佐藤 優(さとう まさる、1960年〈昭和35年〉1月18日 - )は、日本の外交官、作家。学位は神学修士(同志社大学・1985年)。同志社大学神学部客員教授、静岡文化芸術大学招聘客員教授。在ロシア日本国大使館三等書記官、外務省国際情報局分析第一課主任分析官を歴任。東京都出身。埼玉県大宮市(現さいたま市)育ち。大宮市立大砂土小学校(現:さいたま市立大砂土小学校)、大宮市立植竹中学校(現:さいたま市立植竹中学校)卒業。幼少時は日本キリスト教会大宮東伝道所に通っていた。1975年、埼玉県立浦和高等学校に入学。高校時代は生徒会、応援団、文芸部、新聞部に同時に所属するという異色の生徒だった。新聞部では副部長も務め、応援団では旗手を務めた。同年夏に東欧(ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、ポーランド)・ソ連(当時)を1人で旅する。1年間の浪人(予備校)生活(現上越教育大学教授の下里俊行と知り合う)を経て同志社大学神学部に進学した。主に緒方純雄、野本真也、藤代泰三、渡邉雅司、クラウス・シュペネマンなどの教授に師事し、組織神学(護教学)、マルクスやフォイエルバッハの無神論などを中心に学ぶ。学部1回生のクリスマスに京都市内の日本キリスト教会吉田教会で正式に洗礼を受け、クリスチャン(プロテスタントのカルヴァン派)になった。また、在学時代には学生運動にも傾倒し、高校2年生から大学2回生まで日本社会主義青年同盟(社青同)の同盟員だった。学部卒論のタイトルは『ヨセフ・ルクル・フロマートカ研究「破壊と復活」「一九四五年」を中心に』であった。その後、同大学大学院神学研究科前期課程を修了し、神学修士号を取得した。研究のテーマは「チェコスロバキアの社会主義政権とプロテスタント神学の関係について」であった。特に学部2回生の頃から、チェコの神学者ヨセフ・ルクル・フロマートカに強い興味を持ち、チェコに留学する目的として、外務省の専門職員採用試験を受験する。大学院修士論文のタイトルは「ヨセフ・ルクル・フロマートカの共産主義観 現代東ヨーロッパにおけるプロテスタント神学の展開についての一考察」であった。大学院修了後はチェコスロバキアのプラハのカレル大学に留学し、本格的にフロマートカに関する研究をするという希望を持っていたが、フロマートカは反ソ連主義的な神学者であり、フロマートカの研究を冷戦下であり、「科学的無神論」を国是とするチェコスロバキアで行うことは事実上不可能であったため、一度は断念した。しかし、外交官(専門職)になればチェコ語研修を名目にチェコスロバキアに行けると考え、1985年4月にノンキャリアの専門職員として外務省に入省(2度目の外務省専門職試験受験で合格した)。しかし、外務省から指定された研修言語は希望していたチェコ語ではなくロシア語であり、5月に欧亜局(2001年1月に欧州局とアジア大洋州局へ分割・改組)ソビエト連邦課に配属された。なお、当時のソ連課長は野村一成、首席事務官は宮本雄二(後の駐中国大使)であった。1986年夏にイギリス・ロンドン郊外ベーコンズフィールドの英国陸軍語学学校()で同期の武藤顕(キャリア、2014年から欧州局大使)と共に英語やロシア語を学んだ後、1987年8月末にモスクワ国立大学言語学部にロシア語を学ぶため留学した。その中で哲学部科学的無神論学科の講義にも参加するようになった。当時のソ連では「科学的無神論」という国是からキリスト教や各宗教に関する研究を行っていた。例として、<キリスト教終末論の諸類型とその階級的特質>、<啓蒙主義思想に対するプロテスタント神学者の批判とその問題点についての検討>、<ニコラウス・クザーヌスの全一性概念に対する批判的検討>、<ブルトマンによる聖書の脱神話化仮説の学説史的意義とその批判>、<解放の神学とカトリック教会の教権制度の矛盾>など、同志社大学神学部と同大学院で学んだキリスト教を社会主義の立場から批判・検討するような内容が多かった。ちょうど1988年のロシア正教導入1000年紀にもあたっていたこともあり、ソ連では宗教への理解が進んでいた時期でもあった。またロンドンでは、亡命チェコ人の古本屋店主夫妻とも親しくなり、当時チェコスロバキアなど東欧諸国では一般での発売や閲覧が禁止されていた神学や宗教関係の書物を手に入れることもできた。当時チェコスロバキアなどの東欧社会主義諸国は外貨節約のため、国内では流通させたくない神学関係や反ソ関係の書物を、西側諸国の最新の科学技術の書物や辞書・辞典と物々交換していた。その亡命チェコ人古本店主は、その物々交換の窓口であったとされる。そのチェコ人店主は、元々はBBCのチェコ語アナウンサーだったが、引退後は社会主義国から救い出した書籍をアメリカ合衆国議会図書館やイギリスの大英博物館(大英図書館)、オックスフォード大学やケンブリッジ大学などに納品することで生計を立てていた。妻はケンブリッジ大学でチェコ語の教師をしていた。1988年から1995年まで在ソ連・在ロシア日本国大使館に勤務し、1991年の8月クーデターの際、ミハイル・ゴルバチョフ大統領の生存情報について独自の人脈を駆使し、東京の外務本省に連絡する。アメリカよりも情報が早く、当時のアメリカ合衆国大統領であるジョージ・H・W・ブッシュに「ワンダフル!」と言わしめた。また国会議員としてロシアを訪れていた参議院議員猪木寛至(アントニオ猪木)に便宜を供与したこともあり、現在でも親交は続いている。この時期、佐藤はソ連科学アカデミー(現:ロシア科学アカデミー)民族学人類学研究所にも「学位論文提出権有資格者」と認められ、研究員として正式に出入りすることを許されており、市中には出回っていないソ連の民族問題に関する書籍も図書館で自由に読めた。日本帰任後の1998年には、キャリア扱いに登用され、国際情報局分析第一課主任分析官(課長補佐級、佐藤のために急造されたポストとされるが、政府は正式に否認している。しかし佐藤以後このポストに就いた人間はいない)となり、内閣総理大臣橋本龍太郎とロシア大統領ボリス・エリツィンのクラスノヤルスク会談にもとづく2000年までの日露平和条約締結に向けて交渉する。外交官としての勤務のかたわら、モスクワ大学哲学部に新設された宗教史宗教哲学科の客員講師(弁証法神学)や東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)を務めた。また、雑誌『世界』(岩波書店)の「世界論壇月評」担当など論壇への寄稿に加え、フロマートカの自伝の翻訳出版(1997年)、『福音と世界』『基督教研究』といった雑誌に執筆するなど、神学方面の学問的活動も行っていた。1991年9月、日本が独立を承認したバルト三国に政府特使として派遣されてきた鈴木宗男の通訳や車の手配などを佐藤が務めたことを機に、鈴木と関係を築く。主任分析官となった背景にも鈴木の威光があったとされる(鈴木とともに仕事をし、鈴木から「外務省のラスプーチン」というあだ名を付けられたという。)「日本のシンドラー」と呼ばれたリトアニア・カウナス元総領事の杉原千畝の名誉回復においても、外務政務次官であった鈴木と共に尽力した。しかしこのことが外務省幹部の怒りを買ったという説もある。外務省としては、杉原は訓令違反で退職した元職員であり、名誉回復をさせることは外務省の非を公に認めることにつながるからである。2002年に鈴木宗男に絡む疑惑が浮上したことに連座する形で、2月22日に外交史料館へ異動。4月に外務省を混乱させたとして給与20%・1カ月分の懲戒減給を受ける。同年5月14日に鈴木宗男事件に絡む背任容疑で逮捕される。同年7月3日、偽計業務妨害容疑で再逮捕。512日間の勾留の後、2003年10月に保釈された。2005年2月に東京地方裁判所(安井久治裁判長)で執行猶予付き有罪判決(懲役2年6か月、執行猶予4年)を受け控訴していたが、2007年1月31日、二審の東京高等裁判所(高橋省吾裁判長)は一審の地裁判決を支持し、控訴を棄却。最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)は2009年6月30日付で上告を棄却し、期限の7月6日までに異議申し立てをしなかったため、判決が確定した。国家公務員法76条では「禁錮以上の刑に処せられ、その執行を終わるまで又は執行を受けることがなくなるまでの者」は失職すると定められており、これにより外務省職員として失職した。懲戒免職や諭旨免職ではなく「失職」となるケースは、逮捕された公務員の退職理由としては異例である。佐藤は次の2つの容疑で起訴された。この2回の費用を外務省の支援委員会から違法に引き出して支払った疑いである。この疑いに対し佐藤は、支援委員会から支払をすることは通常手続きである外務事務次官決裁を受けており正当なものだった、と主張している。また、佐藤の上司だった当時の外務省欧亜局長東郷和彦は、「外務省が組織として実行しており、佐藤被告が罪に問われることはあり得ない」と証言している。そして、東郷は、佐藤が逮捕された時海外にいたが、事務次官野上義二と電話で「こんなことが犯罪になるはずがない。何も問題はない」と話し、しかも、野上はこのことを記者会見で述べるとまで語ったと佐藤の著書には書かれている。2000年3月に行われた国後島におけるディーゼル発電機供用事業の入札で、鈴木の意向を受け、三井物産が落札するように違法な便宜を図ったり、支援委員会の業務を妨害したとの疑いである。この疑いに対し佐藤は、北方領土の事情に通じた三井物産の選定は妥当であり、鈴木の「三井に受注されればいい」との発言を三井側に伝えただけだ、と主張している。もしこれらの便宜を図っていたら、佐藤の国家公務員生命を脅かすような事態で、非常にリスクが高いが、三井物産から佐藤へは金品の授受などは一切なかった。そのことは検察も認めており「動機なき犯罪」になる。一審判決で執行猶予がついたことを機に、捜査の内幕や背景などをつづった著書『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を2005年に出版すると大きな反響を呼んだ。同書などにおいて、佐藤本人は自身にかけられた一連の容疑・判決を「国策捜査」であると主張。この著書は第59回毎日出版文化賞特別賞を受賞し、以後、新聞・雑誌などに外交評論や文化論を執筆している。2006年より、魚住昭、宮崎学らとメディア勉強会「フォーラム神保町」を運営。2009年に失職するまで「起訴休職外務事務官」を自称していた。2010年から、外務省時代の体験を元にした漫画「憂国のラスプーチン」の原作を手がける(伊藤潤二作画、長崎尚志脚本)。また、静岡文化芸術大学では招聘客員教授に就任した。2013年6月に執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対しては武力行使も辞さずという立場だが、媒体によってトーンの強弱を使い分けている。レバノン侵攻、イスラエル・パレスチナ紛争などイスラエルの関わる問題では、一貫してイスラエル全面支持を表明し、イスラエルと「私たちは人間としての基本的価値観を共有している」と主張している。レバノン侵攻や2006年のガザ侵攻は、ヒズボラやハマスのイスラエル人拉致というテロに対する当然の行動であったと主張した。これは、北朝鮮による日本人拉致問題について、日本に武力行使を促した意味もある。また、2009年のガザ侵攻では、イスラエル擁護の理由として「停戦協定を破ったハマスの先制攻撃が原因でありイラン、ヒズボラ、アルカイダと通じてイスラエル国家を破壊しようと画策している」と持論を展開。また、佐藤は自らや鈴木宗男の逮捕の背景の一つに、イスラエルとのインテリジェンス協力を邪魔する外務省の親アラブ派・反ユダヤ主義的グループの策謀があったと主張している。佐藤は大田昌秀との対談(『徹底討論沖縄の未来』2010)で、沖縄戦での渡嘉敷島集団自決裁判については大江健三郎が正しいと発言しており、山崎行太郎とともに集団自決は軍の責任だとする立場をとっている。『ゴーマニズム宣言』において、小林よしのりが沖縄の現状に対して連載したところ、佐藤からマスコミを通じた批判が「一方的に行われた」として、小林が3ページに及ぶ佐藤への反駁をおこない、両者の間で論争が続いている。小林によれば、佐藤は『琉球新報』の連載で「沖縄は全体主義の島だ」と主張する一論客を非難。この一論客を「名指ししていないが、もちろんわしのことだ」と小林が一方的に捉えたことから両者間の論争が始まったとされる(佐藤はその後のサイゾーからの取材の際に、沖縄批判を展開する言論人の不徹底な態度を批判したものであると論じていただけであり、別段小林を非難する趣旨で書かれたわけではない、という趣旨の弁解をしている。ただし、小林が編集長を務める雑誌『わしズム』の2007年秋号のタイトルにも『全体主義の島「沖縄」』とあったため、これが小林が一方的に自身への批判と捉えた理由とも考えられる)。佐藤は『SPA!』に「佐藤優のインテリジェンス職業相談」を寄稿し、「ラスプーチン」と「大林わるのり」という架空の相談者を登場させ、フィクションとしての体裁を整えた上で、反撃を行った。この争いは以後も続いているが、2人とも同じく雑誌『SAPIO』『Will』に連載を抱えていること、また、小林の佐藤批判も『SAPIO』誌上で行われたことから、佐藤は小林よりもむしろ相反する主張を同時に掲載している小学館『SAPIO』編集部の姿勢に対して批判を向けている。佐藤は論争にあたり、両者間の争点が明確であること、論争相手に対し人間として最低限の礼儀が必要であるとし、これら2点が満たされていないものに関して論戦を行なわないとしている。ただし佐藤も『マンガ 嫌韓流』の作者・山野車輪について「知的水準があまり高くない」と指摘している。佐藤は「編集権の問題です。雑誌にはいろいろな長期連載があります。Aという長期連載者が、Bという別の長期連載者が書いているものはデタラメだと論評している。Aさんの言うとおりだとすれば、Bさんというデタラメな人に長期連載を書かせている雑誌編集部の責任はどうなるのか」「仮にデタラメなことを書く筆者ならば、そのような筆者を排除するのが編集部としての読者に対する責任」と述べている。これに対して佐藤を批判し、のちに民事訴訟で佐藤を訴えた金光翔は、『SAPIO』に対して佐藤が「自分を取るか、小林を取るか」の二者択一を迫っていないのが不徹底であり、矛盾していると自身のサイトで論評している。2008年、小林は佐藤から「言論弾圧」が加えられたとして『わしズム』の廃刊を宣言した。なお、小林には過去にも宅八郎との論争の末、『SPA!』から連載を引き上げたことがある。佐藤は以前、小林について「非常に真面目な人物です。他者の言説をきちんと聞いてその内在的論理を正確に捉えようとする思想の構えがあります」 と語っていたが、今回の件で「それは崩れました。2年前に比べて今の小林さんは、ずいぶんと変わってしまった」と述べている。※ 2015年現在
出典:wikipedia
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