ユリウス暦(ユリウスれき)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。本来は共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施するが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域も存在する。平均太陽年を365.25日とするいわゆる四分暦の一種であり、純然たる太陽暦として、1年を365日とする年と366日とする年を設けた。月は従来のローマ暦のものを基本的にはそのまま採用し、月ごとの日数を調整して合計を365日または366日に揃えた。閏日が加えられる閏年は4年ごとに設けられ、ローマ暦時代の閏月と同じく2月に挿入された。正確な1太陽年との間では、1年につき約11分15秒の誤差(2008年)があるが、例えば同時代の中国暦と同様の精度であり、歴史的には特に不正確なものとはいえない。なお、正確に365.25日を1年とする(すなわち、1年 = 31557600 秒 = 365.25日×86400秒)時間単位をユリウス年といい、天文学で広く用いられる。例えば1光年は、真空中の光が1ユリウス年に進む距離である。制定の経緯については、ローマ暦#末期のローマ暦を参照のこと。キリスト教の多くの宗派が同暦を宗教暦として採用してからは、キリスト教の各行事を行う期日としても使われるようになった。しかし、イエス・キリストの処刑と復活の記事は、新約聖書において太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されているため、復活祭の期日は、太陽暦であるユリウス暦の期日では固定できず、季節(太陽年)と月齢(太陰月)の双方に合わせる作業が必要となった。第一次ニケーア公会議は325年に、「春分日であるユリウス暦3月21日の後の最初の満月の次の日曜日」を復活の主日とするように定めた。このように規定した結果、ユリウス暦の誤差が、復活祭の期日制定に直接影響することになった。確かに4世紀にはユリウス暦3月21日頃にあったと想定される実際の天文学的な春分日は、16世紀後半になると、10日も前のユリウス暦3月11日頃に到来するようになっていた。カトリック教会はこの事態を受けて、3月21日を天文学的春分日に出来る限り近づける暦法を制定して改暦することとなった。これがグレゴリオ暦である。1582年2月24日、グレゴリウス13世によってグレゴリオ暦が発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を以って、グレゴリオ暦同年10月15日金曜日とし、以降グレゴリオ暦を実施することとした。しかし、改暦はローマ教皇の独断専行であってニケーア公会議の決定に反するとして、西ヨーロッパでも、プロテスタント地域を中心に、グレゴリオ暦をすぐには採用しない地域が多くあった。それでも、天文学的優秀性から、新教地域でも徐々に広まっていき、1752年のイギリスを最後に、西ヨーロッパの全ての地域が公式にグレゴリオ暦を使用するようになった。更に正教会圏や、他の宗教の地域でもグレゴリオ暦が使われるようになっており、今でもユリウス暦を用いているのは、正教会の一部等となっている(詳しくは後述。またグレゴリオ暦の記事を参照)なお、ユリウス暦は「紀年法」ではなく、「暦法」である。ユリウス暦が採用されていた時代の紀年法には、4、5世紀頃、アレクサンドリアのキリスト教徒が用いたディオクレティアヌス紀元(皇帝ディオクレティアヌスの即位(284年)を紀元とする)、それを6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが525年頃の著書『復活祭の書』(復活祭暦表)でローマ建国紀元754年をイエス・キリスト生誕元年とするキリスト紀元(いわゆる西暦)がある。キリスト紀元は10世紀頃に一部の国で使われ始め、西ヨーロッパで一般化したのは15世紀以降のことであるという。ユリウス暦の閏日挿入の周期の確定は、キリスト紀元の考案に先行するものであるが、閏年は偶然にも同紀元が4で割り切れる年と一致しており、グレゴリオ改暦の際にもこの法則が使われている。紀元9年以降に使われた方式は次のとおりである(紀元8年以前については初期のユリウス暦の運用を参照)。平年の1年の長さを365日とし、これを12の月に分割する。各月の長さは1月から順に次のとおり。西暦年が4で割り切れる年を閏年とし、その4年に1度の閏年は、平年より1日多い366日とするために、2月の日数を1日増やして29日とする。1月は季節でいうと冬至を過ぎた頃になる。現代日本語では各月は1月~12月の数字で表すことが多いが、古代ローマではローマ神話などに基づく固有名があった。これらの月の名は7月、8月を除いてローマ暦と同一である。また、基本的に同一月の季節もローマ暦とほぼ同じである。その名称は現代でも英語・フランス語などのヨーロッパ諸言語にそのまま引き継がれている。紀元前44年から、7月はユリウス・カエサルの名にちなんで「Julius」(「Iulius」)と呼ぶようになった。閏年は4年に1回と決められたが、カエサルの死後、誤って3年に1回ずつ閏日が挿入された。この誤りを修正するため、ローマ皇帝アウグストゥスは、紀元前6年から紀元後7年までの13年間にわたって、3回分(紀元前5年、紀元前1年、紀元4年)の閏年を停止した。紀元8年からは正しく4年ごとに閏日を挿入している。同時に8月の名称を自分の名「Augustus」に変更した。紀元前45年から紀元8年までの間に、どの年に閏年が置かれていたのかについては、詳しい記録が残っておらず、何度か論議になった。紀元前45年から3年ごとという学者もいれば、紀元前44年から3年ごとという学者もいた。1999年にローマ暦とエジプト暦の両方の日付が記載された紀元前24年当時の暦が発見され、それを基にした最新の説によると、紀元前45年から紀元16年までの閏年の置かれ方は次のとおりである。ユリウス暦で人名が月の名となって残ったのは、結局7月の「Julius」(「Iulius」)と8月の「Augustus」だけだった。多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとしたが、残りのすべての改名の企てはその皇帝の死とともに元の月名に戻った。カリグラは9月を「Germanicus」と、クラウディウスは3月を「Claudius」(クラウディウス)と、ネロは4月を「Neroneus」と改名した。ドミティアヌスは10月を「Domitianus」と改名した。9月はアントニヌス・ピウスによって「Antoninus」と改名されたほか、タキトゥスによっても「Tacitus」と改名された。11月はピウスの妻の名をとって「Faustina」にされたり「Romanus」にされたりした。コンモドゥスに至っては月に自分の名をつけるだけでなく、12の月全部の名を変更した。順に「Amazonius」(1月)、「Invictus」(2月)、「Felix」(3月)、「Pius」(4月)、「Lucius」(5月)、「Aelius」(6月)、「Aurelius」(7月)、「Commodus」(8月)、「Augustus」(9月)、「Herculeus」(10月)、「Romanus」(11月)、「Exsuperatorius」(12月)であった。しかし前述したとおり、どの改名もその皇帝が死去するとすぐに元に戻された。もっとも、「Julius」(7月)と、「Augustus」(8月)が本当に人名由来なのか、異論がある。そもそも、他の6つの固有名詞が神名由来なのに、たとえ神格化された人間だとしても、この2つの月の名称だけ人名由来なのは、いかにも据わりが悪い。この2つも神名由来だと考えるのが自然である。「Julius」は氏族名「Jovilios」の短縮形と考えられており、この「Juvilios」氏族はローマの最高神「ユーピテル」に関連する一族、もしくは「ユーピテル」の子孫とされているのである。つまり「Julius」が「ユーピテル」のことを指しているとも考えられるからである。具体的には、次の通りとなる。「Jānuārius」(1月)の境界と時間の神「ヤーヌス」と「Februārius」(2月)の浄罪と贖罪の神「フェブルス」は、概念の上で不可分な、組となっている。「Martius」(3月)は軍神「マルス」=ギリシア名「アレース」を指し、「Aprīlis」(4月)は美の女神「ウェヌス」=ギリシア名「アプロディーテー」を指し、ギリシア神話では「アレース」と「アプロディーテー」は愛人関係であり、組となっている。であれば、「Julius」が「ユーピテル」のことを指しているとすれば、ユーピテルの妻「ユーノー」を指す「Jūnius」(6月)と組になり、また綴りや発音も語呂が合うことになる。「Augustus」(威厳者・尊厳者)も、人間「オクタウィアヌス・アウグストゥス」のことではなく、他の7柱の神々を統合(習合)した「究極の神」「未知なる神」「偉大なる神」を指す尊称とも考えられる。であれば、余った「Māius」(5月)こと豊穣の女神「マイア」は、「Augustus」(8月)こと究極の神「アウグストゥス」と対になる存在と考えられるわけである。そして、この「7柱+1」は「七曜+1」と対応関係にあると考えるのが自然である。むしろ、「七曜+1」に合わせて、「Julius」と、「Augustus」が導入されたとも考えられる。なお、古代ローマでは、一週間を8日(7日+「市の日」)とする観念があったとする説がある。だからこそ、他の皇帝による恣意的な人名由来の名称と違って、この2つの名称だけは現在まで存続していると考えられるのである。そして、9月から12月までが単純な数詞由来であって神名や人名がつけられていない理由も、上記の4組8柱で完成形だからと考えられるのである。13世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコによれば、最初期のユリウス暦での月の長さは、規則的に1ヶ月おきに大の月と小の月がくるようになっていた。サクロボスコによれば、紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数は、1月から順に次のとおりである。この暦の日数はユリウス暦の1年の日数に比べて11日少ない。サクロボスコは、ユリウス暦への改暦の際に2月を除く各月の日数が1日ずつ増やされ、閏日は2月末に付加されるようにした、と考えた。サクロボスコによれば、当初カエサルが制定した各月の日数は次のとおりである(かっこ内は閏年での日数、以下同じ)。そして、皇帝アウグストゥスが8月を自分の名に変更するのと同時に8月の日数を増やし、各月の日数を次のように変更した、と考えた。8月の日数を増やしたのは、自分の名をつけた8月がユリウス・カエサルの名にちなんだ7月よりも日数が少なくなることを嫌ったからだとされる。この結果、大の月と小の月が交互にやってくるというローマ暦の原則が崩された、とサクロボスコは考えた。現在では、ローマ暦末期の各月が大の月、小の月の順に交互にやってきていなかったことがわかっており、サクロボスコの解釈は誤りとされる。ローマ暦末期、カエサルが改暦をする前から3月、5月、7月、10月はもともと大の月で固定されていた。ローマ暦とユリウス暦では大の月の第15日目・小の月の第13日目は「イードゥース」という特別な名で呼ばれていたため、月の日数への言及がなくても、ある年のある月のイードゥースに関する言及があれば、その月が大の月か小の月かを推測できるのである。(ローマ暦を参照)ローマ暦末期の各月の日数は、当時の壁に描かれた暦から、おそらく次のとおりである。サクロボスコの見解は3世紀のや5世紀のとも食い違い、またユリウス暦初期のマルクス・テレンティウス・ウァロによって記録された紀元前37年の暦とも食い違う。また、前述した1999年にエジプトで発見された紀元前24年の暦ではすでに8月の日付が31日まであり、これとも食い違う。ローマ暦は1月1日が新年初日で、これはユリウス改暦後も新年であった。しかし、各地ではユリウス暦の導入後もこれとは異なる日付を新年初日とした。エジプトのコプト暦では8月29日(アレクサンドリア暦の閏年の後では8月30日)に新年が始まる。いくつかの暦では、アウグストゥスの誕生日9月23日に新年を合わせた。ビザンチン暦はインディクティオに由来して9月1日に始まる(これは現在でも正教会の典礼暦における新年である)。中世のカレンダーはローマ人がしていたように1月から12月をそれぞれ28から31日までの日を含む12の縦の列として表示し続けたため、すべての西ヨーロッパ諸国(すなわちローマ・カトリック教会を信奉する諸国)は1月1日を「元日」(または同等の名称)と呼び続けた。しかし、これらの国のうちのほとんどは12月25日(クリスマス)、3月25日(受胎告知、春分の日)、あるいはフランスのように復活祭に新しい年を開始した(詳細については典礼暦を参照)。2、3のイタリア都市国家を除くほとんどの西ヨーロッパ諸国は、グレゴリオ暦を採用する以前のまだユリウス暦を使っている間に(多くの場合は16世紀中に)、新しい年の最初の日を1月1日に移した。以下の表は各国が新年として1月1日を採用した年を示す。現代の西方教会はグレゴリオ暦を使用している。例外として、東方教会に分類されるがローマ教皇の教導下にある東方典礼カトリック教会の中には、ユリウス暦を使い続けているものがある。正教会には現代でもユリウス暦を使用するものがある。ただし全ての正教会がユリウス暦を使用しているわけではなく、修正ユリウス暦と呼ばれる、2800年まではグレゴリオ暦と同じ日付となる新暦を使用している教会もある。ユリウス暦を使用する教会では、21世紀ではユリウス暦とグレゴリオ暦の間に13日の差があるため、日付で固定される祭日は13日ずれて祝われる事になる。たとえば降誕祭(クリスマス)については、ユリウス暦の12月25日は20世紀・21世紀ではグレゴリオ暦の1月7日に相当し、西暦の1月7日に「12月25日のクリスマス」が祝われる。ただし復活大祭(パスハ)の計算のみは、フィンランド正教会とエストニア正教会を除いてユリウス暦で計算され、全ての正教会で祝日の統一が行われている
出典:wikipedia
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