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山口高志

山口 高志(やまぐち たかし、1950年5月15日 - )は、兵庫県神戸市長田区出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。次男として生誕。3500gと大きな赤ん坊であった。高志という名前は山口が生まれる前から父が考えていた名前で、「男なら、志を高く持て」という意味を込められて付けられる。野球を始めたのは小学4年生の頃で、地肩の強さを買われて投手と外野手を任された。高取台中では投手で3番。このとき甲子園で見た滝川高校のプレーに感動し、同校を目指そうとするも、学費が高いことから両親に遠慮して市立神港高校に進学する。高校入学当初、骨の発育が体の発育に追いついておらず、肋間神経に激しい痛みが走り出すようになる。野球の練習などとても無理で、いつの間にか不登校となり、須磨ノ浦や自宅近くの高取山で時間潰しをするようになる。希望を見失っていた同年夏、高木太三朗が同校監督に就任、ここで転機が訪れる。高木が熱心に部活に誘ったことで、もう一度野球をやる気になった。治療の甲斐もあって、同年秋からは猛練習に耐えられるほどになる。2年時には春の兵庫県大会で2試合連続ノーヒットノーランを記録した。3年時には春夏連続で甲子園出場。春の選抜では、1回戦で別府鶴見丘に圧勝。2回戦で尾道商の井上幸信と投げ合うが、延長10回の投手戦の末0-2で惜敗。夏の選手権では2回戦(初戦)で秋田市立高に敗退した。卒業後は関西大学へ進学。関西六大学リーグでは在学中7度優勝、以下のような記録を残す。1970年の第19回全日本大学野球選手権大会準決勝では、優勝候補筆頭の法大と対決、今も選手権記録として残る延長20回の熱戦となる。法大は横山晴久、池田信夫の両投手が継投、対する関大は山口が単独で投げ抜き、最後は3x-2でサヨナラ勝ちした。しかしさすがに疲労が残り、決勝では登板を回避したため、エース榎本直樹を擁する伏兵の中京大に苦杯を喫し、優勝はならなかった。1972年の4年生次には第21回全日本大学野球選手権大会、第3回明治神宮野球大会の優勝にチームを導く。また同年の第1回日米大学野球選手権大会においても、フレッド・リン、ウォーレン・クロマティ、後にテキサス・レンジャーズから全米1位で指名されたロイ・スモーリーらを擁するアメリカ代表チームに対し日本チーム4勝のうち3勝(初戦はクロマティを5打数無安打に抑え、13奪三振で完投勝利。第7戦は1安打完封勝利)を挙げ、最高殊勲選手賞を受賞。こうした活躍から、大学の先輩である村山実にちなんで「村山二世」の異名が付けられた。大学卒業を前にした1972年10月、突然プロ入り拒否を宣言。理由は「プロでやっていく自信がなかった」こと、自身の身長の低さへの不安、大学4年時に挙げた好成績による達成感からであった。しかし、同年のドラフト会議でヤクルトアトムズが4位にて強行指名する。ヤクルトからの指名を受けたが意志は変わらず入団拒否し、翌年春に松下電器産業に入社。同社野球部に入部した。「世界の一流企業・松下なら、プロに入らずとも定年までコツコツ働けて安定した収入が得られる」というのが入社理由だった。松下電器では2年連続都市対抗野球に出場。1974年の第45回大会では新日鐵堺に補強され準決勝に進出、33イニング無失点の快記録を達成する。しかし、サラリーマンとして働きつつ野球をやるうちに「仕事も野球も中途半端になるより、思い切って最高峰で。」と気持ちが野球に傾くようになり、1974年のドラフト会議で、阪急ブレーブスから1位指名された際にはすんなり入団を決意した。背番号は前年まで阪急に在籍していた神港高校の先輩宮本幸信がつけていた「14」となった。阪急電鉄本社契約として獲得した選手は山口と矢形勝洋(1958-1960年投手、後に球団常務)の2人だけである。ルーキーイヤーの1975年、オープン戦から快調で、並みいる強打者たちを凡退させるも、いざ公式戦に入ると最初の2試合でいきなり連続KO。その理由は「いくら速いと言ってもプロなんだから緩急もつけなければ」とカーブを多投していたためだという。コントロールが思うようにならず、カウントを悪くしてストライクを取りに行った球を打たれるパターンが多かった。そんな時、新聞記事で当時太平洋クラブライオンズの4番、土井正博が「山口はあんな素晴らしいストレートを持っているのに、なぜそれで押そうとしないのか」とコメントしている記事を見つけた。同じことをチームメートの福本豊にも言われたという。これをきっかけに山口は「自分の武器はストレート」と確信するようになった。山口は「全投球の8割以上がストレート。当時はサインも複雑だったけど、そんなの関係なかった。野村克也さんに『オマエ、データなんて見たことないやろ。ええな』と言われたこともあった」と振り返っている。この年、18完投、12勝を記録し新人王を獲得。さらに同年の日本シリーズでは6試合中4試合に登板し、1勝1セーブで日本シリーズMVPを獲得した。1978年にはリリーフに転向し、最優秀救援投手のタイトルを獲得する。しかし、その年の日本シリーズで打撃練習中に腰を痛め、1979年以降は左アキレス腱の故障にも泣き、それでも速球にこだわり続けたために成績が低迷、1980年に張本勲に通算3000本安打となる本塁打を浴びたことで名前が出た程度で、1982年に引退した。山口は、「新しい変化球は試合で使えるようになるのに3年かかる。今の球が通用しなくなってから研究しても遅い」と早い時期から変化球の習得に取り組んだチームの先輩・山田久志と自らを比較して、「そこが山田さんと僕の違うところだった」と述懐している。しかし、自身の現役人生については「僕は80パーセントでは投げられない。だから下位打線だろうが常に全力投球。こんな小さい体(170cm)でそんなこと続けたんだから、4年でつぶれても当たり前。後悔は全くない」と語っている。1983年から1998年まで阪急 → オリックス・ブルーウェーブの投手コーチ、1999年から2002年までオリックスのスカウトを務めた。2002年のシーズン終了後に阪神タイガースの一軍監督へ就任した星野仙一からの要請で、2003年に同球団の二軍投手コーチへ就任。2004年には、故障で伸び悩んでいた藤川球児に投球フォームの改造を勧めたことから、救援投手としての活躍の道を拓いた(詳細後述)。2005年から2008年までは、現場を離れて、阪神球団本部編成部の西日本担当スカウトとして活動。2005年には、1型糖尿病の影響で公式戦への登板実績が乏しかった大学の後輩・岩田稔投手を、希望枠制度での入団に導いた。2009年からは、阪神の一軍投手コーチとして、7シーズンにわたってブルペンを担当。2015年は救援防御率がリーグ最下位の4.14と低迷し、シーズン終了後に契約しないことを通告される。高校・大学野球の選手の指導に必要な学生野球資格の回復に向けて、学生野球資格回復研修を受講した。2016年には、2月2日付で、日本学生野球協会から学生野球資格回復の適性認定を受けた。この認定を機に、出身の関西大学硬式野球部で臨時コーチを務める。カーブも投げることができたが、投球の大半はプロ野球史に残るほどの豪速球だった。コントロールは良くなく、四球の多い投手だった。速球を武器に阪急ブレーブスの黄金時代を支え、日本プロ野球史上最も速い球を投げた投手とも言われる。ドラゴンズHOTスタジオ(名古屋のローカル番組)で、山口と同時期の速球投手だった鈴木孝政が「山口は速球投手として有名だが、意外にも肩が弱く、遠投でも90メートルそこそこしか投げられなかった」と発言した事があるが、遠投能力が低くても「肩が弱い」とは限らない。「遠投能力と投手としての球速が単純に比例しない」理由として、各々の投球動作・技術が違う事やゴルフにおけるボール初速と打ち出し角度およびバックスピン量の関係などが挙げられる。また、阪急時代の監督上田利治は「山口の肩は強い」と証言している。阪神2軍投手コーチ時代に当時、期待されながらもなかなか成績を残せないでいた藤川球児に対し、右膝を折って沈み込みながら投球する悪癖を指摘し、投球の際に、右膝を伸ばすようフォーム改造を指導した。その結果、リリースポイントがより高い位置になったことにより、ストレートの伸び・角度が格段に良くなり、藤川は球界を代表するリリーフ投手に成長した。

出典:wikipedia

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