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広島高等師範学校

広島高等師範学校(ひろしまこうとうしはんがっこう)は、1902年(明治35年)4月に広島県広島市に設置された、官立の中等学校男子教員養成機関。略称は「広島高師(ひろしまこうし)」。広島高等師範学校長附属中学校主事附属小学校主事(1941年(昭和16年)4月1日以降は附属国民学校主事)開校当初の校地(附属学校を含む)は広島市大字国泰寺村(現在の同市中区東千田町)であり、基本的に新制移行まで継承されたが、原爆被災による校舎全壊で高師本校は広島県賀茂郡乃美尾村(現・東広島市)の旧海軍衛生学校(乃美尾校舎)、附属中学校は広島県賀茂郡原村(現・東広島市)の旧陸軍南部廠舎、附属国民学校(小学校)は豊田郡大乗村(現・竹原市)の文理科大学臨海教育場にそれぞれ疎開し授業を再開した。1947年(昭和22年)8月に乃美尾仮校舎が火災で焼失したことで、同年10月には高師本校は広島市内出汐町の旧陸軍被服支廠において一部の授業を行うようになり、翌1948年(昭和23年)3月には出汐町校舎に統合された。校舎がRC造であったため比較的物的被害が小さかった(後出)附属小(国民学校)は、1946年(昭和21年)5月に東千田町の原校地に最も早く復帰、附属中は賀茂郡西条町吉土実小学校への一時移転(1946年(昭和21年)3月)を経て同様に東千田町校地に復帰した。東千田町校地は新制広島大学に継承され、大学本部ならびに政経学部・文学部・理学部・教育学部が設置された。この際、かつて高師の校舎が立地していた区域を縦断し正門から理学部本館(旧・広島文理科大学本館)に至る通称「森戸道路」が建設された。ついで1964年、皆実町の旧広島高等学校校地より移転してきた教養部(のち総合科学部)が設置され、代わりに附属小学校・中学校・高等学校は皆実校地に移転した。その後、鉄筋の附属小校舎が理学部の校舎に転用されたほか、木造の旧附属中・高校校舎は、一部が広大のサークル棟および生協・学生食堂など学生厚生施設として1995年(平成7年)の法・経済学部移転完了まで利用されたのちそれぞれ解体された。その後、かつての本部キャンパス(東千田町校地)は、ごく一部が広島大学の「東千田キャンパス」として専門職大学院、学部の夜間主コース、放送大学のための施設に転用された以外はキャンパスとしては廃止され、その跡地は1997年以降「東千田公園」として整備(広島大学東千田キャンパスを参照のこと)され、かつて高師が校地として使用していた区域にはひろしまガーデンガーデンノースタワー・同サウスタワー・アーバス東千田などが立地している(2014年現在)。東千田キャンパス内には尚志会により「廣島高等師範學校・廣島文理科大學校發祥之地」碑が建立(1979年8月)されている(冒頭の画像参照)。旧・出汐町校舎の現状については広島陸軍被服支廠の現状を参照されたい。新制移行時の附属小学校校舎は、1938年3月、東千田校地内に竣工したRC造3階建ての建造物で、当時の高師の施設としては数少ない非木造の建物であった(設計者・施工者は不明)。原爆被災時には爆心地から1.3㎞の位置にあって直後に爆風で窓枠が曲がるなどの被害を受けたが、建物自体に大きな損壊はなく外形も保たれていた。ところが、大破全壊した周囲の木造校舎から火の手が上がり風にあおられたため鉄筋コンクリートの校舎にも延焼し、焼夷弾攻撃に備え校舎内に収納されていた蔵書などに燃え移り数日後まで火災が続いた。戦後の応急修理を経て1946年5月には附属小学校がこの校舎に復帰し、新学制の施行に伴って広島大学教育学部附属小学校となったが、1964年、同校が翠町の広大附属中・高校の校地(皆実校地)へ統合移転されると、代わって広大理学部が教室・研究室として使用した。しかしこの校舎は1991年9月に理学部が東広島キャンパスに移転したのち、1996年3月に解体された。1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下により、爆心地より約1.3㎞の位置にあった広島高師および同附属中学校の校舎・寄宿舎などの木造2階建て建築は一瞬にして倒壊、その後の火災によってすべてを焼失した。唯一のRC造建築であった附属国民学校校舎も、先述の通りこの火災の延焼で内部は全焼し外形をとどめるのみという状態になった。原爆被災時、広島高師は大部分の教職員が工場などに勤労動員されていたため、校内に残っていたのは、学校警備にあたる教職員・生徒、健康上の理由で勤労動員に出席できない者および外国人留学生と附属中学校の科学学級(四年)の生徒のみであった。原爆炸裂により原爆による死亡者は即死または数ヶ月以内に死亡した者だけで教職員が19名、高師生徒が19名、附中生徒が15名、附属国民学校児童が13名で、計66名であり、市内の教育機関の中でも比較的少なかったのは附属学校が集団疎開していたことや、大部分の人々の動員先が広島市中心部でなかったことによる。なお当時高師教授であった森滝市郎(戦後被団協理事長)は、動員先の市内江波の工場で負傷、右眼を失った。

出典:wikipedia

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