御附家老(おつけがろう)は、江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。江戸時代には、将軍から附けられたことから「御附家老」と呼ばれたが、現在では単に附家老(つけがろう)ということが多い。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。附家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家が特に知られている。将軍の一族から大名に取り立てられた人物には、小姓などの側近を除いて固有の家臣はいないので、藩政を担う家老はみな将軍家から付けられた者となるが、ここでいう附家老は、政務や軍事の補佐を行うとともに藩主の養育の任も受け、江戸幕府の意向に沿うことも期待されていた。したがって身分としては、藩主の家来というよりも将軍直属のお目付け役という性格が強い。時代が下るにしたがって、藩ごと、附家老家ごとに考え方に差ができ、藩主に忠実に仕えて将軍家と対抗しようとしたり、逆に陪臣身分からの脱却を画策して藩主と対抗したり、財政支援と引き換えに将軍家・御三家出身の後継藩主を迎えて幕府の影響を強めるなど、政策と主導権を巡って藩内で派閥抗争を繰り広げる人物もいた。特に尾張徳川家の成瀬家・竹腰家、紀伊徳川家の安藤家・水野家、水戸徳川家の中山家の計5家が御三家の政策を強く左右することとなった。慶応4年(1868年)1月24日、新政府により御三家の附家老5家は独立大名に取り立てられた。この5家は明治17年(1885年)の華族令でいずれも男爵になっている。他の大名家は子爵となったが、これは明治以降に堂上公家または諸侯大名に取り立てられて華族に列した者は一律男爵とする内規に基づいたもので、特に旧附家老家を差別待遇したものではない。御三家の附家老5家は、江戸初期の慶長の頃より主家とは別に江戸屋敷を拝領していた。それぞれの主家屋敷の周りに屋敷を構えており、基本は国詰め政務の紀州安藤家以外の附家老屋敷は、時代とともに敷地を拡大していった。初代の附家老はそれぞれ、将軍より親藩藩主の育成や統治、幕府との調整などを命じられており、使命感を持って附家老を勤めた。しかし、江戸幕府が整備されていく上で、附家老5家体制が整った後、5家は大名格の所領を持ちながら陪臣として家格が低かったため、連帯して幕府に譜代大名並みのの待遇を求めた運動を行った。元々、直参幕臣と親藩陪臣という立場の差から抵抗を感じる者もいた。例えば家康は尾張義直と紀州義直の附家老に松平康重と永井直勝を考え、内意を伝えたところ、両人ともに家康に仕え続けることを希望した。また、頼宣の附家老となった水野重央も一度は辞退しており、その子重良はもっと明確に拒否を表明して、2,000石の直参として秀忠・家光に仕えたまま、父の遺跡を継承して附家老となることを拒み、重央が元和7年(1621年)11月12日に没した後、約2年も跡を継がずに弟の忠重に3万5,000石の大禄を譲ることを希望した。結局、秀忠と家光の説得により、元和9年(1623年)6月に家督を継いで附家老となったが、その約2年の間は附家老の水野家は無主であった。一般的な政務地として附家老たちは次のような形態をとっていた。尾張家の成瀬氏と竹腰氏は江戸と名古屋に分かれ、毎年9月に交代していた。紀州家の安藤氏は紀州の国詰めであり、水野氏は江戸詰めであった。水戸家の中山氏は藩主とともに、江戸在府で政務をとることが多かった。幕府に対して、初めて附家老の待遇改善を要求したのは、水戸の中山家第10代信敬であった。信敬は水戸第5代藩主の徳川宗翰の実子で、第6代藩主治保の実弟である。明和8年(1771年)7月に中山家を相続し、兄から水戸藩政も任されると、江戸城内での待遇改善を幕閣に働きかけた。文化13年(1816年)1月、老中水野忠成に八朔五節句の単独登城と将軍御目見を陳情したことをスタートに、それ以前は陪臣として藩主との随伴登城しか許されていなかった待遇からの脱却を図った。信敬以降、他の附家老も連帯して譜代大名並みの待遇を求めていった。特に安藤直次と成瀬正成は、江戸時代初期に大御所となった徳川家康の駿河政権に参画した。家康側近として江戸・伏見・駿河に随伴し、駿河年寄として本多正純、村越直吉、大久保長安、板倉勝重などと共に幕府運営のための文書に連署するなどの重責を担ったまま、同時に義直・頼宣の附家老に任じられた。これら2家の歴史は、立場が異なれば老中を輩出する譜代大名となったであろうことから、子孫による附家老の家格上昇運動の意識に影響を与えた。八朔五節句の単独登城については、文政8年(1825年)3月8日の水戸藩家老衆の通達によると、まず成瀬・安藤の両家が単独登城を果たし、中山家他の附家老も続くことに成功した。安藤直裕は天保2年(1831年)12月に日光奥之院の安藤直次の石碑が埋もれているのを発見し、それを譜代大名の石碑の列に再建したい旨を幕府に申し出たが、同列の再建を許されず、成瀬・竹腰・中山の石碑が譜代大名の石碑の列にあることからさらに陳情を繰り返した。また、独立大名が将軍の代替わり時に提出する誓詞を、附家老も提出したいという5家連帯の家格向上運動は、水戸藩主徳川斉昭の妨害により挫折したが、江戸城内に独自の詰間を保有する改善要求は、文政7年(1824年)の安藤直馨以降より直接懇願されており、嘉永6年(1853年)5月には老中阿部正弘に水野忠央が雁之間に詰間を命じてほしいと具体的な場所を指定した懇願を提出したが許されなかった。紀州藩の水野忠央が藩政を掌握して縁組で幕府に食い込み、紀州藩から養育した将軍(徳川家茂)を就任させ、また逆に将軍家よりの養子藩主(徳川茂承)の受け入れることで権力を強化し、5家連帯の運動よりさらに突出して、紀州藩の水野・安藤2家に菊之間席を与えるように幕府に求めた。しかし、それは5家の足並みを乱して反発を招き、また将軍の側室には大名の子女より迎えないという原則を破る批判もあった他、幕府側から見れば御三家をコントロールする機能の存続を期待された附家老が独立するということは機構上も許されることではないという構造的問題と限界があり、家格向上も独立は認められなかった。徳川忠長の1代に終わった駿河徳川家にも幕府から附家老が配置されたが、御三家附家老並の立場にあったのは朝倉宣正と鳥居成次の2名であった。徳川秀忠の治世で従二位権大納言は尾張家義直(61万9,500石、慶長5年生まれ)、紀州家頼宣(55万5,000石、慶長7年生まれ)、駿河家忠長(55万石、慶長11年生まれ)の3家で並んでおり、水戸家頼房(28万石、慶長8年生まれ)は権中納言で官位と石高で一段劣っていた。将軍家光の代になり忠長が甲州蟄居、高崎幽閉から最終的に切腹となると、忠長の行状を正すことができなかった責任により家臣たちは他家預かりとなり、家臣団は解体させられたが、両附家老は他の家臣と異なり、特に監督責任を問われて改易され、冷遇された。越前松平家は家康の次男秀康に附家老として本多富正が付けられ、秀康没後を継いだ忠直には加えて本多成重が付けられた。江戸中期に創設された御三卿は領地を持たず、家中運営のための家臣は通常幕府から派遣されていた。家老についても幕府から派遣されており、御三卿の初代家老には幕臣から次の通り1家各2名が任じられた。譜代大名となった井伊直政(上野箕輪、後に近江彦根)・榊原康政(上野館林)は徳川家康の信任を受けて大封を受けたが、ともに一族や譜代の家臣が少なかったため、家康によって徳川氏の直臣の中から直政・康政に付けられた家臣がいた。これを「御付人」と称する(前述の本多忠勝家における中根家(中根忠実)もこれに相当する)。井伊家では井伊谷三人衆(近藤氏・菅沼氏・鈴木氏)や木俣氏・西郷氏、榊原家では原田氏・中根氏・村上氏などがこれに当たる。御付人は両家において家老などの要職に就く重臣層を形成したが、一方で陪臣になることを快く思わず、徳川家の直臣への復帰を訴える行動が度々発生した。井伊家の例では井伊谷三人衆は井伊家を去った一方、木俣氏や西郷氏は井伊家の直臣化して代々家老として仕えた。榊原家では原田氏・中根氏・村上氏は「三家老」と称されて代々家老として仕える一方、榊原家とは別に幕府からもそれぞれ1,000石の扶持を受けて明治維新に至っている。これは、初代の三家老が徳川秀忠に対して徳川家の直臣への復帰を懇願した時、秀忠が形式的に1代限りの復帰を認めた上で隠居料の名目で1,000石を与え、以降榊原家の直臣となった子孫がそのまま相続することを認めたとされる。のち、慶応の改革に際し旗本の軍役が金納に代わった時にこの1,000石分の軍役の扱いについて幕府勘定所と榊原家(当時は越後高田)の間で論争になっている。
出典:wikipedia
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