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三宅裕司のいかすバンド天国

『三宅裕司のいかすバンド天国』(みやけゆうじのいかすバンドてんごく)とはTBSで放送された深夜番組『平成名物TV』の1コーナーである。1989年2月11日に始まり、1990年12月29日に多くのバンドを輩出して幕を閉じた。その後2007年12月30日に「あの伝説の番組再び!"イカ天2007復活祭"名物バンド激レア映像 今夜限りの大放出スペシャル」と題し、17年ぶりに復活した。「イカ天」が公式な通称であるために「イカすバンド天国」と誤記されることが多いが、「いかす」をひらがなで書くのが正式な表記である。なお、この番組に出場したバンドの総数は846組であった。毎週土曜深夜に10組(第1回、第2回は12組)のアマチュアバンドが登場し、審査員によってチャレンジャー賞バンドが選ばれて前回のイカ天キング(チャンピオン)バンドと対決して勝った方がイカ天キングとなる。5週連続でイカ天キングを防衛したバンドはグランドイカ天キングとなり、メジャーデビューが約束された。だが番組当初にはメジャーデビューへの道という話は全くなく、グランドキングになれば48チャンネルのスタジオを借り切って録音ができ、番組でPVを制作してもらえるというだけであった(その後、番組の人気とともにスケールアップしていく)。したがって出場バンドの中にはベンチャーズやグループサウンズのカバーあるいはプログレッシブ・ロックを演奏するバンドも少なくなく、かつて存在した同様の番組『勝ち抜きエレキ合戦』に出場経験のある中年男性バンドという古強者も登場し、そういうものも含めた学園祭的なにぎやかさも番組制作のねらいの一つであったという(この番組の審査員にベンチャーズ研究家の萩原健太やプログレッシブ・ロックの世界で神格化された難波弘之が名前を連ねていた)。この番組は当時爆発的な人気を呼び、1989年の新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞を受賞するまでに至った。1990年1月1日には、日本武道館において前日の第31回日本レコード大賞のセットをほぼ流用するような形で「輝く!日本イカ天大賞」が行われた(この放送は翌日1月2日、23時15分 - 25時15分)。司会は三宅裕司と相原勇(後期にはバンドが登場する直前の「次のバンドはこのバンドだいっ!」というフレーズも人気に)、第1回放送時は三宅と出場バンドメンバー全員による「ヘーイ、セーイ」の掛け声で始まり、この時には「略していかバン天」と言っていた。バンド呼び込みなどのナレーションは関口伸(1989年4月15日放送分から登場。それ以前は三宅か相原による紹介で行われていた)。プロデューサーは元スペクトラム・KUWATA BANDの今野多久郎、収録スタジオは日比谷シャンテTBSスタジオ(地下1階。現在は映画館「シャンテ シネ3」に改装された)。スーパー・エキセントリック・シアターの若手だった岸谷五朗、寺脇康文、山田幸伸の「SET隊」が「天ぷらトリオ」と名乗って、前説とオープニング出演していた時期もある。しかし、1989年に番組のディレクターが麻薬所持で逮捕。1990年3月にも番組の構成作家が大麻所持で逮捕される。同年4月、2年目に突入し審査員が交代して以降は人気は芳しくなく、同年8月 - 9月の頃には視聴率が2 - 3%と降下。その後、バンドブーム熱の降下とともに番組は終了した。イカ天キングとチャレンジャー賞受賞バンドとの対決で、7人の審査員の多数決で決まる(スタート当初は審査員は5人)。丸(金色)のキングの札(イカ審棒と呼ばれた)が4人以上なら勝ち抜き、四角(焼肉の網を模した形)のチャレンジャーの札が4人以上なら新キング誕生(キングには1週勝ち抜くごとに賞金10万円と楽器がプレゼントされた)。キングとなった週を含め、5週勝ち抜きでグランドイカ天キングとなる。ちなみに1989年7月頃までの札は赤丸(キング)と青丸(チャレンジャー)で色分けされ、中にイカのロゴマークが入っていたものであった。この当時の審査員席は焼肉を焼くホットプレートのような卓の周りを5人が囲んで座るといった体裁であった。なおキングのグランドキング挑戦の週には強力なチャレンジャーがぶつけられることがセオリーとなっており、FLYING KIDSをあわやというところまで追い詰めたKUSU KUSU(人気投票連続11週1位)、たまとマルコシアス・バンプの対決など名勝負や圧倒的な実力差でBEGINがNORMA JEANのグランドキングを阻止した際のラッシャー木村の「耐えて燃えろ!」などの名言を生んでいる。グランドキング誕生の次週はキング不在となる。したがってそのままキング不在で番組が行われ、その週の最優秀バンドがキングになる。しかし初代グランドイカ天キング(FLYING KIDS)が誕生した翌週のパニック・インザ・ズゥはキングの実力かどうかの判断ができないということから、「仮イカ天キング」という措置がとられた。この仮キングの週は勝ち抜き週数にカウントされず賞金もない。次週で勝てば正キングとなり、負ければ仮のままで終わるというもの。2代目グランドキング(BEGIN)が誕生した翌週のカブキロックスも仮イカ天キングであった。また、3代目グランドキング(たま)誕生の週はチャレンジャー賞のマルコシアス・バンプを落とすのはあまりにも惜しいということから審査委員長の萩原健太が「そのまま仮イカ天キングにして残すのはどうか」と提案。三宅はもちろんほかの審査員も異存はなく、満場一致で番組中に決定した。このほか、番組末期に仮キングとなったGLUは「仮にするか本当のキングにするか迷いました」と言われており、もう少し評価が高ければキングとの対決を経ずして正キングになった唯一の例となるところであった。イカ天のルールはこの番組らしく臨機応変に変更されていった。チャレンジャー賞と他の賞を同時に受賞したバンド、複数の賞を受賞した出場者もいる。審査員席には、赤と青の2つのランプがあり、「もう見たくない」と思った時には赤ランプを押す。赤ランプが2つ点くと「ワイプ」となり、演奏中の画面が小さくなる(演奏時間の記録も赤2つ点いた瞬間までのものとなる。7つ全部赤が付くと演奏画面が消える。第2回放送時までは赤3つで一気に画面が小さくなっていたが、第3回放送からは段階的に縮小する形に変わった)。3分間ワイプを受けずにいられたら「完奏」(この完奏のイカマークが画面に登場したのは1989年3月4日から)。ただ、ワイプになってももう少し見たいと思った時には青ランプを押す。すると演奏中の画面が再びいっぱいに戻るが、完奏扱いにはならなかった(番組初期の頃には審査員の赤ランプよりも権限が強かったという、三宅用の青ランプが存在した。但しこれで復活できるのは5秒だけだった)。最速ワイプ記録は九州ASHの14秒。登場時にふざけすぎて審査員の反感を買い、演奏前に赤ランプがついてしまったケースもある。またワイプをかわすため、わざと短い曲を作って挑むチャレンジャー(1989年6月17日に1分30秒で完奏したバンド「近親憎悪」)も存在した。ちなみにキングはワイプの対象にならない。※1989年の分については、『イカ天年鑑 平成元年編』(ワニブックス、1990年3月10日初版)の各回各ページの上部に全て掲載。※詳しい対戦スコアなどは三宅裕司のいかすバンド天国に出場したバンド#歴代イカ天キングを参照。1989年3月25日までは審査員5人体制。4月8日放送分から7人体制となった。この番組の審査はたとえば、吉田「とても好きです(中略)ただAメロがあまりにも8分音符が続いてそこをちょっと…」萩原「いや、アレいいですよ」銀次「おれも好きだな」三宅「あ〜、いま吉田さん猛ひんしゅくを買いましたね」吉田「いま、とてもあせってしまいました」というやりとり(因にこの言い合いが展開されたバンドは第4代イカ天キングのイエロー太陽sであった)があるように、政治的なかけひきのない厳しいながらも和気藹々としたものであった。1990年3月まで音楽評論家、審査員長。よく出場者をフォローするコメントを出し『フォローの達人』『イカ天の良心』とも言われる。米米CLUBの海外レコーディングに同行して番組を休んだ時も、自費で自分の人形を作り自分の席に置いていったこともあった。ただ「フォローのしようがない」「こんなバンド完奏させちゃいけない」という発言があるように甘い審査というわけではない。オペラ歌手。美形好きと公言し、美形の男が出てくると眼鏡をかけることもあった。この番組がきっかけでその後、村上“ポンタ”秀一とレコーディングすることになる。ベーシスト、アレンジャー、プロデューサー。冷めたような口調で『何、それ?』『やめてよ』『何でこんなバンド、予選通すの?』などの辛口コメントが多く、一方で『今日は厳しいことを言い過ぎて、すみません』と謝る一面もあった。そういうこともあって、一時少女週刊誌に載るほどの人気に。特に電子楽器シーケンサー打ち込み系グループを一切認めなかった。しかし、2004年・2007年にはTM NETWORKのコンサートサポート、レコーディングに参加した。初期のナイアガラメンバーでもあることから面白好きな一面を番組では見せた。プレイヤー的な視点のコメントでは「建&銀次」というコンビにされることも多かった。謎のタクティシャン。舞台の演出家だったり、音楽プロデューサーだったりするらしい。フグの調理師免許を持っており、それをネタに三宅にいじられることも多々あった。現在は福山雅治のプロデューサー。ドラマー。吉田建がメインとなっていた『LOSER』(泉谷しげるのコンサートバンド)・『JAZZ MASTER』(沢田研二のコンサートバンド)のドラマーだった関係から出演したと思われる。何度も出演した印象を持たれているが、実は6回の出演である。ハードボイルド作家として紹介されていた。一度だけ三宅の代理で司会を務めたことがある。プロレスラー。元国際プロレスのエース。マイクパフォーマンスを得意とする。「耐えて燃えろ!」の名言を残す。なお、他の審査員がスタンドマイクであったのに対し、ラッシャーだけはハンドマイクだった。1990年4月から1990年元旦(放送は翌2日)日本武道館に於いて催行された公開イベント。前日に同ホールで催行された第31回日本レコード大賞のセットを流用して、番組のシンボルであるイカのデザインのセットを追加したステージが使用された。司会進行はレギュラーと同じく三宅裕司と相原勇、ナレーターは関口伸が務めている。演目は以下の通り。ベスト・プレイヤー&ベスト・ボーカル賞部門は、受賞者によって編成されたセッション・バンドという形式で、演奏中に逐次発表された。受賞者及びセッション・バンド・メンバーは以下の通り(発表順)。ステージに登場した審査員は以下の通り。(1990年10月6日から)毎週土曜日深夜(日曜日未明)24時40分 - 27時00分放送休止日スペシャルバージョンでの放送(キングVS挑戦者の対戦など無し)レギュラー放送時間以外で放送された特番原則関東ローカルだったこの番組も、放送開始当初は前番組『SUPER WEEKEND LIVE 土曜深夜族』を放送していた2局がそのままネットを引き継いでスタート、以後番組の人気が急上昇していくのに応える形でネット局が増えていった。※なお、2007年12月30日に放送された本番組の特番『イカ天2007復活祭』は全国ネットの枠で放送されたため、上記以外の局でも放送されていた。※不祥事による放送休止は次節を参照。ドラマ
「めざせ!イカ天 ロックンOL物語」 (1990年5月12日「ドラマチック22」枠で放送)
出演:藤田朋子、森川由加里、阿部寛、奥田圭子、豊原功補、岸部一徳 他(三宅、相原らイカ天レギュラーも出演)
脚本:塩田千種 演出:小川定孝
書籍
「イカ天年鑑・平成元年編」(ワニブックス)ビデオ(オムニバス)
「いか天[完全]完奏版」(TBSビデオ・バンドストッククラブ)CD(オムニバス)

出典:wikipedia

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