元木 大介(もとき だいすけ、1971年12月30日 - )は、大阪府豊中市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。2013年現在は、野球解説者(TBS「S☆1」、日テレG+「徳光和夫の週刊ジャイアンツ」、「TBSラジオ エキサイトベースボール」TBSラジオ)、タレントなどとして活動中。所属事務所はケイダッシュグループのアワーソングスクリエイティブ。幼少時代は南海ホークスファンで、たびたび大阪球場に足を運び、ホークス友の会に入会していた他、南海OBによって運営されていた少年野球チーム・ジュニアホークスにも入っていた。小学6年生の頃、当時巨人の監督だった王貞治と対面し、一緒に記念撮影をした際、「プロ野球に入るなら巨人に来いよ」と激励された事に感激して以来巨人ファンに転向したという。上宮高校で甲子園に3回出場。1989年の夏の甲子園では1試合2本塁打を放つなど注目された。同校では種田仁、小野寺在二郎、星田英利(お笑い芸人)とチームメイトである。高校通算24本塁打。甲子園通算6本塁打は清原和博に次いで歴代2位タイ(桑田真澄と同数)の記録である。当時はその端正なマスク、スターと言われた外見とは裏腹に、あまりに唐突な発言の連発でチームの人気者となり、キャプテンに選ばれた。殺到するファンを避けるどころか、気さくな笑顔で手を振って応じるなど、それまでの人気選手の立ち振る舞いとは一線を画していた。別の高校に進学した先輩にもきちんと挨拶に行く等、礼儀正しい選手だった。3年時の夏は大フィーバーで、大阪大会や甲子園練習には女性ファンが殺到。開会式当日、出場校は球場の外で待機することになっているが、混乱を避けるために上宮だけ隔離されるという異例の措置も取られた。1989年の夏の甲子園3回戦の対八幡商で内野フライを放ち、1塁へ走るのをやめたことがあった。ところが、そのフライを相手内野手が落球。走るのをやめてしまっていた元木は1塁でアウト。ベンチに戻ってきたところを山上監督に怒鳴られるシーンが全国に中継された。1989年10月15日に電車の中で当時の近鉄バファローズ監督・仰木彬と乗り合わせ、握手をしてもらっていた。当日は近鉄の優勝が決まるかというタイミングで仰木の出勤シーンを撮りにテレビのカメラマンがついてきており、その模様がニュースで放映されていた。同年のドラフト会議では読売ジャイアンツの指名を希望するが、巨人は大森剛を1位指名。福岡ダイエーホークスから野茂英雄の外れ1位で指名されるがこれを断り、1年間ハワイに野球留学する。実際にはハワイの環境では本格的な野球練習は出来ず、大学・社会人に進むと次回ドラフト指名まで年数がかかるためそれを避ける行動だったといわれる。この野球留学中、ベニー・アグバヤニ(元・千葉ロッテマリーンズ)とチームメイトになり、知り合いになったという。1990年のドラフト会議で巨人より1位指名を受けて入団する。1992年から1軍で出場。バッテリーを除く全てのポジションを守れるユーティリティープレイヤーとして活躍する。オールスターゲームでは、初出場の98年は遊撃手、翌99年は三塁手のファン投票で選ばれるも、98年は代打のみ、99年は二塁手で試合に出場した。この事について元木は「オールスターくらい選ばれた所で出たいよ」とトークショーなどで笑いながら語っている。2000年9月24日東京ドームでの中日ドラゴンズ戦で「2番・左翼手」として先発出場し、8回まで被安打5・無四球無失点と、好投を続けていた前田幸長からライト前ヒットで出塁、2番手エディ・ギャラードから江藤智が同点満塁弾、二岡智宏がサヨナラホームランを放ち、巨人が4年ぶりにリーグ優勝を決定する口火を切った。2003年以降は度重なる故障に悩まされ、2005年は堀内恒夫監督のチーム若返りの方針により後半戦は戦力構想から外れて2軍生活を送ることとなり、活躍の場を失った。首脳陣への当てつけか、自軍ダグアウトのベンチ・椅子ではなく、階段に体育座りしていたようなところもあった。その年の9月に戦力外通告を受ける。オリックスや楽天などから入団の誘いがあったものの、浪人してまで巨人入団を1年待った経緯もあり、「ジャイアンツが好きだから、入団したときからこのチームでいらないと言われたら辞めようと決めていた」と33歳の若さで現役を引退。後藤孝志と共に自ら身を引く形となった。世代交代する巨人に迷惑をかけたくなかったという。最終戦で引退試合に出場した。2005年シーズンオフから日本テレビ系列のTHE・サンデーのスポーツコーナーにレギュラー出演、2006年よりTBSラジオ野球解説者、スポーツ報知評論家となった。30代半ばの時期は若いこともあり、中継の際は必ず年上・年下問わず「XX選手」と言うようにしていた。2007年から、マスターズリーグ・東京ドリームスに参加している。内野手登録で、背番号は2となっている。バラエティタレントとしても活躍する傍ら、2010年9月に仲御徒町、2012年9月には広尾にラーメン店「元福」をオープンしたものの両店舗ともに閉店。2013年6月から足立に本店を構えたが2014年暮れに閉店した。後に、それに関しては、しくじり先生に出演した時に語った。高校時代は甲子園通算6本塁打を記録したスラッガーだったが、プロ入り後はつなぎ役に徹していた。また1998年には得点圏打率1位に輝くなど勝負強かった。守備では内野ならどこでもこなす他、外野手としても出場した。出場試合数が一番多かったのは三塁である。清原和博とは親交が深く、巨人時代から清原の子分と書かれることが度々あった。清原は「広沢さんと元木がいなかったら自分はどうなっていたか」と語り、元木は親分と慕う仲である。ただし、プライベートの付き合いは少なく、巨人時代は年に2回ほど食事をする程度だったとのこと。清原が引退後も清原と一緒に多くの番組にゲスト出演していて清原のことを語ることが多く、クイズ番組などでは清原のサポート役に回ったこともある。清原が薬物で逮捕後は、清原の事を語ることはなくなり、テレビ出演する機会も減った。年下の松井秀喜からは「大ちゃん」と呼ばれていた。妻は元日本テレビアナウンサーの大神いずみ。日本テレビの番組で知り合い、大神の日本テレビ退社後、2000年に結婚。披露宴の模様は日本テレビ系で生中継で放送された。2006年1月には、第1子となる長男が、2010年8月には、第2子となる次男が誕生している。元木は、結婚式の仲人を当時の監督・長嶋茂雄に依頼。その後、式前のシーズン中、何度か長嶋に妻を紹介しようとしたが、長嶋は「まだまってくれ」、「今はシーズン中だ」と断ってしまい、結局紹介できたのは式の二週間前になったという。大神によると、大変に腹を壊しやすい。料理の内容に気をつけないとすぐトイレに入ってしまうという。また、子育てには一切関わらないという。カレーが嫌いで、大神はメニューに悩んだ際につい作ってしまい、慌てて肉じゃがに変更したりすることがあるという。現役時代、カレー好きの槙原寛己がカレーを食べている時に「人間の食いモンやないですよ」と言ってしまい、槙原に食べていたカレーを顔に付けられた上、1週間カレーの匂いをかがされた。槙原に「ジャイアンツには、変な人間が2人いた。元木と水野です。あの2人はカレーが嫌いだなんて、僕には理解できない」とBISTRO SMAPで述べられた。槙原について元木は自伝『クセ者』の中で「兄弟盃を交わした仲」と述べている。愛車はキャデラック・エスカレード。車内は改造して「走る応接室」と化している。ディズニーマニアを自負しており、ディズニーのことなら何でも知っていると話している。一攫千金!日本ルー列島にゲスト出演した際、珍解答を連発したり、簡単に答えられそうな問題になかなか答えられない姿を見た司会の島田紳助から「ヘキサゴン出られますやん!探してるんですよ、知名度の高いバカ」と言われて同じく司会を務めるヘキサゴンへの出演を勧められる。2009年5月16日の収録の『ヘキサゴンII』内の「みんなで跳ぼう! 縄跳びクイズ!」で、長縄跳びから脱出する際に転倒してアキレス腱を断裂する重傷を負った。該当のシーンは6月10日放送分の同番組でそのまま放送された。
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