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ウォルター・クロンカイト

ウォルター・レランド・クロンカイト・ジュニア(Walter Leland Cronkite, Jr、1916年11月4日 - 2009年7月17日)はアメリカのジャーナリスト、アンカーマンである。そのリベラルかつ愛国的な姿勢から、「アメリカの良心(the most trusted man in America)」と呼ばれた。ミズーリ州セントジョセフでウォルター・レランド・クロンカイトとヘレン・レナの間に生まれ、テキサス州で育つ。テキサス大学を中退。地方紙の記者としてジャーナリズムの世界に入る。その後オクラホマ州の地方ラジオ局の報道レポーターなどを経て、1937年にアメリカを代表する通信社の一つであるUP通信に入社する。1939年9月に勃発し1941年12月の日本による真珠湾攻撃を機にアメリカも参戦した第二次世界大戦には、従軍記者としてフランスやドイツなどのヨーロッパ戦線を中心に取材しロンドン大空襲やノルマンディー上陸作戦、バルジの戦いなどのレポートを行ったほか終戦後にはドイツ高官に対する戦争裁判であるニュルンベルク裁判も取材した。また冷戦が始まりつつあった1947年からは第二次世界大戦の連合国の友邦の1つであったが、独裁者のスターリンの指導下で西側諸国との対立が進んでいたソビエト連邦の首都のモスクワに特派員として駐在した。1950年に、その後アメリカ3大テレビネットワークの一つとなるCBSに入社し、黎明期のテレビジャーナリズム界での活躍を開始した。1952年にはイギリスのエリザベス2世女王の戴冠式の中継を行った。1962年4月16日から1981年3月6日にかけて、CBSの看板番組でありアメリカのテレビジャーナリズムの象徴とも言われたニュース番組である『CBSイブニングニュース』の2代目アンカーマンを務め、当時視聴率面でトップだったNBCの『ハントリー・ブリンクリー・レポート』(『NBCナイトリーニュース』の前番組)を追い抜いた。真摯な報道姿勢からアメリカ国民の70%以上が支持し、別名「大統領よりも信頼できるニュースアンカー」と呼ばれるなど一躍アメリカを代表するジャーナリストの一人となった。エンディングの「And that's the way it is.(では、今日はこんなところです)」は名ゼリフとして知られる(のちにTBSで報道キャスターを務めた古谷綱正や筑紫哲也がこれを真似て、同じ言い回しを使っていた。また諸口あきらも、自身のラジオ番組の終わりの部分で似た様なコメントをしていた)。これに対し降板後を継いだダン・ラザーは「That's the part of world tonight.(今夜世界では、こんな事"も"ありました)」という言い回しを使った。ちなみに、2006年9月4日から2010年1月2日の放送まで、番組オープニング時の「This is the CBS Evening News with Katie Couric.(ケイティ・クーリックがお伝えする『CBSイブニングニュース』です)」というタイトルコールはウォルターの声であった。1963年11月22日に、テキサス州ダラスで遊説中に起きたジョン・F・ケネディ大統領の暗殺(ケネディ大統領暗殺事件)を伝える速報番組の中で悲しみのあまり涙で言葉に詰まりながらも速報を伝えるウォルターの姿がアメリカ中に流された。以後、この時のウォルターの姿がケネディ大統領暗殺の悲劇に対するアメリカ人の感情を象徴するものとして引用されるようになった。ケネディ政権時代の1960年代前半にアメリカが本格介入したベトナム戦争に対して当初は客観的な立場からの報道を続けていたものの、南ベトナム解放民族戦線による南ベトナムへの攻撃「テト攻勢」が行われた直後の1968年2月に「民主主義を擁護すべき立場にある『名誉あるアメリカ軍』には、これ以上の攻勢ではなく、むしろ交渉を求めるものであります」と厳しい口調で発言して戦争の継続に反対を表明、アメリカの世論に大きな衝撃と影響を与えた。これを知らされた当時の大統領ジョンソンは、「クロンカイト(の支持)を失うということは、アメリカの中産階級(の支持基盤)を失うということだ(If we've lost Cronkite, we've lost Middle-America)」と嘆いたという。その後保守派の多くもベトナム戦争の継続に懐疑的になり、この直後にジョンソンは2期目の大統領選への出馬断念を発表するに至った。1980年2月14日に同番組からの降板を発表し、翌1981年3月6日に降板した。その後同番組のアンカーマンはダン・ラザーに引き継がれたが、CBSやCNNなどの特派員や執筆活動を通じてジャーナリストとしての活動を継続した。また同時にジャーナリスト養成学校で教鞭を取り、後進の育成にあたった。1981年には、当時の大統領ジミー・カーターによって大統領自由勲章を受勲される。1995年には、映画『アポロ13』に本人役でカメオ出演。2006年3月には、宇宙飛行士でない人間として初めてNASA大使に選ばれた。2009年7月17日、ニューヨーク州の私邸にて脳疾患により死去した。

出典:wikipedia

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