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平海 (巡洋艦)

平海(ピンハイ、PING HAI)は、中華民国海軍の軽巡洋艦。寧海級巡洋艦の2番艦。日本軍に鹵獲され、1944年(昭和19年)6月に「八十島」(やそしま)と改名されて再就役した。9月下旬には二等巡洋艦に類別変更され、大日本帝国海軍の軍艦となった。上海の江南造船廠で1931年に起工された。艤装工事は日本の播磨造船所で1935年(昭和10年)10月30日から1936年(昭和11年)6月18日にかけて行われ、同年竣工した。日中戦争中の1937年(昭和12年)7月15日、本艦は上海市を出港して揚子江上流へ向かう。8月22日、空母「龍驤」艦載機を対空砲火で撃墜する。9月中旬、中華民国艦隊(平海、寧海、応瑞、建康)等は揚子江中流の江陰要塞に停泊していた。9月20日、第三艦隊司令長官長谷川清中将(旗艦「出雲」)は、空母「加賀」(第二航空戦隊)および第二連合航空隊(上海飛行場駐留)に攻撃を下令する。9月22日午前中、まず連合航空隊の九二式艦上攻撃機12機(60kg爆弾搭載)が水平爆撃を敢行し、「平海」に損害を与えた。午後、加賀攻撃隊(九六式艦上攻撃機7機、30kg爆弾搭載)が水平爆撃を実施、2隻(平海、寧海)に小規模な損害を与えた。「平海」は上流の南京へ脱出を図ったが、9月23日、再び連合航空隊と加賀航空隊(九四式艦上爆撃機8、九六艦攻8、九六式艦上戦闘機4)の波状攻撃を受ける。攻撃を受け「平海」は鎮江上流の揚子江沿岸で、擱座、着底した。同方面の中華民国海軍艦艇も撃破されて戦闘力を喪失。本戦闘を最後に「加賀」は第一航空戦隊(龍驤、鳳翔)と任務を交代、佐世保に帰投した。その後「平海」と「寧海」は日本軍により鹵獲。1938年(昭和13年)に浮揚され佐世保に曳航された。1938年から佐世保に係留され佐世保海兵団の居住用ハルクとして使用、同年7月11日に「見島」と仮称した。1944年(昭和19年)1月中旬、佐世保工廠で整備と修理をおこなっていた香取型練習巡洋艦3番艦「香椎」は、佐世保に停泊中の「平海」を呉まで曳航するよう下令される。2月3日、「平海」は「香椎」に曳航されて佐世保を出発。2月4日、2隻は呉に到着した。6月10日まで呉工廠で整備を行う。同年6月1日、「平海」は海防艦「八十島(やそしま)」と改名。「寧海」は「五十島」と改名。2隻(五十島、八十島)は日本海軍に編入され、海防艦に類別された。航空基地の移動用、輸送任務に投入される。9月25日、「八十島」は海防艦から除籍。それに伴い軍艦 八十島となった。本籍は呉鎮守府。同日附で日本海軍は第一輸送戦隊を編成。「八十島」は第一輸送戦隊の旗艦に指定される。10月15日から11月15日まで佐世保工廠で輸送戦隊旗艦への改造工事を行った。フィリピン方面へ進出した「八十島」は11月24日午後、二等輸送艦113号、142号、161号と共に陸軍への戦車輸送の途上、サマール沖海戦と日本帰投中の米潜水艦雷撃により、ルソン島サンタクルスに停泊中の最上型重巡洋艦4番艦「熊野」に合同。熊野負傷者を収容し、11月25日早朝サンタクルーズ湾を出発、マニラに向かった。だが、出航直後にルソン島サンタクルス沖でアメリカ第38.3任務群の空母タイコンデロガ、軽空母ラングレー搭載機TBFアヴェンジャーに襲撃される。米軍攻撃隊は「熊野」上空を通過し、八十島船団を攻撃。本艦は魚雷1本を船尾に受け沈没。また輸送艦3隻も共に撃沈され、その様子は「熊野」艦上からも目撃された。同日午後、「熊野」も空襲を受け同湾に沈んだ。第1輸送戦隊旗艦は松型駆逐艦2番艦「竹」が継承した。すくなくとも八十島生存者101名、熊野生存者490名が現地の海軍陸戦隊に編入され、フィリピン地上戦で多数が戦死した。1945年(昭和20年)1月10日、「八十島」は二等巡洋艦、帝国軍艦籍籍のそれぞれから除籍された。

出典:wikipedia

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