杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)とは、日本の官僚、外交官である。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であった。「東洋のシンドラー」などと呼ばれることがある。早稲田大学高等師範部英語(教育学部英語英文学科)科予科中退、日露協会学校特修科修了。1900年(明治33年)1月1日、岐阜県に生まれる。近年まで加茂郡八百津町生まれと言われていたが、先般戸籍を確認すると、武儀郡上有知町(現在の美濃市)であることが明らかになった。父好水(よしみ)は税務官吏で、千畝出生の当時、上有知町の税務署に勤めていた。一家は、近くの仏教寺である教泉寺の借間に住んでおり、千畝はそこで生を受けた。同寺は高台にあって見晴らしが良く、眼下に千畝町の広大な畑が見えた。千畝という珍しい名前は、その地名に由来すると考えられる。1912年(明治45年)、古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)を全甲(現在の「オール5」)の成績で卒業後、作家の江戸川乱歩と入れ違いに旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)に入学。同校卒業後、当時日本統治下の朝鮮の京城に赴任していた父は、千畝が京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいた。千畝の甥にあたる杉原直樹によれば、千畝の父の名は、初め「三五郎」(みつごろう)であったが、自分の命を救ってくれた杉原纐纈(こうけつ)という医師の名前から「好水」(こうすい)という音韻の類似した名前に改名し、これを「よしみ」と読んだという。父・好水が医師という職業を千畝に強く薦めたのにはこうした背景がある。しかし、医師になるのが嫌だった千畝は、京城医専の試験では「白紙答案を提出」して「弁当だけ食べて帰宅」した。当初、英語を学び「英語の教師になるつもりだった」千畝は、父の意に反して、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。「ペンの先に小さなインク壺を紐で下げて、耳にはさんで」登校していた逸話が残る。千畝自身の説明では、「破れた紋付羽織にノート二三冊を懐にねじ込んで、ペンを帽子に挟んで豪傑然と肩で風を切って歩くのが何より愉快」と多少修正されるが、バンカラな校風で知られた昔の早稲田大学でも珍しい奇天烈な格好で通学していた。独特のペン携帯の流儀から、学友に「変わった人間」(ドイツ語で“”)と笑われても、「これならどこででも書くことができる。合理的だよ」と平然としていたという。しかし、実際は授業中ほとんどノートをとらず、講義内容をすべて暗記していた。父の意に反した進学だったので、仕送りもなくたちまち千畝は生活苦に陥った。そこで早朝の牛乳配達のアルバイトを始めたが、それで学費と生活費をまかなうことはできなかった。ある日、千畝は図書館で偶然目にした地方紙の掲示(大正8年5月23日付の「官報」第2039号)により、外務省留学生試験の存在を知る。受験資格は旧制中学卒業以上の満18歳から25歳の者であったが、研究社の受験雑誌『受驗と學生』(大正9年4月号)に掲載された千畝自身の受験体験記によると、法学・経済・国際法から外国語二ヵ国語という具合に旧制中学の学修内容とはかけ離れたものであり、実際は千畝のような大学在籍者や旧制高校修了者以外の合格は難しいものであった。千畝は大学の図書館にこもり、連日「ロンドンタイムズ、デイリーメールの両紙を初め、米国発行の数雑誌を片端から全速力で閲覧」するなど猛勉強の末、「日支両国の将来」に関する論述や「英国下院に於ける外務次官ハームウォーズ紙の独軍撤退に関する演説」の英文和訳等の難問を制して合格。1919年(大正8年)10月に日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。11月には早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。この官費留学生の募集で、英独仏語の講習生募集は行われなかった。ロシア語選択は当初の千畝の選択ではなく、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めで決めたものである。学生の過半数は、外務省や満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった。当時の千畝は、三省堂から刊行されていた「コンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていく」といった特訓を自分に課していたという。1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年志願兵)。最終階級は陸軍少尉。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科修了。特にロシア語は非常に堪能で、満州里領事代理の考査では、ロシア語の総合点は100点満点の90点。「一、二年前の卒業任官の留学生と比較するも遜色なし。むしろ正確優秀」という折り紙付きの評価を受け、生徒から教員として教える方に転じる。1930年(昭和5年)にハルビン学院を卒業する佐藤四郎(哈爾濱学院同窓会会長)は、「ドブラエ・ウートラ」(おはよう)と一言挨拶すると、謄写版刷りのソ連の新聞記事を生徒たちに配布して流暢なロシア語で読み上げ解説する、青年教師・千畝を回顧している。母校の教師として、千畝は、ロシア語文法・会話・読解、ソ連の政治・経済及び時事情勢などの講義を担当した。佐藤は、「ロシア語の力は、日本人講師でずば抜けていた」と証言している。1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官に転じた。1926年(大正15年)、六百頁余にわたる『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、という高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。1932年(昭和7年)、3月に満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向。1933年(昭和8年)、満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して、「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」 という記述が見られる。ところが、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得てまもなく、1935年(昭和10年)には満洲国外交部を退官。満洲赴任時代、1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚。この在満の時期に、千畝は正教会の洗礼を受けた。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である。このハルビン在職期に杉原は、有名な殺害事件などユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験することになった。これらの事件の背後には、関東軍に後援された、白系ロシア人のファシスト組織があった。杉原は、破格の金銭的条件で、関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否。千畝自身の言葉によれば、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。かつてリットン調査団へのフランス語の反駁文を起草し、日本の大陸進出に疑問を持っていなかった千畝は、この頃から「日本の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。杉原手記には、「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝にはまれな激しい言葉が見られる。千畝の拒絶に対し、関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったので、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった。満洲時代の蓄えは、離婚の際に前妻クラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡った時と同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけてくれた。帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか、記念写真一枚撮る余裕さえなかった。「杉原手記」のなかで、「この国の内幕が分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」と、千畝は述べている。ソ連と関東軍の双方から忌避された千畝は、満洲国外交部を辞めた理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」と幸子夫人に答えている。1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任する。ちなみに千畝は当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が、反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動して千畝の赴任を拒絶した。当時の『東京朝日新聞』(1937年3月10日付)は、「前夫人が白系露人だったと言ふに理解される」と報じた。日本の外務省はソ連への抗議を続けるとともに、千畝に対する事情聴取も行い、それは『杉原通訳官ノ白系露人接触事情』という調書にまとめられ、そのなかで千畝は、「白系露人と政治的に接触したことはなく、むしろ諜報関係で情報収集のためにあえて赤系のソ連人と接触していた、そのため満洲外交部に移籍してからは、共産主義者の嫌疑をかけられ迷惑した」などと述べている。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使を呼び出して、杉原の入国拒否の理由を再三尋ね、ソ連に敵愾心を持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった。北満鉄道譲渡交渉を控えた千畝の事前調査は、それがどのような経路で行われたのかソ連側も把握できないほど周到なものだった。ソ連が最後まで入国自体も認めなかったために、千畝は行先を近隣のヘルシンキへと変更された。バルト三国を初めとしたソ連周辺国に、千畝を含む6名ものロシア問題の専門家が同時に辞令が発令された事実を突き止めた渡辺勝正は、これが、ノモンハン事件における手痛い敗北の結果、対ソ諜報が喫緊の課題になったためであるとしている。1938年(昭和13年)3月4日、杉村陽太郎・駐仏日本大使は、パリの日本大使館から、ヘルシンキに着任している「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと直訴する、広田弘毅外務大臣への極秘電信を送った。千畝を自分の手元におきたかった杉村は、電信に「タタ發令ハ官報省報職員録ニハ一切發表セサルコト」と付記したが、広田外相は「遺憾ナカラ詮議困難ナリ」とこれを拒絶し、千畝の引き抜き作戦は失敗に帰した。というのも、千畝には、独ソ間で日本の国家存亡に係わる重大任務が待ち受けていたからである。1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり、8月28日にカウナスに着任する。着任直後の9月1日にナチスドイツがポーランド西部に侵攻し第二次世界大戦がはじまる。独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵攻を開始する。10月10日リトアニア政府は軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。1940年6月15日ソビエト軍がリトアニアに進駐する。杉原千畝のカウナスにおける任務の具体的内容については、1967年(昭和42年)に書かれたロシア語の書簡の冒頭で、以下のように述べられている。日本人がまったくいないカウナスに千畝が赴任してきたことに驚いて興味を持った地元紙は、早速領事館に取材を申し込み、「日本はどんな国」という見出しで特集を組んだ。杉原一家の写真付きで紹介された特集記事で、「日本では各家庭に風呂があって、毎日入浴するっていうのは本当?」「日本の女性の家庭での地位は?」といった質問に千畝は一つ一つ生真面目に答え、ステポナス・カイリースの『日本論』(全3巻)以来のちょっとした日本ブームを引き起こした。千畝が欧州に派遣された1938年(昭和13年)、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路章ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かった場合の方針を照会する請訓電報を送り、同年10月7日近衛文麿外務大臣から在外公館への極秘の訓令が回電された。千畝がカウナスに臨時の領事館を開設する直前のことである。その訓令「猶太避難民ノ入國ニ關スル件」は、以下のようなものであった。上掲の訓命では、ユダヤ人差別が外部に露見すると海外から非難を受けることは必至なので、「外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト」と明記され、わざわざ内訓を外部に公表しないことを念を押し、ユダヤ避難民が日本に来ることを断念するように仕向けるよう指示した機密命令であり、日本政府は、いわゆる「五相会議」決定のユダヤ人保護案を表面上示しながら、裏ではユダヤ人差別を指示する二重外交を展開していたのである。ポーランドとリトアニアには、ミルやテルズなどユダヤ人社会に知られたユダヤ教の神学校があり、ヨーロッパ中から留学生が集まっていた。そのなかに祖国がドイツに降伏したため無国籍になった、オランダ出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがいた。グットヴィルトは、オランダ領事に出国の協力を求めた。ズヴァルテンディクは、今日でも有名なオランダ企業フィリップス社のリトアニア支社長だったが、1940年(昭和15年)5月、バルト諸国担当のオランダ大使 L・P・デ・デッケルの要請を受けて、ナチス共鳴者のティルマンス博士に代わりカウナス領事に就任していた。祖国を蹂躙したナチスを強く憎んでいたズヴァルテンディクはグットヴィルトらの国外脱出に協力を約束し、6月末グットヴィルトは、ワルシャワ大学出身の弁護士でユダヤ難民たちのリーダー格だった、ゾラフ・バルハフティクに対して、この件について相談した。ズヴァルテンディク領事は、「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とフランス語で書き込んでくれた。ズヴァルテンディクによる手書きのビザは途中でタイプに替わり、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクらはオランダ領事印と領事のサインの付いたタイプ文書のスタンプを作り、その「偽キュラソー・ビザ」を日本公使館に持ち込んだのである。ドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは問題外だった。そして、今度はトルコ政府がビザ発給を拒否するようになった。こうして、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。もはや逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。難民たちが、カウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。ロシア語で書かれた先の報告書にあるように、カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため、難民の殺到は想定外の出来事であった。杉原は情報収集の必要上亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。本省と千畝との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に日独伊三国軍事同盟の締結を控えて、カウナスからの電信を重要視していない本省と、生命の危機が迫る難民たちの切迫した状況を把握していた出先の千畝による理解との温度差に由来している。ユダヤ人迫害の惨状を熟知する千畝は、「発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断の日数を二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日」を算出し、「何が何でも第三国行きのビーザも間に合う」だろうと情状酌量を求める請訓電報を打つが、本省からは、行先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよとの発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という「旧約の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かん」だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。日本では神戸などの市当局が困っているのでこれ以上ビザを発給しないように本省が求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封したこの報告書のなかで、杉原はビザ発給の理由を説明している。杉原の独断によるビザ発給に対する本省の非難は、以下のようなものであった。1995年(平成7年)7月12日、日本外交とユダヤ関連の著者パメラ・サカモトが松岡洋右外相の秘書官だった加瀬俊一に千畝のカウナスからの電信について問い合わせてみても、「ユダヤ問題に関する電信を覚えていなかった。『基本的に、当時は他の切迫した問題がたくさんありましたから』」と加瀬は答えており、東京の本省は条件不備の難民やユダヤ人の問題などまるで眼中になかった。それどころか、日独伊三国軍事同盟を締結も間近な時期に、条件不備の大量難民を日本に送り込んで来たことに関して、「貴殿ノ如キ取扱ヲ爲シタル避難民ノ後始末ニ窮シオル實情ナルニ付」(昭和15年9月3日付)と本省は怒りも露わにし、さらに翌年も「『カウナス』本邦領事ノ査證」(2月25日付)云々と、千畝は名指しで厳しく叱責された。窮状にある避難民たちを救済するために、千畝は外務省を相手に芝居を打った。もし本省からの譴責に真っ向から反論する返電を送れば、本省からの指示を無視したとして、通行査証が無効になるおそれがある。そこで千畝は、本省からビザ発給に関しての条件厳守を指示する返信などまるでなかったかのように、「当國避難中波蘭出身猶太系工業家『レオン、ポラク』五十四歳」(昭和15年8月24日後發)に対するビザ発給の可否を問い合わせる。つまり、米国への入国許可が確実で、十分な携帯金も所持しており、従って本省から受け入られやすい「猶太系工業家」をあえて採り上げるのである。そして千畝は、わざと返信を遅らせてビザ発給条件に関する本省との論争を避け、公使館を閉鎖した後になって電信第67号(8月1日後發)を本省に送り、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民に関しては、必要な手続きは納得させた上で当方はビザを発給しているとして強弁して、表面上は遵法を装いながら、「外國人入國令」()の拡大解釈を既成事実化した。一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。手を痛めた千畝を気遣い、杉原がソ連情報を入手していた、亡命ポーランド政府の情報将校「ペシュ」こと、ダシュキェヴィチ大尉は、「ゴム印を作って、一部だけを手で書くようにしたらどうです」と提案。オランダ領事館用よりは、やや簡略化された形のゴム印が作られた。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。杉原は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。そして「列車と並んで泣きながら走っている人」が、千畝たちの「姿が見えなくなるまで何度も叫び続けて」いた。なお、千畝同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスがおり、ともに諸国民の中の正義の人に認定されている。日本領事館の閉鎖日が近づくとともに、作業の効率化のため千畝は途中から記録するのを止めてしまい、規定の手数料を徴収することも忘れていた。実際には、記録に残っているビザ以外にもビザや渡航証明書が発給されているが、記録外の実数は把握できない。また、一家族につき、一枚のビザで充分であったため、家族を含めて少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられている。1941年(昭和16年)に入り、独ソ戦が目前になると、ドイツとソ連に分割された東欧のユダヤ人の運命はさらに過酷なものになり、ヒトラーとスターリンに挟撃されて右往左往する他はなかった。モスクワの日本大使館にも日本通過ビザを求める難民たちが殺到し、駐ソ大使・建川美次は、その惨状を1941年4月2日付の電信で、以下のように伝えている。独ソ戦の開始以前に運良く通過ビザを入手できた難民たちも、全てがシベリア鉄道で極東までたどり着けた訳ではなかった。当時ソ連は外貨不足に悩んでおり、シベリア鉄道に乗車するためには、ソ連の国営旅行会社「インツーリスト」に外貨払いで乗車券を予約購入しなければならなかったからである。乗車券は当時の価格で約160ドルもし、通常の銀行業務が滞りがちな戦時に、着の身着のままで逃げてきた難民たちの誰もが支払えるという金額ではなかった。逃げ遅れたユダヤ人たちの多くは、アインザッツグルッペンと呼ばれる「移動殺戮部隊」の手にかかったり、ナチスやソ連の強制収容所に送られて絶命した。独ソ戦が始まるや、ヴァルター・シュターレッカー親衛隊少将率いるアインザッツグルッペAは、北方軍集団に従って移動。そして、リガ(ラトヴィア)・タリン(エストニア)・プスコフやレニングラード(ともにソ連)に向かう中継地たるカウナスにまず殺到したため、千畝の赴任先であったカウナスにおけるユダヤ人社会は、特に甚大な被害を受けた。カウナスのユダヤ評議会の指導者の役割を不承不承押しつけられた医師のエルヒャナン・エルケスは、荒れ狂うユダヤ人殺戮についてイギリスにいる子供たちに書いた1943年(昭和18年)10月付の手紙の中なかで、殺戮部隊が「大量殺戮という任務を終えると、頭のてっぺんから靴の先まで、泥とわれわれの仲間の血にまみれて戻って」きて、「テーブルについて、軽い音楽を聴きながら、料理を食べ、飲み物を飲むのです。彼らはまさに殺戮のプロでした」と述べている。カウナスでは、保護を口実に1941年(昭和16年)8月末までに、ヴィリンヤンポレに設置されたゲットーにユダヤ人の移送が完了し、1万5,000人が住んでいた密集家屋に約3万のユダヤ人が押し込められた。独ソ戦開始前のカウナスのユダヤ人人口は約4万であり、開戦後わずか2カ月で1万人ものユダヤ人が殺害されたのである。1939年から1940年という千畝のカウナス赴任は、それより早くても遅くても、難民救済に効果を発揮しなかった。その赴任の時期は、ゾラフ・バルハフティクが「タイムリー」と呼ぶ時宜にかなったものであり、「カウナスでのあの一カ月は、状況と場所と夫という人間が一点に重なった幸運な焦点でした。私たちはこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思ったものです」と杉原夫人は述べている。「父は相手がユダヤ人であろうとなかろうと、助けたことでしょう。父に尋ねればきっとそう答えると思います。ユダヤ人であろうとキリスト教徒であろうと変わりはありません」という、四男・伸生(のぶき)による「カウナス事件」に関する発言は、カウナスでの難民救済の実情と正確に符合している。カウナス事件において問題になっているのは、「難民問題」であって「民族問題」ではない。いわゆる「杉原ビザ」の内、1938年(昭和13年)12月6日の第1次近衛内閣の五相会議決定によるユダヤ人保護政策「猶太人対策要綱」の「資本家、技術者ノ如キ特ニ利用價値アル者」に該当する事例は一件のみ(「『ベルクマン』他約十五名ノ有力ナル『ワルソー』出身猶太系工業家一行」)であり、また、カウナスにおける難民救済は、満洲にユダヤ人居留区を創設しようとする企画「河豚計画」ともまったく関係がない。松岡外相の「貴官カカウナス領事代理当時、査證ヲ與ヘタル猶太難民ノ數、至急囘電アリタシ尚右氏名、行先、査證、月日郵報アリタシ」という1941年(昭和16年)2月4日の訓命に対して、この種の命令を予期していなかった千畝は戸惑い、「原本リストは途中から番号の入っていない不完全なものであったため、杉原は控えを基にリストを全部作り直さなければならず」、ようやく完成して発送するのに三週間以上もかかっている。しかも、「『リスアニア人』竝ニ波蘭人ニ與ヘタル通過査證二、一三二内猶太系一、五〇〇ト推定ス」という数字も相当適当なものであり、千畝にとって窮状にある難民たちがユダヤ系であるか否かなど問題ではなかった。松岡は、この時日ソ不可侵条約の調印のためソ連に赴き、さらにドイツとイタリアに向かおうとしていた。松岡が出発したのは3月12日であったので、「郵送ではすでに間に合わない。したがって『杉原リスト』は、東京の本省ではなくベルリンの日本大使館に送られ、ここから随員によって松岡の手元に送り届けたのであろう」と、渡辺勝正は推測している。千畝のハルビン時代の後輩で在ベルリン満洲国大使館一等書記官の笠井唯計(ただかず)が理事官補だった1940年(昭和15年)、フィンランドの尾内陸軍大佐と相談し、情報提供と引き替えに満洲国のパスポートを出した一人に、イェジ・クンツェヴィチなるポーランドの情報将校がいた。クンツェヴィチは、カウナスの杉原と協力するときは「クバ」と名乗る、ポーランド参謀本部第二部のアルフォンス・ヤクビャニェツ大尉であった。1941年(昭和16年)7月、ゴルフに行く笠井はヤクビャニェツを便乗させた。ヤクビャニェツ大尉は、ポーランドの地下抵抗運動の秘密集会に出席することころだった。ピクニックという名目で国境付近を偵察する杉原らの動向に以前から不審を抱き、ドイツ防諜機関は密かに杉原周辺の探索を続けていたが、1941年、ついに日本及び満洲国の大公使館とポーランド情報機関の協力関係をつかんだ。7月6日夜半から7日未明にかけて、ヤクビャニェツ大尉さらに満洲公使館にメイドとして勤務していたザビーナ・ワピンスカがベルリンの中心部ティーアガルテンで逮捕され、拷問の結果、日本の大公使館の外交行囊を用いて中立国スウェーデンからロンドンの亡命ポーランド政府に情報を送るクーリエの経路がドイツ側の察知されることになったのである。ドイツ防諜機関の責任者であったヴァルター・シェレンベルクの有名な回想録の第12章はまるまる「日本とポーランドの陰謀」と題されている。そして「K某」(ヤクビャニェツの偽名「クンツェヴィッチ」の頭文字)の逮捕を契機に明らかになった対独諜報網の全欧規模の広がりを目の当たりにしたシェレンベルクは、ソ連を共通の敵としているはずの日本が深く関与していることにいらだちを露わにしている。ドイツ諜報機関はまた、日本人とポーランド諜報部との協力関係の後援者として、在ローマ日本大使館の河原畯一郎・一等書記官やイエズス会総長の神父が深く関与していることについてイタリア国防部から警告を受けていた。後にストックホルム武官府の小野寺信大佐(当時)に引き継がれるポーランド諜報網との接触に関しては、まず亡命政府のガノ大佐からワルシャワの日本大使館武官府にポーランド情報組織の接収の提案があり、日本側は表向きはドイツとの同盟関係を理由に拒絶した。しかし、在欧の日本とポーランドの将校や外交官たちは密かに接触を続け、ビィウィストク(ポーランド)やミンスク、スモレンスク(ソ連)を拠点とするポーランド諜報網から、在欧日本大公使館と武官府はソ連の軍事的動向を高い確度で知ることができた。千畝の接触は、すでにフィンランド時代に始まっており、まずヘルシンキ在住のジャーナリスト、リラ・リシツィンを通して、その従姉妹にあたるゾフィア・コグノヴィツカの息子で、ポーランド「武装闘争同盟」(ZWZ;後のAK 国内軍)のカウナス地下司令部のメンバーであるタデウシュ・コグノヴィツキに近づくことから始まった。千畝の本省への回電に、実際に足を運んでいない「スモレンスク」「ミンスク」に関する情報が含まれているのは、ポーランド諜報網との協力の成果である。杉原は、1941年(昭和16年)の5月9日後發の電信で、「獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス」と、6月22日に勃発する独ソ戦の時期を正確に予測し、また経済通らしく、「極メテ多量ノ『ミンスク』發穀物到着セリ」と、ソ連側が穀物の大量備蓄を始めて長期戦に備えていることを報告している。大著『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』でソ連経済の躍進を伝えた千畝は、ネップと呼ばれる計画経済によって早期に経済目標を達成したソ連がその余力を軍事部門に傾注していることも熟知しており、ヨーロッパを席巻するドイツの破竹の勢いに幻惑されている本国に、「独ソ戦近し」、またソ連は日本が考えているほど早く戦線を放棄しないことを警告する電信を打電した。1941年(昭和16年)4月18日、大島は千畝らの情報を元に、東京に独ソ開戦情報と意見具申を伝えているが、日米交渉に没頭していた日本政府は、他が見えない近視眼に陥っていた。第2次近衛内閣の書記官であった富田健治は、「独ソ戦近し」を伝える大島からの「この情報をそう強く信じていたわけではないが、かなり心配していた。しかし帰国した松岡が否定的であり、陸海軍も独ソ開戦せずという空気であったので、そのまま見送られた」と述べている。戦後衆議院議員になる富田健治の証言は、戦時日本のインテリジェンス機能の麻痺と、「空気」で最高指導政策が決定されてしまう恐るべきガバナンスの欠如を物語っている。出先には優秀な諜報要員を配置しながら、中央に適切な分析官を用意できなかったため、命がけで入手された情報も活かされなかった。また、情報伝達の技術的側面の遅れも深刻で、大島の電信は、一ヵ月も経たない5月10日に英国諜報機関によって解読されてしまった。大公使館の「現地採用者はスパイと思え」というのは外交の世界では常識だが、ドイツ系リトアニア人のヴォルフガング・グッチェがまさにそれであった。しかし、ドイツの愛国者ではあったが反ユダヤ主義者ではなかったグッチェは、杉原の仕事を手伝い、神学生のモシェ・ズプニックとの別れ際に、つぎのような予言的な言葉を残した。「世界は『車輪』だ。今はヒトラーが上だが、いつか車輪が回って下になるさ。希望を失うなよ」。もう一人の現地採用雇員は、ボリスラフ・ルジツキという名前のポーランド人で、表の顔は領事館の忠実なボーイ兼給仕だったが、このボーイは、実はルドヴィク・フリンツェヴィチが指揮するポーランド地下抵抗組織「ヴィエジュバ」(ポーランド語で「柳」の意)が公使館の情報を仕入れるために送り込んだ諜報員だった。こうして、カウナスの日本公使館の懐深く複数のポーランド情報組織が入り込み、ゲシュタポのスパイまで抱え込む、複雑怪奇な情報戦の渦中に千畝がいた。杉原夫人も、「領事館には数人のスパイが出入りして」いることに気づいており、わずかの気抜かりも命取りであった。カウナス領事館が閉鎖されてから、千畝が、プラハ、さらにケーニヒスベルク赴任するようになったのは、名目上の上司だった大鷹正次郎・ラトビア大使から松岡外相への進言によるものである。大鷹の進言の概要は、カウナス領事館の千畝のみを、そのままケーニヒスベルクに移転させて、対ソ諜報活動に従事させることは、ドイツ側の納得を得られないだけでなく、ソ連側からも、ドイツに抗議がないとはいえない。したがって同地に正式の総領事、または領事を任命し、千畝をその下に置いて、対ソ関係事務を担当させた方がよいと思われるというものである。1941年(昭和16年)年8月7日、ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは、外相リッベントロップに対して、「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書(1941年8月7日付)を提出し、そこにはドイツの「軍事情報に並々ならぬ関心を示していた」として、「日本領事杉原」の名前が筆頭に挙げられ、「ポーランド及び英国に親しい人物」として名指しで非難されていた。北満鉄道買収交渉のハルビン時代からソ連にマークされていた杉原は、またドイツ諜報機関の最大の標的の一つでもあった。亡命ポーランド政府の情報将校たちが、カウナスの日本公使館の手引きにより在欧日本大公使館やバチカンの後援を受け、さらにスウェーデンを経由してロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る、全欧規模の諜報網をドイツ国家保安局が知るところになり、それが故に千畝はケーニヒスベルクからの即刻退去を求められたのである。千畝を忌避したのは東プロイセンの大管区長官、エーリヒ・コッホである。後に美術品略奪者、ウクライナのユダヤ人虐殺者として悪名を馳せるコッホは、大量のユダヤ人逃亡を助けた千畝に当初から強い反感を持っており、ケーニヒスベルク着任から一ヵ月後にやっと千畝を引見した。ほどなくベルリン大使館から千畝の東プロイセン在勤をコッホが忌避した旨を伝えられ、千畝は最後の任地であるルーマニアのブカレストに向かうことになる。同盟国さえ出し抜き、名目上は敵国である亡命ポーランド政府の情報将校とさえ協力する、非情な情報戦の世界に千畝は生きていた。いわゆる「杉原ビザ」発給の最初の契機は、千畝が活用していたポーランドの情報将校を安全地域に逃すためのものであるが、それは、軍人などの家族等関係者を含めても多くて「当初600名分の通過ビザ」の予定であり、ここまでは、日本の外務省も参謀本部も周知のことであった。しかし、想定外の出来事が発生した。そしてそれが、ナチスに追われたポーランドからの大量の難民のリトアニアへの流入とカウナスの日本領事館への殺到である。リビコフスキの回想録『対ドイツ情報 組織と活動』によれぱ、情報提供を受けたポーランド情報将校の安全を確保するためビザ発給は、山脇正隆・陸軍次官からストックホルム武官府の小野寺信大佐(当時)に命令されたものと、リガ武官府の小野打寛(おのうち・ひろし)中佐から杉原への指示があった二通りのものがあったが、千畝は単に「ポーランド情報機関への見返りというだけのことなら、ビザ発給を止めることもできた」のである。ドイツ側は、カウナス領事館の「向かい側の地階に監視用の部屋を整」え、千畝らがバルト海沿岸都市クライペダ(ドイツ時代の呼称は「メーメル」)への遠乗りした時も尾行車がついた。また、ソ連の秘密警察もカウナス領事館を監視し、暗号電報の解読に腐心して一部それに成功している。ポーランド参謀本部との協力関係は、もちろん千畝の発案ではなく、出発点は、ロシア革命以降ソ連とコミンテルンを共通の敵とする両国の利害関係の一致にあった。最初の本格的協力はシベリア出兵の時期であり、日本が入手した暗号表をポーランド側に提供し、この返礼として、ポーランドの暗号専門家ワレフスキ大尉が、1919年(大正8年)、日本の暗号システムの全面的改定を行った。当時、赤軍の配置と移動を次々と見破るポーランド参謀本部の諜報能力は驚異の的であり、諜報部門では、ポーランドは日本の先生格であった。それまでの日本の暗号システムは、「ルイ14世時代にロシニョールが作ったものと大差のない二重語置換式という比較的よく知られた方式を採って」おり、1920年代に、タイプライターのキーボードで操作できる暗号用ホイールをセットした暗号機を作り、調整改良して「パープル暗号」と呼ばれるものを導入した。しかし、欧米先進諸国の暗号作成と解読技術に追いつけぬまま先の敗戦を迎え、第二次世界大戦中せっかく苦労して入手した情報が、東京に伝達される過程で、連合国の防諜網に捉えられる事例が数多くあった。リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、ウラジオストクに到着した。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、以下のように、ウラジオストクの総領事館に厳命した。しかし、ハルビン学院で千畝の二期後輩であったウラジオストク総領事代理・根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、1941年(昭和16年)3月30日の本省宛電信において以下のように回電し、官僚の形式主義を逆手にとって、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。本省とのやり取りは五回にも及び、難民たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。一度はシベリアの凍土に潰えるかに見えた難民たちの命は、二人のハルビン学院卒業生の勇気ある行為によって救われた。後藤新平が制定した同校のモットー「自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」というものであった。こうした根井三郎の人道的配慮により乗船できるようになった難民たちは、日本海汽船が運航する天草丸に乗って敦賀港へ続々上陸。敦賀では、全米ユダヤ人協会からの依頼を受けた日本交通公社(現在のJTB)の社員が、ユダヤ難民救済協会から送金された現金を手渡したほか、敦賀駅までのバス輸送や神戸・横浜までの鉄道輸送手配を行った。その内のユダヤ系難民たちは、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ教団(シナゴーグ)及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である「神戸猶太協會」(アシュケナージ系)があった神戸などに辿り着く。難民の内、1,000人程がアメリカ合衆国やパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。松岡洋右外務大臣は、外相という公的な立場上は、カウナスの千畝に対してビザ発給条件を守るよう再三訓命した張本人であり、また同時にドイツとの同盟の立役者でもあるが、個人的にはユダヤ人に対して民族的偏見を持っていなかった。難民たちの対応に奔走していたユダヤ学者の小辻節三(後のアブラハム小辻)が、満鉄時代の縁を頼りに難民たちの窮状を訴えると、松岡は小辻にある便法を教えた。すなわち、避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部に管轄が変わり、滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている、と教えたのである。そこで、小辻は管轄の地方官吏たちを懐柔し、敦賀港に1940年10月9日に上陸時に利用されたゴム印には「通過許可・昭和15年10月9日より向こう14日間有効・福井縣」となっていたが、「杉原ビザ」を持ってバルハフティクらが来港した時には、それが「入國特許・自昭和15年10月18日・至昭和15年11月17日・福井縣」に変わっていた。日本にやって来たユダヤ難民たち、とりわけ黒ずくめでもみあげを伸ばした神学生などは、当時の日本人に強烈な印象を残し、安井仲治による写真集「流氓ユダヤ」シリーズにその様子が収録された。安井の撮影には、若き日の手塚治虫が随行し、その時の体験が、漫画『アドルフに告ぐ』(1986) に結実した。グラフィックデザイナーの妹尾河童の自伝『少年H』(1997) も当時の難民たちに言及しており、また野坂昭如による直木賞受賞作品『火垂るの墓』(1967) においても、「みな若いのに鬚を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て」いたという記述が見られる。日本滞在後難民たちが向かった上海の租界には、戦前よりスファラディ中心の大きなユダヤ人のコミュニティがあり、ユダヤ人たちはそこで日本が降伏する1945年(昭和20年)まで過ごすことになった。難民たちが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年(昭和16年)にドイツの攻撃を受け、ソ連軍は撤退。以後、1944年(昭和19年)の夏に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。この間のリトアニアのユダヤ人20万8,000人の内、殺害された犠牲者数は19万5,000人から19万6,000人にのぼり、画家のベン・シャーンや哲学者のエマニュエル・レヴィナスを生んだ、カウナスのユダヤ人社会も壊滅した。またソ連領内でも多数のユダヤ難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ絶命した。1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争の勃発で、日本からアメリカ合衆国への渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得なかった。上海では、ドイツの強硬な申し入れのもとにドイツを真似てユダヤ人ゲットー(上海ゲットー)が作られ、上海のユダヤ人たちはそこに収容されることになった。上海が戦禍に覆われていたこともあり、終戦間際にはアメリカ軍機による空襲で数十名が死傷した。リトアニア退去後の千畝は、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年(昭和15年)、当時ドイツの保護領になっていたチェコスロヴァキアのプラハの日本総領事館に勤務。1941年(昭和16年)には、東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に赴任し、ポーランド諜報機関の協力を得て独ソ開戦の情報をつかみ、5月9日発の電報で本国に詳細に報告しているが、それは以下のようなものであった。そして、千畝の報告の通り、6月22日独ソ戦が勃発した。同年11月から1946年(昭和21年)までルーマニアのブカレスト公使館などヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任。千畝がブカレスト公使館に勤務していた時代には、鉄衛団の扇動によってルーマニアのユダヤ人の歴史の上でもとりわけ残忍なポグロムが頻発していた。千畝とともに激動のヨーロッパを駆け抜けてきた杉原夫人は、 ルーマニアの「フェルディナンド王が亡くなった時に、ミハイの父であるカロルは、〝二十世紀のクレオパトラ〟と呼ばれたユダヤ人のルペスク夫人との恋愛を問題にされ、後継者の座を追われてフランスに住んでいましたので、まだ六歳だった幼いミハイが一国の王様として即位されたのです」などと指摘し、第二次世界大戦中ヨーロッパを席巻していた反ユダヤ主義に関する鋭い歴史的観察者としての側面を示している。どの政治家も民族主義の扇動でのし上がってきた当時のルーマニアでは、民族主義そのものは人を際立たせる特徴とならず、反ユダヤ主義が政争の重要なファクターになっていたことを端的に示すエピソードである。首都のブカレストは子供連れの杉原家には危険だろうということで、ルーマニア時代の杉原一家はポヤナブラショフに疎開していたのだが、そこで他ならぬ幸子夫人をめぐる一つの事件が起こる。ヘルシンキにいた頃フィンランドの作曲家であるジャン・シベリウスから送られたレコードとサイン入りポートレートをブカレストに置き忘れて来たことに気づき、その奪回のために単身首都に戻ろうとする。しかし、ドイツ軍用車に便乗した帰路に大戦末期の戦闘に巻き込まれ、車外に投げ出された。さらにドイツ軍のなかに女性がいることに不審に思ったパルチザンに取り囲まれ、ドイツ語やロシア語で事情を説明するも、彼らにはどちらの言葉も分からず、日本人を一度も見たことがない部隊員から銃口を突きつけられる。夫人は「撃つなら撃ちなさい!私は日本人です」と絶叫し、あまりの剣幕に驚いた男たちが銃を引っ込め、ドイツ語が分かる青年がやって来て事情聴取の後釈放される。「何か足元がおかしいと思ってみると、いつのまにかハイヒールの踵が折れていた」。第二次世界大戦の終結後、ブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束された杉原一家は、1946年(昭和21年)11月16日、来訪したソ連軍将校に帰国するため直ちに出発するように告げられ、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックと厳寒の旅を続け、翌1947年(昭和22年)4月、興安丸(鉄道省、7080トン)で博多湾に到着した。日本へ帰国後、一家は神奈川県藤沢市・鵠沼松が岡に居を据えた。その地は、北満鉄道譲渡交渉の際の最高責任者で千畝の外交手腕を高く評価してくれた、広田弘毅が戦中に住んだ思い出の場所だった。千畝は、長男に弘樹と命名するほど広田を尊敬していた。6月7日に岡崎勝男・外務次官から退職通告書が送付されて来た。この通告書は、日付と宛名だけが手書きで書き込めるようになっているガリ版刷りのもので、退職を自明の前提としたものである。外務省退官からしばらくは、三男を白血病で失い、義理の妹・菊池節子(ロシア文学者・小沼文彦の夫人)も亡くなるなど家族の不幸に見舞われる。その後は連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院教授、科学技術庁、NHK国際局などの職を転々とする。1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長、1964年(昭和39年)に蝶理へ勤務、1965年(昭和40年)からは国際交易モスクワ支店代表など再び海外生活を送った。1968年(昭和43年)夏、「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリ (B. Gehashra Nishri) と28年ぶりに大使館で再会。カウナス駅頭で「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだかつての青年は、杉原夫人の「手をとり固く握って涙を流して喜んだ」。外国人にも発音しやすいように、千畝は難民たちに「センポ・スギハラ」と名前を教えており、その名前を外務省に照会しても「該当者なし」とのことであった。しかし、難民たちの消息を気にかけていた千畝が、以前イスラエル大使館に足を運び自分の住所を教えていたため、ニシュリは千畝を探し出すことができた。1969年(昭和44年)、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会。この時初めて、今日誰でも閲覧できる本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕する。後のインタビューで、バルハフティクはこう語っている。1975年(昭和50年)に国際交易モスクワ支店代表を退職して日本に帰国した。1977年(昭和52年)、神奈川県鎌倉市・西鎌倉に転居した。「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷から、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応まで、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、2000年に河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していた。こうした外務省の姿勢に真っ先に抗議したのは、1974年から1981年まで東京に在住していた、ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンである。ダンプマンは、西ドイツ(当時)のテレビ協会の東アジア支局長を務めていた。ダンプマンは、1981年に出版された千畝への献辞の付いた『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と記している。1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった。同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢は千畝の海外渡航を許さず、千畝に代わって四男・伸生(のぶき)が出席した。1986年(昭和61年)7月31日、86歳でその生涯を閉じた。千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつてのハルビン学院の教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る三百人余が参列。通夜には、一人の男性が新聞で知ったということで訪ねて来た。その男性は肉体労働をしているらしい様子で、紙には千円札がきちんとたたまれており、幸子夫人に紙に包んだ香典を渡すと、名前を聞いても言わずに帰って行った。千畝は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園(29区5側)に葬られた。杉原の発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルは、千畝が外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、病躯をおして長文の手紙を幸子夫人に送り、「日本に行って外務省に抗議する」旨を伝えた。日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだった。2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生し、地震と津波による甚大の被害が世界中に報道されるや、内外のユダヤ人社会から、第二次世界大戦時にユダヤ難民の救済に奔走した、杉原の事績を想起すべきとのアピールがなされた。3月21日、イスラエルの有力紙『エルサレム・ポスト』は第二次世界大戦中、「在リトアニア日本公使、チウネ・スギハラが、訓令に反してビザを発給し、6,000人のユダヤ人を救った」ことに注意を喚起し、「在日ユダヤ人共同体が協力し、すべてを失い窮状にある人々の救済を始め、在京のユダヤ人たちは募金のための口座を開いた」と報じた。東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたり、米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンは、会長のシムカ・カッツ博士と副会長のスティーヴン・ヴェイユ師の連名で、以下のような公式声明を発した。6月23日、ロサンゼルスのスカイヤボール文化センターで俳優の渡辺謙が、メッセージ「日本のための団結」を読み上げた後、千畝を描いた米国映画 "Sugihara:Conspiracy of Kindness" が上演され、収益が全額「日本地震救済基金」に寄付される。10月24日、早稲田大学出身の超党派の国会議員を中心に「杉原千畝顕彰会」が発足し、平山泰朗・衆議院議員の提唱により、杉原千畝を顕彰する顕彰碑(書・渡部大語)が母校内(早稲田キャンパス14号館脇)に建立され、その碑文には、「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」が選ばれた。12月24日、「第二次世界大戦中、リトアニア領事として同国からアメリカへ脱出する多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝への恩を忘れないとの思いから」、アメリカのリトアニア人居住地区から、東日本大震災で秦野市内に避難している子供たちに対し、クリスマスプレ
出典:wikipedia
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