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反軍演説

反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会で衆議院本会議において立憲民政党の斎藤隆夫が行った演説。日中戦争(支那事変)に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。この演説により、3月7日、斎藤は衆議院議員を除名された。この経緯は言論弾圧としても扱われる。なお、「支那事変処理を中心とした質問演説」や「支那事変処理に関する質問演説」を、一般的に「反軍演説」と称している。斎藤は「粛軍演説」で軍部の政治関与を批判するなど、国民からの注目を浴びるも、警察・軍部から監視され、暗殺まがいの脅迫状などの攻撃も受けた。「国家総動員法案に関する質問演説」において、国家総動員法の危険性を指摘するも、立憲政友会と立憲民政党の二大政党は斎藤の主張を無視し、全会一致で成立。その後、過労から転倒して打撲し、脳梗塞の疑いで病床に着く。日中戦争の長期化につれ、病床の斎藤の元へ日増しに、「なぜ、斎藤は沈黙するのか」という類の問い合わせが増加し、国民の声を議会に届けるべく、「国家総動員法反対演説」から2年ぶりの登壇を決意。1939年11月18日原稿の起草に着手、演説の練習を必死に繰り返す(#逸話参照)。1940年1月14日、阿部信行内閣が総辞職し、16日、ドイツに接近する軍部と異なり、親英米派である米内光政内閣が成立し、その後召集された、第75議会の衆議院本会議での、2月2日の議題「国務大臣の演説に対する質疑」における、立憲民政党所属の当時71歳、斎藤隆夫による1時間半に及ぶ午後3時からの「支那事変処理を中心とした質問演説」(いわゆる「反軍演説」)である。久しぶりの斎藤の演説ということで、傍聴席は満員であった。議会召集後、民政党院内主任総務俵孫一に質問の旨を通告したが、軍部におもねる総裁町田忠治は質問に否定的な意向であったが、斎藤はこれを無視。米内総理、閣僚の演説の後、民政党小川郷太郎の傾聴に値しない原稿朗読演説、立憲政友会中島派、東郷実の政府・軍部に弱腰の議場から嘲笑が漏れるほどの演説の次であった。斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである。「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記している。そして、「しかし、議場には何となく不安の空気が漂うているように感ぜられた」と付け加えている。演説当日の具体的様子として斎藤は、「時局同志会や社民党から私の演説は聖戦の目的を冒涜するものであるという意味の声明を発するようである」と記している。演説直後、陸軍大臣の畑俊六は「なかなかうまいことを言うもんだな」と感心していたという。また政府委員として聞いていた武藤章(陸軍軍務局長)や鈴木貞一(興亜院政務部長)も「斎藤ならあれぐらいのことは言うだろう」と顔を見合わせて苦笑していたという。また、衆議院議長で、身内の民政党の小山松寿は斎藤の演説中に「聖戦の美名云々」などのメモを記し、衆議院書記官長大木操に渡し、職権により、演説全体の3分の2程度、約1万字にも及ぶ、軍部批判にあたる箇所を削除させた。大木は抵抗したものの小山に屈し、「私はこの時職を賭して戦うべきであった」とのち、日記で悔いている。なお、大木は秘密会の議事録を、陸軍の焼却要求から守り抜き、日記で斎藤除名の様子を詳細に記述するなど、当問題についての貴重な史料となっている。また、斎藤の演説の全文が新聞各紙の一部地域向けの紙面に掲載されたため、反軍演説が各地に報道されることになった。更に外電で配信され、交戦国の中華民国で大きく報道され、アメリカでも報道された。民政党は、翌日3日早朝、小泉又次郎(党常任顧問)や俵孫一(党主任総務)が斎藤に離党勧告を出すことで事態収拾を図り、斎藤は党に影響を及ぼすのであれば、やむをえないとして、受諾。また、総裁町田忠治の意向を受けていたとされる同僚議員から、自発的に議員辞職をするよう促されたが、断固拒否した。反軍演説の翌日の院内の様子を、斎藤はこのように描写する。後日、斎藤は懲罰委員会に出席することとなるが、その委員会では、その結果、とその有様を紹介している。そして3月7日の本会議で、除名の可否の投票が行われた。議場には167名と3分の1弱の空席を出した。民政党は除名賛成に党議拘束をかけたが、斎藤と親しかった岡崎久次郎が除名に反対し、脱党。民政党で唯一の反対票を投じた。残り170名のうち4割強の69名が欠席または棄権をした。政友会は、久原派が71名中27名が棄権・欠席、全会派中最多の5名が反対。軍部寄りの中島派も97名中16名、中立派は10名中4名が棄権・欠席した。軍部寄りの社会大衆党は34名中、賛成であった病欠の麻生を除き10名が棄権・欠席し、時局同志会は30人中5人が棄権。無所属議員は10名のうち、反対1名、棄権・欠席が7名であった。投票結果は以下の通り。と、反対者はわずか7名と、圧倒的多数の賛成票によって斎藤は衆議院議員を除名された。この投票結果や経緯は、ただ単に軍部の政治介入による結果だけではなく、政党自体が議会制民主主義を破壊したとする「自壊」の面があることも斎藤自身や様々な歴史家らも厳しく指摘している。なお、議長の小山は在職中「スターリンのごとく」発言の西尾末広についで、2人の除名決議の議事に携わったことになる。除名当日、斎藤は日記にこう書いた。(「斎藤隆夫日記(下巻)」より、一部省略)その後、民政党は斎藤を見捨てたとして、内外の信用を失い、町田の求心力は落ち、後の解党への流れとなる。政友会久原派も反対した5名に離党勧告、総裁の久原房之助は除名を強行しなかったものの、結果として解党へと向かう。社会大衆党は、書記長麻生久により、党首の安部や片山ら除名に賛成しなかった8名に離党勧告を出し、安部ら8人は離党を拒否し、除名処分を強行、反対派を追放することにより、軍部に従順な態度をより鮮明にした。親軍部の政友会中島派、時局同志会、社大党の主張通り、革新運動が加速し、戦争遂行のための協力体制と称し、大政翼賛会への流れへと直結した。斎藤は除名された後、次の漢詩を詠んでいる。なお、反軍演説がなぜ衆議院議員を除名されるという結果まで引きおこしたかについて、斎藤は以下を挙げて説明をしている。衆議院議員除名後には総選挙の延期などがなされた。そして、1942年(昭和17年)の総選挙では、当然、大政翼賛会の推薦はなく非推薦で選挙区の兵庫県5区(但馬選挙区)から立候補した。期間中軍部や翼壮を始めとする選挙妨害や内務省の選挙文書の差押を受けつつも有権者の多大な支持を得て、その結果最高点で、2位と7000票以上の大差で再当選を果たし、見事衆議院議員に返り咲く。斎藤は再選に関して、次のように総括している。なお、投票結果は(他に推薦候補2名)で、但馬の選挙民は、斎藤をトップに押し上げただけでなく、多数が非推薦候補に投票し、全国で非推薦候補の当選は85人にもかかわらず、2人選出、もう少しで当選者が定数3人全て非推薦候補となるところだった。斎藤は反軍演説の練習を鎌倉の海岸で何度も行い、そのためによく声をからしていた。これを心配した斎藤の妻乙女は、海岸へ練習をしに行く斎藤に手製のキャラメルを持たせた。この甲斐あって斎藤は以後、声をからすことなく練習に没頭でき、最終的には演説全文を暗記するまでになった。もちろん当日も原稿を見ることなく演説を果たした。なお、『そのとき歴史が動いた』の「我が言は、万人の声〜太平洋戦争前夜、日本を揺るがした国会演説〜」で斎藤の反軍演説に関して、取り上げられた。

出典:wikipedia

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