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国際興業バス

国際興業バス(こくさいこうぎょうバス)は、国際興業が経営するバス事業である。乗合バスの営業エリアは以下のとおりである(太文字は営業所の所在地の市区町村)。国際興業は上記地域に10ヶ所の乗合バス営業所と900台強の車両を要する大手バス事業者である。次停留所の車内放送の出だしは、首都圏の事業者としては珍しくメロディーチャイムを採用しており、一般路線バス・コミュニティバスともタイプが異なる物を採用していたが、2012年より一部の営業所において通常の2点式チャイムまたは「ピポパポ~」という4点式電子音チャイムへ変更され、同年10月には全ての営業所において4点式電子音チャイムへ変更された。国際興業のイラストレーターには、2004年から一貫して藤沢チヒロを起用している。なお、貸切バスは東京・埼玉・神奈川の3都県において事業を営んでいる。毎年冬にはファン向けイベント「国際興業バスまつり」を実施している。1990年代には戸田営業所で開催していたが、2004年からはさいたま東営業所へ場所を移転して開催しており、このイベントのために飯能営業所から車両を移動させるなど、ファンサービスも積極的に取り組んでいる。国際興業は、1946年(昭和21年)に当時の「国際商事」が東京急行電鉄から「東京観光自動車」「東都乗合自動車」を譲受し、それから数年を経て両社を合併したことで成立したものである。ここでは、主に乗合バスの沿革について前身の東都乗合自動車時代を含めて記述する。1935年(昭和10年)に設立された東都乗合自動車は、当初は板橋・赤羽周辺にいくつかの路線を有する小さな事業者だった。しかもこの路線は東都乗合自動車が独自に開設させたものではなく、その前身の事業者として「板橋乗合自動車」があった。板橋乗合自動車は1919年(大正8年)の創業で東都乗合自動車よりも古く、「巣鴨駅‐地蔵尊前‐庚申塚‐板橋駅」が最初の路線だった。その後、板橋駅側が志村兵器庫前(現:赤羽車庫付近)まで延伸、さらに「大塚駅‐庚申塚」「練馬横町(現:大和町)‐上板橋駅‐豊島園」「志村‐赤羽駅‐志茂」などの路線が開設されると、これをほぼそのまま東都乗合自動車が継承した。東都乗合自動車は「京王電気軌道(現在の京王線を運営していた会社)」の関連会社だったが、これは東都乗合自動車が設立された後に傘下へ収まったという説と、設立時に京王電気軌道と「玉川電気鉄道」の共同出資会社だったという説がある。どちらにせよ、玉川電気鉄道は後に「東京横浜電鉄(東横電鉄)」へ吸収合併され、この時点で東都乗合自動車と東横電鉄の間に関係が出来ることとなる。その後、東都乗合自動車は太平洋戦争による陸上交通事業調整法、陸運統制令といった戦時統制の後押しを受けて、いわゆる「大東急」の成立で同系列となった営業地域の近い「鳩ヶ谷自動車」「中山道乗合自動車」の2社を合併する。鳩ヶ谷自動車も、東都乗合自動車と同様に京王電気軌道の傘下にあった会社だが、鳩ヶ谷自動車の設立は東都乗合自動車よりも大幅に早い1916年(大正5年)である。最初の路線は「鳩ヶ谷‐川口駅」で、その後は北部を西立野(現:埼玉高速鉄道戸塚安行駅付近)、風渡野(現:東武野田線七里駅付近)へ延伸し、南部も東京都内に出張所を設けた上で「赤羽駅‐下十条‐王子駅」の運行を開始した。さらに、新荒川大橋の開通によって川口駅‐赤羽駅の連絡経路を設定するなど、岩槻海道周辺を中心に発展を続けた。1932年(昭和7年)には越谷・浦和・志木などの、現在の国道463号周辺における東西方向の路線拡充も行われた。さらに1936年(昭和11年)には「川口乗合自動車」を合併し、同社の路線を継承した。川口乗合自動車はその名の通り川口駅周辺の路線を担当していたが、その中に「川口駅‐赤羽駅」も含まれていたことで鳩ヶ谷自動車とライバル関係だったが、川口乗合自動車は東部が千住、西部が笹目経由で美女木までの路線を担当していた。社名から分かるように中山道周辺において営業していた中山道乗合自動車は、1932年(昭和7年)の設立で、当初は王子乗合自動車商会から継承した「王子駅‐板橋役場‐戸田村」を運行していた。その後、埼玉県内でも中山道に沿って浦和・大宮へ延伸していくが、経営状況は極めて悪かった。このため、昭和初期に他社への身売りが検討された結果、「東京大宮乗合自動車」を買収先として一度契約が締結された。ところが、同社の将来性に着目していた東横電鉄社長の五島慶太がこれに割って入り、1936年(昭和11年)に同契約を破棄、中山道乗合自動車は一転して東横電鉄傘下へ収まることとなる。五島は、中山道乗合自動車を傘下に収めた勢いをそのままに、埼玉県の中山道周辺で競合していた各事業者を次々に合併・買収していく。すなわち、蕨駅周辺で運行していた「ワラビ乗合」、与野町周辺で営業していた「与野自動車」、浦和‐美女木間を運行していた「美谷本乗合」などが、全て東横電鉄の傘下へ収まっていった。1940年(昭和15年)には、東横電鉄傘下の姉妹会社だった「池袋乗合自動車」を合併した。池袋乗合自動車は池袋駅から成増・石神井方面に向けて交通の結節点を効率よく結んだ路線網を有する優良会社で、成増‐石神井(現:石02)はその前身である「石神井成増自動車商会」から1934年(昭和9年)に引き継いだものである。以上のようにして、東都乗合自動車は東京都城北地域から埼玉県中山道・岩槻街道・国道463号周辺に路線を有する大規模事業者となった。終戦から間もない1946年(昭和21年)、東都乗合自動車は大東急傘下を離れ、国際興業へ譲渡された。これは五島と国際興業創業者・小佐野賢治との個人的な繋がりによるところが大きく、五島は東都乗合自動車の譲渡に留まらず、五島の率いる東急からバス経営のノウハウを持つ社員を多数送り込み、国際興業の今後の事業拡大を支えた。なお、東都乗合自動車は会社経理応急措置法下の特別経理会社に指定されていたため、この指定が解除されるまで国際興業による吸収合併は認められなかったが、1950年にこの指定が解除されたことで直営となり、これをもって国際興業バスが成立したこととなる。国際興業はこの間、僅か1年間だが小田急バスの前身である「武蔵野乗合自動車」の経営にも参加している。戦後の路線拡張は、他の民営各社と同様の道を歩むこととなる。すなわち、都営バスとの共同運行による都心乗り入れ路線に力が注がれ、さっそく1947年(昭和22年)には「大山‐東京駅降車口」「志村橋‐東京駅降車口」が開通、続いて「上板橋駅‐東京駅降車口」「川口駅‐赤羽駅‐東京駅降車口」「川口駅‐浅草‐東京駅降車口」などが相次いで運行を開始した。また、同じく大東急を離脱した関東乗合自動車とは、東都乗合自動車が別会社だった頃から交流を深め、1949年(昭和24年)に両社共同管轄の「池袋駅‐中野駅(現:池11)」を立ち上げ、1970年代には環状七号線を経由する「高円寺駅‐野方駅‐赤羽駅(現:赤31)」を開設させた。さらに東武鉄道・西武自動車のエリアに乗り入れる形で、草加駅・所沢駅方面などにも足を伸ばし、着実にエリアを拡大した。大宮市では終戦直後に法人化された「太平バス」を買収、そして飯能市から旧名栗村にかけての地域を担当していた名栗林材交通改め「飯能交通」も買収・合併し、1950年代までに現在の営業エリアがほぼ固まった。ここまで路線を拡張させると営業所の新設も相次ぎ、1958年(昭和33年)には池袋営業所練馬分車庫、および埼玉県川口市青木町に「川口営業所」が開設され、1962年(昭和37年)に練馬分車庫は「練馬営業所」へ昇格、東京都北区稲付町(現・北区赤羽西)にあった旧・川口営業所は志村営業所赤羽出張所へ名称変更され、移転したのちに「赤羽営業所」へ昇格した。1982年(昭和57年)3月末をもって、国際興業の営業エリア内で共存していた都営バス志村営業所が閉鎖された。国際興業ではこれを前にした1978年10月31日を最後に、都営バスとの共同運行路線を全て廃止し、東京駅乗り入れを取り止めた。自動車の普及による慢性的な渋滞で定時運行が保てなくなったことと、営団地下鉄有楽町線・都営地下鉄三田線などの開業で乗客が鉄道へ流れたことも原因と考えられている。しかし、王子駅止まりだった一部路線は国際興業単独運行へ変更され、「王子駅‐上板橋駅(現:王54)」などは現在でも基幹路線の一つとしている。国際興業バスは、1960年代には埼玉県中南部で圧倒的な地位を確立した。この頃の埼玉県は、東北本線を軸に東側が東武伊勢崎線、西側が東武東上線で挟まれた地域の輸送を路線バスへ全面依存しており、その中心に位置する戸田営業所・鳩ヶ谷営業所は国際興業の収益を支える「ドル箱」となった。しかし、1985年(昭和60年)9月30日に埼京線が開通すると、戸田市から浦和市西部にかけての交通形態が一変する。従来まで京浜東北線や都営地下鉄三田線へ向かっていた乗客の大半が埼京線へ流れ、戸田営業所管内では全面的な路線の再編を実施した。さらに2001年(平成13年)3月28日に埼玉高速鉄道(赤羽岩淵‐浦和美園)が開業すると、今度は川口・鳩ヶ谷両営業所管内で創設以来となる大規模再編が実施された。乗客が鉄道へ転移すると見込まれたことで本数の大幅削減が実施された系統も少なくなかったが、埼玉高速鉄道の他路線との接続の関係、そして何より埼玉高速鉄道の運賃が路線バスより高額だったことで、鉄道への転移は予想を下回った。それどころか路線バスの利用者は減らず、平日朝ラッシュ時には「積み残し」が各所で発生してしまう事態となり、国際興業にも利用者から「改定後の路線が不便」「本数が少ない」などの苦情が多数寄せられるようになった。結局、国際興業は同年10月に2回目の再編を行い、「廃止された系統の復活」「起終点の延伸」「本数の増回」を繰り返し実施した結果、路線バスの利用減少を食い止めることに成功した。それでも、全体としてのスケールメリットは縮小しており、飯能以外での収益で飯能地区(とりわけ名栗方面の路線)の赤字を補うことが難しくなっていった。2004年(平成16年)から投資ファンド傘下となり、より一層厳しい採算性確保を要求されるようになった国際興業は2012年(平成24年)、「飯能営業所周辺において、2014年(平成26年)3月末を目途に営業所自体の廃止や他社移管、コミュニティバスへの移行」なども視野に入れ、地元の飯能市・日高市に社会的な論議を要求するに至った。現在のところ、営業所および路線の存続については飯能市などと合意形成されているが、引き続き今後の方針に関して検討されている状況にある。国際興業の乗合バス営業所は下記の通り、東京都内に4ヶ所、埼玉県内6ヶ所の計10ヶ所がある。1950年(昭和25年)の国際興業バス成立時には、乗合自動車部内に都内路線を担当する「営業第一課」、埼玉県内の路線を担当する「営業第二課」が配置され、第一課の管轄下に池袋・板橋・志村の3営業所、第二課の管轄下に川口・鳩ヶ谷・浦和の3営業所が置かれた。ただし川口営業所は、当初は赤羽駅に近い北区稲付町に置かれ、同駅周辺における都内路線の一部も担当していた。都内では、1953年(昭和28年)に板橋営業所が西巣鴨へ移転して「巣鴨営業所」となり、旧・板橋営業所は板橋分車庫となった。1958年(昭和33年)には池袋営業所の管轄下に練馬分車庫が開設され、同時に旧・川口営業所が埼玉県川口市へ移転した。旧・川口営業所は志村営業所赤羽出張所へ名称変更された。さらに、板橋分車庫の廃止と清水町分車庫の開設が行われたのち、1963年(昭和38年)には巣鴨営業所が廃止、同時に練馬分車庫が営業所に昇格して「練馬営業所」となり、昇格したばかりの赤羽営業所が清水町に移転し、巣鴨の路線は練馬・赤羽の両営業所に継承された。埼玉県内では、東京都内に設置されていた旧・川口営業所の移転開設ののち、中小事業者の合併・路線譲受によって営業所の増設が続いた。すなわち、1959年(昭和34年)に太平バスの合併によって「大宮営業所」が、飯能交通の合併により「飯能営業所」「名栗営業所(のち名栗出張所へ格下げ)」が、1960年(昭和35年)には帝産オートの一部路線譲受によって「川越営業所」がそれぞれ開設された。その後、1965年(昭和40年)には川越営業所の傘下として「志木分車庫」、1971年(昭和46年)に「戸田営業所」が開設されたが、志木分車庫は所管路線の増大によって用地不足に陥ったため、1993年(平成5年)に「西浦和営業所」と名称変更のうえ、移転した。一方で川越営業所は分車庫に格下げされたのち、1995年(平成7年)に廃止されたが、所管路線はほぼ全てを西武バスへ譲渡した。2000年(平成12年)には、浦和・大宮両営業所が統合のうえ、さいたま市上野田に移転して「さいたま東営業所」となった。このさいたま東営業所では、国際興業バスで最も広い敷地面積を有している。東京営業所とは「観光東京営業所」のことで、板橋区小豆沢の車庫から30台が転属して1959年(昭和34年)に本社営業所越中島車庫として発足した。1964年(昭和39年)に本社営業所を廃止すると、同所を観光東京営業所として開設した。長らく観光バスの営業所だったが、1988年(昭和63年)に「ドリーム盛岡 (らくちん) 号」の開設のために乗合バスの営業所としても開設(観光バス営業所と併設)した。乗合バスの営業所としては4台所属で高速バスのみ担当しており、前述のドリーム盛岡号以外に、「ドリーム八戸・十和田 (シリウス) 号」、当時国際興業でも担当していた「ジュピター号」を担当していた。1999年(平成11年)に観光・乗合ともバスの営業所としては閉所したが、一時期のみハイヤー営業所となった。このように、都内の営業所は1960年代にはほぼ現状のように落ち着いたが、埼玉では競合事業者との路線調整が数度に渡って行われたこと、郊外人口の増加による需要増が続いたことから、1990年代から2000年代にかけても新設や移転・統合などの再編成が続いている。また、国際興業バスでは高速バスの乗車券・定期券の販売を行う案内所を、主要ターミナルである以下の各駅に設置している。このうち、池袋駅の案内所は「国際興業総合案内所」と呼ばれ、東北方面の高速バスの出発場所・待合所にもなっていたが、現在は全て池袋駅西口からの発車となっている。高速路線は、都内・埼玉県を起点に東北方面の夜行長距離路線と、大宮・池袋・浦和・川口などから羽田・成田空港への直通路線を担当している。以前は関西方面の夜行長距離路線も担当していたが、2007年(平成19年)2月28日をもって全廃となった。カッコ内の事業者は共同運行相手。なお、「けせんライナー」「ジュピター号」は繁忙期のみ国際興業が続行便を運行し、それ以外の時期は予約・発券業務のみ行う。「イーハトーブ号」については国際興業は運行を担当せず、予約・発券業務のみ行う。国際興業では、一般路線の深夜バスとは別に、池袋・大宮両駅を起点とする中距離の深夜急行バスを運行している。1989年(平成元年)開業の池袋‐大宮線に始まり、2005年(平成17年)開業の大宮‐蓮田・久喜線まで拡張が続き、現在は以下の8路線体制となっている。これらの路線には、かつては観光格下げの車両が使われていたが、現在は交通バリアフリー法の改正に伴い、ロマンスシートを装備した座席定員の多い専用車のいすゞ・エルガのワンステップ車が導入された。先述のとおり、元観光車を格下げして使用していた名残でこれらの車両にも観光用塗装が施された。原則としてこれらの車両が充当されるが、年末年始などの繁忙期に増便を運行させる場合は一般乗合車両が応援に充当される。※:国際興業が担当する路線・系統のみ掲載この場合、「83」はLKG-LV234N3の形式別区分を持つ1号車である。上2桁の形式区分の一部は以下のとおり。※上1桁目は、主に車両長や車両の大きさにより区分される。
※上2桁目は、3桁目からの繰り上がりの場合と、メーカーの形式変化による変更の場合がある。さらに500や900などの飛び番は、1桁目で区分し切れない場合に利用される。
※過去には、異なる形式で同一区分ということもあった(BU/CLM等)。よって今後必ずしも上記のように分類されるとは限らない。
国際興業バスでは、いすゞ系列の販売会社(北海道いすゞ自動車)を傘下に持つ関係から、一部の車両を除くほぼ全車をいすゞ自動車より、北海道いすゞ自動車をディーラーとして導入している。一般乗合車両は、大型車と中型車を並行投入しており、車体はエルガ、キュービックなどの純正仕様である。高速・貸切もスーパークルーザーやガーラが導入されているが、元国際観光バスの日野・セレガが移籍している。大型車のホイールベース(以下WB)はやや短めの4.8メートルクラスが主に選択されているが、1993年(平成5年)から1995年(平成7年)と2007年(平成19年)以降に標準的なWB5.3mクラスの車両がまとまった台数配備されたほか、1985年(昭和60年)から1991年(平成3年)にかけてWB4.3メートルの短尺車種(キュービックLT)の導入実績もある(2003年(平成15年)3月全廃)。また、1999年(平成11年)には、いすゞの乗合バス車両のモデルチェンジを機に、閑散路線・狭隘路線での使用を目的とした小型車(エルガミオ7m車)が導入されている。小型車はその後、コミュニティ路線の拡張等により増車が進んでいるが、いすゞが7m車の製造を短期間で打ち切ったことや、いすゞのラインナップにない車両、路線委託者の意向を踏まえて車種を選択するケースがあることなどから、日野自動車・三菱ふそうトラック・バス・クセニッツ等の他社より購入した車両も一部にある。UDトラックス(旧:日産ディーゼル)の車両は米軍輸送を担当していた1970年代前半までは在籍していたが、それ以降は在籍していない。最近では、ラッシュ型WB5.8メートルクラスの車両の導入をすすめている。側面の案内表示機は乗降方法に拘わらず後乗り用の位置に設置されている。なお、大手事業者としては珍しく他社からの移籍車も少数存在しており、江ノ島電鉄から1台、淡路交通から8台が移籍している。(ワンロマ#国際興業バスの項も参照)乗合バス車両のカラーリングは、東都乗合時代は緑と黄色を基調とするものであったが、国際興業バスの発足後ピンクグレーとマルーンの2色塗りとなり、さらに1959年(昭和34年)に現行デザインの基礎となる白地に濃淡2系統の緑色を配したものとなった。この際、ローマ字による社名表記とその略称である「KKK」をかたどったロゴが採用された(オリジナルのロゴは黒の塗装であったが、平成5年式辺りから青のカッティングシールになった(更新車も同様)。ロゴが付いていない状態で登場する新車も見かけられた)。その後、1998年(平成10年)度にノンステップ車両が導入されたのを機に、薄緑色の部分が鮮やかな黄緑色に変更され、ロゴや意匠の変更が行われた。さらに、2002年(平成14年)度にデザインのマイナーチェンジが行われて今に至る(貸切・路線兼用車は細部の意匠が異なる)。なお、1997年(平成9年)度までの車両は、「KKK」のロゴが消去されたのち、黄緑色への塗り替えと新しいロゴの付与がなされた。塗り替え時期により、同世代の車両でも旧塗色と新塗色が混在し、また前後は「ロゴ無し」「Kokusai Busロゴ」「Kokusai Kogyoロゴ」の3種類があったり、非公式側面表記が「国際興業バス」「スバ業興際国」、これらフォントの新旧など入り乱れていたが、廃車が進むとともに淘汰された。標準塗色以外では、路線・貸切兼用車は若干の意匠変更されている他、2013年9月には旧塗装復刻ということで、現行車両1台が旧時代のマルーン色に塗り替えられた他、先代薄緑色の車新型両が4台導入された。なお、薄緑色の旧型車両は飯能で同年11月まで運行されたことから、厳密には「復刻」ではなく旧塗装の引き継ぎと言える。ドアブザーはドアが完全に閉まるまで鳴り続ける。2010年(平成22年)度導入車両よりドアブザーが汎用タイプのチャイム式に変更され、また屋根の色も冷房能力効率化のため黄緑色から白色に変更された。観光・高速・深夜急行用の各車両のカラーリングは、日野・ブルーリボンのメーカーのカタログ撮影車塗装(通称:ブルーリボンカラー)を採用しているが、観光車および深夜急行車と高速車とでは塗り分けが若干異なる。深夜急行用の車両はかつては元観光車をそのまま観光用塗装で格下げして使用していた関係で、現在の深夜急行用のエルガにも観光用塗装が施された。なお、側面・後面にて刻まれているローマ字表記では、グループ内の各社ごと(例えば、国際興業では「Kokusai Kogyo Bus」で表記し、またグループ事業者の十和田観光電鉄では「Towada Kanko」で表記)にて記されているが、近年投入されている新車及びグループ内各社への譲渡分については、原則「Kokusai Kogyo Group」で表記(ただしそれ以前に投入されている既存車に関しては、Group表記への書き換えは行われない)されており、この場合における所属事業者(社名)表示は「正面の行灯」及び「側面の前側上部または後面下部」でのみに記されているため、どこの所属であるかは見分けが付かなくなってきている。なお国際興業は側面の後面下部に「国際興業株式会社」の表記があったが、2012年11月に運営会社が国際興業グループ株式会社になってからの新車は単に「国際興業」だけの表記になり、それ以前の車両も順次変更されている。いすゞ・ガーラ(2代目、新車導入した車両のみ)からは、以前からフロントの左側に車名を入れている山梨交通同様に、フロントの左側に「GALA」ロゴを入れている岩手県交通の前身である岩手中央バス(1970年(昭和45年)にグループ入り)では、長距離路線用のカラーリングに国際興業バスの観光・高速車両のカラーリングを採用していた。国際興業で廃車となった車両は、一時的に敷地面積が広大なさいたま東営業所へ留置されることがあるが、多くは所属先から直接、専門業者によって回送される。その後、グループ内の各事業者を中心に譲渡され、譲渡先で整備を行った後に引き続き使用されることが多い。近年ではノンステップバスの導入や首都圏ディーゼル車規制によって代替が急速に進み、現役使用に十分耐えうる車両が数多く譲渡されるが、ディーゼル車規制をクリアした車両の譲渡も進んでいる。グループ内の主な移籍先としては十和田観光電鉄(青森県)、秋北バス(秋田県)、岩手県交通(岩手県)、山梨交通(山梨県)などがある。岩手県交通では、岩手県交通で使用できるバスカード(かつて岩手県北自動車と共通利用できた)を導入しており、使用可能車両には首都圏で使用していた緑色の「バス共通カード取扱車」のステッカーをそのまま流用しているケースも見られるなど、見た目は国際興業時代と大して変わらない。一方、国際興業の保有台数の多さからグループ外への譲渡も見られる。代表的な事業者は那覇交通(沖縄県)、八戸市交通部(青森県)、茨城オート・関鉄グリーンバス(茨城県)、川中島バス(長野県)、京都急行バス(京都府)、中国ジェイアールバス・サンデン交通(山口県)、九州産交バス(熊本県)、鹿児島交通(鹿児島県)などがあり、近年ではグループ外への譲渡も増加傾向にある。また、それ以外の移籍先として、教習所の教習用車両として自動車教習所を運営する会社が買い取ったケースもある。国際興業から譲渡された車両は、多くの場合が譲渡先の事業者が採用している独自の塗色に塗り替えられていた。しかし、1999年(平成11年)に自社発注が基本だった山梨交通も国際興業の中古車両を導入し始めることとなり、この際にコスト削減のために国際興業カラーを変更せず、社名のみ書き換えることで対応した。また、2000年代に入ると他社(秋北バス・岩手県交通など)も同様に事業者ごとの塗色への変更を止め、元の国際興業カラーを踏襲するようになった。さらに、自社発注の新車および国際興業グループ外の事業者からの中古車も原則的に同じ塗装、もしくは明るい緑の国際興業新カラーを施すようになっている。このため、塗装においては国際興業では存在しない車両との組み合わせが見られるようになった。現状では、譲渡車については濃い緑の旧カラーが多くを占めているが、岩手県交通などには国際興業で既に新カラーとなっていた世代の車両もそのまま譲渡されているほか、山梨交通では初期に国際興業から導入した車両を国際興業の新カラーに変更している。余談だが、岩手県交通の前身である岩手中央バス(1970年(昭和45年)にグループ入り)では、国際興業からの譲渡車両の一部を、塗装はそのままに社名を書き換えたり、「KKK」ロゴを「ワンマン中乗り・前乗り」表示や広告などで隠しただけで導入していた。岩手県交通への合併後もそのまま使用していた車両もあったため、岩手県交通における事実上の国際興業カラー復活となった。グループ外への譲渡車については、外装は事業者毎の塗色への全面的に変更されている。それ以外の内装などについてはあまり手を加えられず、車内は国際興業時代と変わらない雰囲気となっている場合も多い。グループ外で国際興業路線カラーのままで使用されているものとして、香川県のジャンボフェリーの送迎用(自家用ナンバー)車両が挙げられる。国際興業では、バス事業の規制緩和を前にした経営効率化の流れの中で、2001年(平成13年)9月1日に子会社「さいたま国際バス」を埼玉県戸田市に設立し、2002年(平成14年)5月1日から一部路線の移管を行った。移管されたのは以下の系統である。同年秋からは、移管した上記路線以外の一部路線の運行管理業務の受託も開始した。このうち南浦06-2は2003年11月16日に廃止されたが、設立から僅か2年余りを経た2004年(平成16年)4月1日に同社は解散し、路線と共に国際興業バスへ統合された。国際興業バスの定期券は、一般の通勤・通学定期券以外に、東京都内の「都区内フリー定期券」「近距離定期券」、埼玉県内では「鳩ヶ谷フリー定期券」「白鍬・新都心フリー定期券」が発売されている。他の事業者と路線が並走している、または共同運行を実施している路線では系統によって、他の事業者の車両でも乗車可能な「共通定期券」を発売している。他に、学生向けの年間通学定期券として「ばすく~る365」、65歳以上の利用者向けに国際興業バスの一般路線全線が乗り放題となる「彩京のびのびパス」を発売している。「彩京のびのびパス」は高速バス、深夜急行バス、サッカー輸送などの催事輸送バスおよび戸田市「toco」、蕨市「ぷらっとわらび」、川口市「みんななかまバス」、さいたま市「さいたま市コミュニティバス」、朝霞市「わくわく号」では利用できない。土曜・日曜・休日およびお盆と年末年始期間中に通勤定期券を所持している場合、同乗の家族全員が1乗車ワンコイン(100円、小学生以下は50円)となる「環境定期券」制度も導入されている。いずれの定期券も紙製で、国際興業バスでは2013年3月現在、ICカードによる定期券は導入されていない。都区内均一区間の国際興業バスの一般路線全線と、練馬区「みどりバス」、板橋区コミュニティバス「りんりんGO」、足立区コミュニティバス「はるかぜ」が一日乗り放題となる「都内乗り継ぎ一日乗車券」を、東京都内の国際興業バス営業所・案内所と川口営業所・川口駅東口案内所、都内営業所所属車両の車内で発売している。車内販売の場合は数に限りがあるため、売り切れにより購入できない場合がある。発売額は大人500円、小児250円で乗車券はスクラッチ式となっており、購入したらまず使用する年月日のスクラッチ部分をコインで削り、前乗りでは乗車時、後乗りでは降車時に乗務員へ削った年月日が見えるように提示する。なお、初回使用時に「初乗り券」と書かれた部分をあらかじめ切り取り、運賃箱に投入する。2回目の乗車以降は年月日の部分を乗務員に提示するだけでよい。一日乗車券を購入する際は、ICカードの残額では購入できないのと、ICカードへの一日乗車券の書き込みもできないため、あらかじめ現金を用意する必要がある。国際興業バスでは一部路線において、東京都と埼玉県を跨って運行している路線が存在する。その路線には「都県境停留所(都区内運賃と埼玉県内運賃の境界となる停留所)」が存在し、この停留所が東京都側に位置するか埼玉県内に位置するかによって、乗車した際に差額運賃を別途支払う場合が存在する。深夜バスの場合は、一日乗車券を提示すると共に深夜運賃の半額を、埼玉県内(都区内均一運賃区間を除く)に跨る場合はこれに加えて都区内均一運賃との差額を別途支払うことで利用できる。

出典:wikipedia

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