ドゥエイン・ホージー(Dwayne Samuel Hosey , 1967年3月11日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身の元プロ野球選手(外野手)。のMLBドラフト13巡目でシカゴ・ホワイトソックスに指名され契約。にボストン・レッドソックスに移籍し、同年9月1日にメジャーデビュー。にヤクルトスワローズに入団。同期入団のルイス・オルティスとともに、昨年まで在籍していたトーマス・オマリーとヘンスリー・ミューレンに変わる助っ人として期待された。来日当初は、粗いスイング、稚拙な走塁、弱肩が露呈し、野村克也監督などから「ただ明るいだけの選手」または「外人選手がね、どういう事でああいう小粒の選手を連れてきたのか分からないんですけど、こちらの希望とは違ったものが出てきましてね。」と酷評される。当時日本ハムファイターズに在籍していた落合博満には「こんな史上最低の助っ人見たことない」とも言われた。しかし、野村監督のID野球を吸収しようという積極的な姿勢から、ミーティングに参加して相手投手の球種や癖を書き込んだノートを常に持ち歩くなど研究を怠らなかった。さらに他球団からあまり研究されなかったこともあり、同年は開幕から打ち続ける。横浜ベイスターズとの優勝争いが佳境に入りつつある9月中旬の読売ジャイアンツとの3連戦初戦では、トップの松井秀喜に1本差と迫る35号を槙原寛己から打ったあとの2打席で実質的に敬遠された。翌日は本塁打は出なかったものの5打席3四球4得点、第3戦では勝負してきたバルビーノ・ガルベスからトップに並ぶ36号を打つ(35号を打たれた夜、巨人のバッテリーコーチだった山倉和博が試合に負けホージーにも打たれるなど散々な試合だったため「勝負も大事だけど松井も大事」と発言した)。巨人のシーズン最終戦では、前年の山﨑武司と松井のタイトル争い同様、1本差で松井を上回っている選手がいるチームだっただけに、その行方が注目を浴びたが、野村克也の勝負するとのコメントにより敬遠はなかった。最終的に両者最終戦でHRは出ず、ホージーが松井と1本差の38本で本塁打王となる。しかし、シーズン終盤まで3割を優に超えていた成績は、9月以降.207、4HRに終わり、日本シリーズや翌年の不振を窺わせる内容になっていた。翌は、故障や他球団の徹底マークに遭い13本塁打に終わり、同年限りでヤクルトを退団し、帰国した。以降は、マイナーリーグや独立リーグでプレーした。現在はミルウォーキー・ブルワーズ傘下の1Aブレバード・カウンティ・マナティーズで打撃・守備コーチを務めている。大変明るい性格で、ヘルメットにプリクラのシールを貼ったり、スパイクに「たろう」(ヤクルトスワローズでは太郎の愛称で親しまれたため)という名を刺繍するユニークな行動をすど、チームのエンターテイナーとして常に周囲の人々を楽しませていた。パワーのほかに足も速く、1997年には20個の盗塁をマーク。同年のオールスターゲームでは全パの捕手伊東勤から三盗を含む2つの盗塁を決めた。1997年の日本シリーズ第2戦、六回表1死満塁での打席。内角球が止めたバットのグリップエンド(バットの底の部分)に当たってフェアゾーンに転がり、三塁走者の宮本慎也がホームインし5対5の同点に追いつく。記録は捕野選。このような打球がフェアゾーンに転がることは稀であり、また日本シリーズでの1点を争う場面という点で話題となり、当時の専門家らからは「秘打」と呼ばれた。日本シリーズでは他に例がないものの、レギュラーシーズンにおいては2004年に高木浩之が、2005年に嶋重宣が同じような状況でピッチャーゴロになった例と、2014年に赤松真人が内野安打とした例がある。プロ野球珍プレー好プレー大賞では、ホージーの明るい性格が度々取り上げられ、「珍プレー名人」の一人とされた。ヤクルト時代はデュウェイン・ホージーという日本語表記が一般的だった。
出典:wikipedia
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