コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド州( اسبان کهگیلویه و بویراحمد Ostān-e Kohgīrūye-o Būyer-Ahmad)は、イランの州(オスターン)。州都はヤースージュ。面積は面積は19,249km²。比較的高地にあり山がちな地域である。統計庁の調査によると、西暦21世紀初めで人口は約80万、そのうち52%が農村部に残りが都市部に居住している。コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド州は4つの郡(シャフレスターン)からなる。現在のコフギールーイェ・ブーイェル=アフマド州の住民の多くはモストウフィーの『選史』に名をあげられるイール・ジャーキー族の子孫である。イール・ジャーキー族はアーリア人でインド・イラン語族イラン語群のうちロル語をこの地域にもたらした。コフギールーイェはアラブの侵入の際にはペルシアの領域の一部であり、ザミーガーンという地方をなしていた。コフギールーイェの人びとは、ヒジュラ暦2世紀終わりから3世紀はじめにかけて、ルーズベという名の長のもとに統合されていた。続いてその子メフルガーン、その弟サルメがコフギールーイェの支配者となった。このときハマーイェガーフという地からこの地に来たギールーイェという者が、サルメの許で権力を築き、サルメが死ぬと政権を握った。彼に対する畏敬の念から、この地域がクーヘ・ギールーイェ(ギールーイェの山)とよび「コフギールーイェ」と呼ばれるようになったのである。ギールーイェ家は少なくともヒジュラ暦346年までコフギールーイェ地域を支配した。ブーイェル=アフマド地域は、古くはブーイェル=アフマド、ナヴィー、ダシュマン・ズィヤーリー、チェラームの四族で「チャハール・ボニーチェ」と慣用的に呼ばれた人びとの地であった。この地域はヒジュラ暦6世紀には大ロル・アターベク政権の領域の一部となっており、この政権はアブー・ターヒルからはじまり、ヘザーラスプ、ティークリ、コルジェ、パシャング、フーシャング、アフラースィヤーブと続いてこの地を支配した。最後のアター・ベクはギヤース・アッディーン・イブン・カーウース・イブン・フーシャングであったが、ティムール朝のシャー・ルフの子イブラーヒームの軍により、おそらくヒジュラ暦827年には政権を失った。ブーイェル・アフマドの支配者は、その長い歴史のあいだ、たとえばカイ・シャーヒーン、カイ・ハーディー、カイ・アブドゥルハリールのように「カイ」のラカブを名乗ったことで有名である。コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド州は218の観光地があり、夏でも観光が可能である。あわせて大小18河川、40の清泉と鉱泉、18のガナート、5の滝、3の湖、40の美しい景観をもつ山峡・谷、庭園と緑映える平原、イマームザーデ、ドーム、城塞、キャラヴァンサラーイ、モスク、アーブ・アンバール(伝統的貯水施設)、ゾロアスター教神殿、古い橋や塔などの名所がある。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。