察)は私鉄統合による統制を進めていき、1942年(昭和17年)に発足した北陸鉄道により統合は具体化していったが、最後に残った小松電気鉄道は浅野川電気鉄道とともに合併には否定的であった。しかし北陸鉄道に県警察部の推薦で支配人に入った前保安課長西村朝栄が合併につとめ、反対していた社長の町谷彦作を小松署に拘留している間に北陸鉄道への統合を完成させた。戦後は通勤・通学の足として1967年(昭和42年)には約212万6000人の利用客があった。しかし以降は並行道路の整備により利用客は急減。1983年(昭和58年)には約62万3000人まで落ちこんだ。駅の無人化など経費の削減をしたが収支は悪化するばかりでついに1984年(昭和59年)に小松市長に小松線廃止の申し入れを行った。折衝は道路整備の遅れもあり難航したが1986年(昭和61年)にバス代行に同意するにいたり同年5月31日限りで小松線の運行を終了することになった。小松線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。小松線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。駅名および所在地は廃止時点のもの。全駅石川県小松市に所在。
出典:wikipedia
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