ブエルタ・ア・エスパーニャ("Vuelta a España")とは毎年9月にスペインを舞台にして行われる自転車プロロードレースである。1935年から開催されている。主催はイベント会社のウニプブリク(Unipublic)。ツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリアとあわせてグランツール(仏: Grands Tours)と呼ばれる。略称は「ブエルタ」。かつては「ツアー・オブ・スペイン(Tour of Spain)」の名で呼ばれていた時期もあった。毎年9月に3週間以上かけて行われるステージレースで、スペイン国内を中心としておよそ3200kmを走る。ステージ数は通常21前後。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)とさまざまなステージが用意されている。総合成績1位の選手には「マイヨ・ロホ」と呼ばれる赤色のジャージが与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。1994年までは4~5月に開催されておりジロ・デ・イタリアとの間隔がほとんどなく、年によっては日程が重複することもあった。そのため何人かの有力選手がツール・ド・フランスまで力を温存しようと考えて調整目的で参加するほかは、大半がジロ・デ・イタリアに出場。ブエルタ・ア・エスパーニャに出場するのはもっぱら地元スペインの選手(もしくはスペイン所在のチームの選手)かブエルタ・ア・エスパーニャよりもさらに厳しい山岳コースが登場するジロ・デ・イタリアを嫌うスプリンター系選手だったため、比較的ローカル色が強い大会だった。しかしUCIカレンダーの整備により、1995年より現在の開催時期である9月に移行。日程上では同一年度においてグランツール全大会に出場することが可能となった。これによりレースの盛り上がりが期待されたがシーズン終盤の開催ということもあり多くのレースをこなして疲労のたまった選手や秋のクラシックレース、世界選手権などに照準を合わせた選手からは敬遠、もしくは世界選への調整の舞台として利用されることが多く依然として出場するのはスペイン選手が中心という状態が続き、グランツールの中でもツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリアに比べてワンランク下の存在に見られ盛り上がりに欠けていたため以前は財政難などで開催が危ぶまれることもあった。しかし徐々にオールラウンダータイプの選手をはじめ有力選手の出場や活躍が目立つようになり2005年に始まったUCIプロツアーでは最上級カテゴリーAに格付けされたツール・ド・フランスに次ぐカテゴリーBに位置づけられ、自転車レースとしてはジロ・デ・イタリアと同格の扱いを受けていた。そのため近年はグランツールにふさわしい盛り上がりを見せるようになった。1ステージあたりの距離が平均150km程度とツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアに比べて20kmほど短いため、レースの平均スピードが速い。またスペインという山がちな土地を舞台にして開催されるため序盤から山岳ステージが登場することが多く、平地ステージとカテゴリーされてもツールであれば中級山岳ステージとカテゴリーされるようなアップダウンの激しいステージも多い。そのため上りに強い選手に有利なレースだといわれており、春期開催だった頃はスプリンター型の選手の優勝も見受けられるものの歴代の優勝者を見ると山岳を得意とするタイプの選手が目立つ。近年は中間に3連続での山頂フィニッシュステージを盛り込む、スペインらしい「短距離、急勾配」型の峠を大量に用意するなど、ステージ自体もジロ・ツールと差別化する動きが進んでいる。ポイント賞のシステムはかつてのジロ同様全ステージ同一なため、「平地で狙いに来るスプリンター軍団対山頂フィニッシュでポイントを稼ぐ総合・クライマー勢」という争いが僅差で決着することがあり、その争いも魅力の一つに数えられる。ツール・ド・フランスにおけるラルプ・デュエズ的な位置付けの山岳ステージとして、ラゴス・デ・コバドンガやアルト・デ・エル・アングリルが採用されることが多い。ツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアなどの自転車レースの盛り上がりに伴って、1935年に合計走行距離3425km・14ステージという規模で第1回大会が開催された。しかし1937年から3年間、スペイン内戦によって中断。1941年に第3回大会が開かれるも、第二次世界大戦の激化によって1943年から再び中断という事態になる。その後1945年から再開されるものの1949年は中止。さらに1951年から1954年も開催せずという不安定な時期が続いた。しかし1955年からの再開後はジャック・アンクティル、リック・バンステーンベルヘン、レイモン・プリドールなどの名選手も参加するようになり大会もそれなりの知名度を獲得するに至った。1970年代にはエディ・メルクスやベルナール・イノーが、1980年代にはペドロ・デルガドやショーン・ケリーが総合優勝を飾っている。1992年から1994年にかけてはトニー・ロミンゲルが同レース史上初の3連覇。1996年と1997年にはアレックス・ツェーレが連覇を達成する活躍を見せている。2000年代はロベルト・エラスが大活躍を見せ2000年に初制覇を達成したほか、合計走行距離2925Km・21区間で行われた2003年のレースでもイシドロ・ノサルとの激しい争いの末、2度目の総合優勝を果たした。さらに2004年もこの頃頭角を現し始めたアレハンドロ・バルベルデらを退け優勝。続く2005年にも総合1位となり、前人未到のブエルタ4勝&3連覇を達成したかに思われた。しかしドーピング疑惑により2005年の総合優勝は剥奪され、総合2位だったデニス・メンショフが繰り上がり優勝となった。2006年はアレクサンドル・ヴィノクロフが優勝。2007年はデニス・メンショフが他を寄せ付けない強さで2回目の総合優勝を果たした。2008年はアルベルト・コンタドールがチームメイトのリーヴァイ・ライプハイマーとの接戦を制し、史上5人目の全グランツール総合優勝という偉業を達成。2009年はタイム差がタイムトライアルとボーナスタイムだけで決まる僅差のレースをアレハンドロ・バルベルデが制し、2010年は最終山岳ステージまでもつれ込んだ総合争いが盛り上がりを見せ、25歳のヴィンチェンツォ・ニバリが戴冠した。2011年は最終日までボーナスタイムで総合逆転の可能性が残るほどの大接戦の末フアン・ホセ・コーボが優勝した。数種の賞が設定されており、リーダージャージと呼ばれる各賞に応じたジャージがある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手がそのジャージを着用する権利を手にいれる。ブエルタにおいては2009年までは各賞のジャージスポンサーとジャージデザインが固定されておらず年毎に変わっていたため、総合リーダージャージ以外は色や模様ではなく、賞の名前で呼ぶ事が一般的だった。2010年にASOがブエルタの運営に関わるようになってからジャージデザインが固定された。赤色のジャージ「マイヨ・ロホ(maillot Rojo)」(「ヘルセイ・ロホ(Jersey Rojo)、ラ・ロハ(La Roja)」とも呼ばれる。英語圏では、「レッドジャージ(Red Jersey)」という名称がよく使用される)は個人総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マイヨ・ロホ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マイヨ・ロホ」着用の権利をもっている選手がブエルタ・ア・エスパーニャの総合優勝者となる。2016年のスポンサーはカルフール。2009年までは「金色」のジャージ「マイヨ・オロ」であった。ツールのマイヨ・ヴェールと同じ明るい緑色のジャージ、「プントス(Puntos)」は「ポイント賞」に対して与えられる。「マイヨ・ベルデ (Maillot Verde)」とも呼ばれる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算されスプリントポイント1位の選手が「プントス」着用の権利を得る。2016年のスポンサーはマイヨ・ヴェールと同じシュコダ。以前は青色のジャージであったこともある。ツールのマイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュの風の青色水玉ジャージ、「モンターニャ(Montaña)」は「山岳賞」に対して与えられる。「マイヨ・デ・ルナレス (Maillot de lunares)」とも呼ばれる。登り坂の勾配と長さに応じて点数が設定された山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手が「モンターニャ」着用の権利を得る。ポイント制はツールと違い、通常山岳は1~3級の3分割、それに加え山頂フィニッシュは山頂フィニッシュという1級以上のカテゴリーとなり、加え最大山岳には特別ポイントが入る場合もある。2016年のスポンサーはスペイン宝くじ公社。別のスポンサーの時にはワインレッド、銀色、オレンジ色などだったこともある。白いジャージ、「コンビナーダ(Combinada)」は複合賞(コンビネーション賞)獲得者に対して与えられる。ジロやツールでは白いジャージは「ヤングライダー賞」に対して与えられるが、ブエルタでは「複合賞」に与えられる(ヤングライダー賞のジャージはない)。総合成績+ポイント賞+山岳賞の順位の数値の合計がもっとも少ない選手が「コンビナーダ」着用の権利を得る。ブエルタ・ア・エスパーニャ独特の賞であり、全ての部門で上位、最もバランスよく成績を挙げたことの証でもあるが、2004年以来8年連続で総合優勝を果たした選手がこの賞も獲得している。2016年のスポンサーは肥料メーカーのフェルティベリア。日本では従来スカイパーフェクTV!などのTVEスペインチャンネルで生中継が放送されていた(ただし現地で放送されている生中継をそのまま放送する形なので、日本語実況などはない)ため、放映権がバッティングするJ SPORTSでの放映は難しいとされてきた。しかし2001年にようやくJ SPORTSにおいて録画中継(約1ヶ月遅れ)での日本語実況つきの放送が実現し、2006年からは生中継も行われるようになった。HDTVについてはツールやジロに遅れをとっていたが、2013年よりHD画質での放送が実現している。
出典:wikipedia
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