南蛮貿易(なんばんぼうえき)とは、日本の商人と南蛮人(ポルトガル王国、スペイン帝国の商人)との間で16世紀半ばから17世紀初期にかけて行われていた貿易である。1543年に種子島にポルトガル船が到来した。ポルトガル船はその前年すでに琉球王国に到着していたが、琉球人はポルトガルがマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、交易を拒否した。しかし、地の利を活かした交易活動は九州の諸大名、とりわけ島津氏一族には歓迎され日本の商人を後押ししたため、ポルトガル船は頻繁に訪れるようになった。以来、薩摩領(現在の鹿児島県西部)内には元亀元年(1570年)までに18隻(倭寇船ジャンク船を含めればそれ以上)のポルトガル船が侵入していたという。。商品貿易とともに日本に入ってきたのがキリスト教である。商人ジョルジュ・アルヴァレスは、山川(現在の指宿市)でこの地で人を殺めたことに悩むヤジロウを載せてマカオへ向かい、インドのゴアを拠点に宣教活動をしていたイエズス会のフランシスコ・ザビエルに引きあわせて懺悔させた。これがザビエル来日のきっかけとなったという。ヤジロウは日本人初のキリスト教徒と言われている。1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国(明)・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。織田信長・豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨した。スペインはポルトガルに遅れてアメリカ大陸を経由しての太平洋航路を開拓し、ルソン島のマニラを本拠として日本を訪れるようになった。徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を当時スペイン領のノビスパン(メキシコ)に派遣した。また、ポルトガル商人に対しては生糸の独占的利益を得ていた為、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させた。家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されていた。しかし、その後の江戸幕府は禁教政策の徹底や、国際紛争の悪影響を防ぐ観点から、海外との貿易を統制・制限するようになった。交易場所は平戸と長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止された。しかし、それでも幕府はポルトガルとの貿易の継続を望み、1636年に、ポルトガル人を長崎の出島に収容した。だが島原の乱が起きた後、禁教をより徹底させる観点から、幕府はポルトガルとの断交を望むようになった。1639年には、幕閣は、オランダ商館長のフランソワ・カロンとの対話を経て、オランダの植民地である台湾経由でも、中国や東南アジアの物資を確保できることを確認した上で、ポルトガル船の来航の禁止を決意した。同年に幕府は、長崎奉行及び西国大名にポルトガル船の来航を禁止する法令(「第5次鎖国令」)を発布し、ポルトガル人を追放した。その結果、南蛮貿易は終了した。火縄銃(種子島)はポルトガルの銃を模倣したものである。1543年、ポルトガル人フェルナン・メンデス・ピントが中国船で鹿児島県の種子島に漂着し、その際最初の3丁の銃が日本に輸入され、地名を取って火縄銃を「種子島」と呼ぶようになった。厳密に言えば1273年頃、すでに中国から日本に火薬が輸入され、原始的な鉄砲と呼ばれる銃は日本国内に存在はしていたが、非常に使い勝手が悪く、戦闘の主流武器とならず、せいぜい農民が害獣を追い払うのに使用する程度であった。しかし、伝来した火縄銃は火縄式という容易な操作で点火出来る銃であり、従来の物とは比べ物にならない利便性と命中精度があった。各地の大名は伝来当初こそこの新兵器の実力を疑問視したが、合戦でその効果が証明されるとこぞって生産を始めた。火縄銃は世界的に見ても異常な速度で日本全土に普及し、主要な兵器となった。当時の日本の銃の保有量はオスマン帝国と並んで世界最大規模だったと推定されている。火縄銃の他に、大友宗麟により『国崩し』と名付けられたフランキ砲、徳川家康によりカルバリン砲、セーカー砲などの大砲も輸入された。南蛮貿易において、日本人が見たポルトガル人(南蛮人)の豪華な服装はほとんどがアラブ服であり、肩を張らせた上衣(じゅばん)はアラビア語のジュッバであり、大きくふくらんだズボンで丈が足首まであるシルワール(ハレム・パンツ)もアラブ服である。南蛮文化において宗教以外の部分はアラブ文化の要素が非常に強いのである。カボチャ・スイカ・トウモロコシ・ジャガイモ・パン・カステラ・タバコ・地球儀・めがね・軍鶏などが、このころ日本にもたらされた。また、一般に輸出品としては扱われないが、牛、豚、鶏、パンなどが来航者の食用に長崎などで作られるようになり、船が出航する際にも塩漬けなどの形で積み込まれた。
出典:wikipedia
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