咸宜園(かんぎえん)は、江戸時代の先哲・広瀬淡窓によって、天領であった豊後国日田郡堀田村(現大分県日田市)に文化2年(1805年)に創立された全寮制の私塾である。「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味。塾生の意志や個性を尊重する理念が込められている。咸宜園では、入学金を納入し名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず誰でもいつでも入塾できた。また、「三奪の法」によって、身分・出身・年齢などのバックグラウンドにとらわれず、全ての塾生が平等に学ぶことができるようにされた。淡窓は、儒学者・漢詩人であったが、咸宜園では四書五経のほかにも、数学や天文学・医学のような様々な学問分野にわたる講義が行われた。毎月試験があり、月旦評(げったんひょう)という成績評価の発表があり、それで入学時には無級だったものが、一級から九級まで成績により上がり下がりした。塾生は遠方からの者も多かったため、寮も併設された。全国68ヶ国の内、66ヶ国から学生が集まった。東国からやってきた女の子もあった。桂林荘のときに、この寮生活の厳しさとその楽しさを詠った「桂林荘雑詠 諸生ニ示ス」の4首の内、主に2首目冬の情景を詠ったもの、いわゆる「休道の詩」は教科書に取り上げられたことがあり、他にも四季それぞれの様子を詠んだ詩がある。休道の詩は、3代目塾主広瀬青邨が賓師を務めた私塾立命館を創始とする立命館大学の寮歌のルーツとも言われている。咸宜園は、江戸時代の中でも日本最大級の私塾となり、80年間で、ここに学んだ入門者は約4,800人に及んだ。咸宜園の前身である桂林荘は、文化2年(1805年)に豊後国日田に創立された。当時は照雲山長福寺(豆田町)の学寮を借りて開いていたが、文化4年(1807年)に桂林荘塾舎(桂林園・現在の桂林荘公園)を設置した。この後、淡窓は、文化14年(1817年)には堀田村(現大分県日田市淡窓町)に塾を移し、咸宜園とした。咸宜園は、淡窓の死後も、慶応2年(1866年)12月から4ヶ月ほど一時閉鎖されたものの、明治30年(1897年)まで存続した。咸宜園の建物は、東塾敷地にある秋風庵・遠思楼が現存するが、東塾塾舎は書蔵庫を設置するため明治23年(1890年)に、講堂は淡窓図書館(現在は官公街へ移転)設置のために大正4年(1915年)にそれぞれ撤去され現存しない。道を隔てた西側にあった西塾は明治22年(1889年)から日田郡役所として使用されていたが、その後、井戸を残して撤去され現存しない。昭和7年(1932年)には咸宜園跡として国の史跡に指定されており、現在、一般公開がされている。また、咸宜園跡はおおいた遺産にも指定されており、平成27年(2015年)4月24日には「近世日本の教育遺産群」のひとつとして日本遺産にも指定されている。秋風庵(しゅうふうあん)は、天明元年(1781年)に淡窓の伯父に当たる、俳人である廣瀬月化(ひろせげっか)により現在の場所に建てられた。名前は雪中庵蓼太から送られた松尾芭蕉の句よりつけられた。後に淡窓が塾の建物として使用した。遠思楼(えんしろう)は、文化14年(1817年)に一般の商家に建てられていたもので、嘉永2年(1849年)に現在の位置に移築したものである。1階に書庫があり、2階に書斎があった。明治7年(1874年)には一時、中城町へ移されたが、昭和28年(1954年)に現在の位置に移築復元された。現在の姿は、平成9年(1997年)に解体、修復を受けたものである。咸宜園、前身の桂林荘には以下のような人物が関わっている。歴代塾主は広瀬淡窓を始め、弟の広瀬旭荘や、林外、青邨、貞文等が務めた。塾出身者には、高野長英や大村益次郎、清浦奎吾、上野彦馬、長三州、横田国臣、松田道之などがいる。咸宜園の主な門下生としては、以下のような人物がいる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。