ボカ・ジュニアーズ () は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスのラ・ボカ地区を本拠地とするスポーツクラブである。サッカークラブが有名であるが、その他にバスケットボール、フットサル、武道(柔道・テコンドー・空手)、レスリング、バレーボール、体操(器械体操・新体操・競技エアロビクス)、水泳、重量挙げの競技チームを所有している。現地ではボカ・ジュニオール (ス) (Boca JuniorsまたはBoca Juniors) と表記され、また呼ばれることが多い。「Juniors」の語はクラブ名に英語風の趣を付加するために加えられたものであり、juniorというスペイン語はない。アルゼンチンでもっとも成功を収めたサッカークラブのひとつであり、主要大会で48のタイトル(国内タイトル30、国際タイトル18)を獲得している。国際タイトル数はACミラン(イタリア)と並んで世界最多であるが、南米サッカー連盟 (CONMEBOL) 設立前のアマチュア時代にはさらに2個(1919年のタイ・カップと1920年のコパ・デ・オノール・コウセニエール)の国際タイトルを獲得している。18個の内訳はコパ・リベルタドーレスで6個、レコパ・スダメリカーナで4個、インターコンチネンタルカップで3個、コパ・スダメリカーナで2個、コパ・デ・オロで1個、スーペルコパ・スダメリカーナで1個、スーペルコパ・マステルスで1個である。また、南米サッカー連盟主催大会の3冠を達成したことのある8クラブ(ボカの他にはクラブ・オリンピア、サンパウロFC、CAインデペンディエンテ、CAベレス・サルスフィエルド、クルゼイロEC、SCインテルナシオナル、LDUキト)のひとつである。国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) によるクラブ世界ランキングでは6度1位に輝いており、そのほとんどをカルロス・ビアンチ監督下で記録した。IFFHS は21世紀最初の10年間の南米最優秀クラブにボカを選出している。同じブエノスアイレスを本拠地とするCAリーベル・プレートとは激しいライバル関係にある。アルゼンチン国内で最も人気のある両者の対戦はスーペルクラシコと呼ばれ、世界で最も熱いダービーマッチのひとつである。ホームスタジアムのエスタディオ・アルベルト・J・アルマンドはラ・ボンボネーラという通称で知られている。トップチームとリザーブチームが年齢制限のないプロ契約であり、アマチュア契約のサードチームも存在する。20歳から14歳までの選手は6つに分けられた年齢別のカテゴリーに所属し、さらに13歳から6歳までの選手は7つのカテゴリーに分けられたクラブ・パルケ(正式名:クルブ・ソシアル・イ・デポルティボ・パルケ)という下部組織に所属している。1905年4月3日、ラ・ボカ地区に住むイタリア・ジェノヴァ出身移民の5人の若者たちがフットボール・クラブを作ることの話し合いのために、エステバン・バグリエットの家に集まった。数時間、5人で会議をしているとバグリエットの父親がこの5人を家から追い出した。追い出された5人は仕方なくソリス広場に行って、なおもこの企画の話し合いを続けた。そして名前を「ボカの若者たち」という意味のボカ・ジュニアーズとすることにした。今日ではこの1905年4月3日のソリス広場がボカ・ジュニアーズが誕生した日付と場所となっている。チーム名に英語名を付けることはボカ・ジュニアーズが誕生した時代ではありふれたことだった。記念すべきチームの初試合は1905年4月21日で、対戦相手はクラブ・マリアノ・モレノというチームでボカは白色と黒色の縦縞のユニフォームで臨み4-0で勝利した。1907年時、ボカ・ジュニアーズは青色のシャツと白色のパンツのユニフォームを使用していた。ある時、ブエノス・アイレスのアルマグロ地区から来たチームと試合をする際、そのチームがボカと同じ配色でよく似たユニフォームを着用していた。そして両チームは話し合いをして、「試合をして負けた方は現在のユニフォーム使用を止める」という決闘試合をすることにした。この試合にボカは負けてしまった。そのためボカは新しいデザインのユニフォームを決めなくてはいけなくなった。そして港湾労働者でクラブ会長のフアン・ブリチェットが「明日の朝に、ボカの港に最初にやって来た船のカラーを新ユニフォームの色にする」ことを決めた。そして、翌朝一番に訪れた船舶はスゥエーデンの船で青色と黄色の国旗をなびかせていた。その結果、ボカ・ジュニアーズは青色と黄色(ボカ・サポーターは黄色だが金色と呼ぶ)を新しいチーム・カラーにすることに決めた。そして新ユニフォームは青色のシャツに黄色のタスキ掛けのデザインに決めた。そして、このユニフォームは1912年まで使用されて、そして1913年からは青色のシャツに黄色の太い横縞が1本入ったデザインに変更し、これは現在に至るまで使用されている。そして、1908年からアルゼンチン・フットボール連盟のアマチュア・リーグ2部に参加して本格的に公式リーグ戦を戦い始めた。そして1913年に悲願の1部昇格を果たした。そして1913年8月24日にCAリーベル・プレートと初対戦した。これは後にスーペルクラシコとまで呼ばれるライバル関係の幕開けの試合となった。この試合ボカは1対2で敗北した。そして、1919年シーズン、ボカは初のリーグ優勝を遂げた。しかし、このシーズンはアルゼンチン・フットボール界に大事件が起きたために多くの試合が無効試合となり、公式のチャンピオンではあるが結局ボカは7試合しか試合をせずに初優勝したことになっている。1919年シーズン中にアルゼンチン・フットボール協会が、一部のクラブがアマチュアが参加条件であるのに選手に陰で給料を支払っていたことを知り、そのためそれらのクラブの参加を禁止した。しかし、禁止されたクラブは独自に新リーグ(Asociación Amateurs de Football「アマチュア・フットボール協会」という名称)を創設することを表明して多くのクラブは新リーグの方へ移ってしまった。ビッグ5の他の4チームCAリーベル・プレート、CAインデペンディエンテ、ラシン・クラブ、CAサン・ロレンソは全て新リーグ側へ移った。ボカはアルゼンチン・フットボール協会のリーグに残る決断をして、結局、従来の協会のリーグには6チームしか残らず、なおかつリーグ分裂までの試合は全て無効と決定されたために、分裂後の9月末から7試合だけをして7勝して優勝となった。ボカのクラブ史上初優勝は珍しい形での優勝となった。翌1920年シーズン、アルゼンチン・フットボール協会は1部リーグの参加クラブを20チームに増やしたが、ボカはそのリーグでも優勝を遂げて1919年、1920年と連覇を達成した。そして、1923年、1924年シーズンにも優勝して連覇を達成した。この様に他の強豪クラブが全て新リーグの方に移ってしまったため優勝を重ねた。そして他に弱いチームと数多く対戦することが多くなったことにより59試合無敗という無敗記録も作った。そして1927年からは分裂していた2つのリーグが統合されることになった。名称は“Asociación Amateurs Argentina de Football”(アルゼンチン・アマチュア・フットボール協会)となった。そしてアルゼンチン・フットボールのアマチュア時代最後の1930年シーズンにボカは優勝を果たした。ボカ・ジュニアーズはアマチュア時代、計6度の優勝を果たした。1931年、アルゼンチンにプロ・リーグが誕生した。その記念すべき最初のシーズンにボカ・ジュニアーズは優勝を果たした。この時のメンバーにはロベルト・チェロ、ドミンゴ・タラスコニ、フランシスコ・バラージョ、ペドロ・スアレスなどがいた。そして、1934年シーズンはボランチのエルネスト・ラザッティがデビューしてこの年に優勝し、翌1935年シーズンにも優勝したため1934年、1935年と連覇を達成した。連覇したメンバーにはチェロ、バラージョ、ラザッティの他にデルフィン・ベニテス・カセレス、フアン・ユストリチなどがいた。またこの1930年代にボカ・ジュニアーズには専属トレーナーとして日本人の花井貫一が加わっていた。花井は選手とサポーターに愛され試合前の集合写真に選手と共に加わるほどの人気を得ていた。1940年5月25日、新スタジアムラ・ボンボネーラがボカとCAサン・ロレンソとの親善試合により開場した。そして、この1940年シーズンにボカは優勝を果たした。この時のメンバーには、ハイメ・サルランガ、ラザッティ、フアン・エストラーダなどがいた。1941年から1942年にかけてライバルのCAリーベル・プレートがLa Maquina(ラ・マキナ)と呼ばれる圧倒的な攻撃陣を擁していたことで、ボカは苦杯を舐めていたが、1943年アルフレッド・ガルシーニが監督に就任して、ウルグアイ人フォワードのセベリーノ・バレラを補強すると、バレラの活躍もあり1943年シーズンは最終節でリーベルの追走をかわして優勝を決めた。そして翌1944年シーズン、ボカは26試合無敗記録というプロ化以降のリーグ新記録を樹立して、またしても最終節でリーベルの追走をかわして優勝を遂げて1943年、1944年と連覇を達成した。この連覇したチームはラ・マキナを擁する強いリーベル・プレートを破り優勝するなどしたためボカの歴史の中でも最強チームの1つとされている。このチームのメンバーには、バレラ、サルランガ、ラザッティの他に、マリオ・ボジェ、ピオ・コルクエラ、ナタリオ・ペシア、カルロス・ソサなどがいた。しかし、1940年代後半は再びリーベル・プレートがアルフレッド・ディ・ステファノ、アマデオ・カリーソ、ネストル・ロッシなど偉大な選手がデビューしたので盛り返し、ボカは1945年、1946年、1947年と3年連続で2位に終わった。そして1949年シーズンは15位と低迷してもう少しで2部降格という危機に瀕した。1954年シーズン、9年間もの無冠が続いた後に念願の優勝を果たした。19得点を挙げて得点王となったホセ・ボレージョとゴール・キーパーのフリオ・ムシメッシの活躍が光った。その他にはエリセオ・モウリーニョ、ペシア、フアン・コルマンなどがいた。そして1958年シーズン、ボカはリーグ最多得点を挙げて攻撃陣が大いに活躍したが、2位となって優勝できなかった。結局、1950年代は1度の優勝のみに終わった。1950年代は、宿敵リーベル・プレートが5度の優勝を果たして黄金時代を作り、ボカは圧倒された。1962年シーズン、ボカは歴史に残る劇的な展開を経て8年ぶりとなる優勝を成し遂げた。残り2試合で首位だったボカは、2位リーベルに勝ち点2上回った状況で、ホームにリーベルを迎えてスーペルクラシコとなった。ボカが1点リードして残り試合時間6分となった時にリーベルにPKが与えられた。そしてボカのゴール・キーパー、アントニオ・ローマがリーベルのデレムのシュートを止めて、この危機を免れた。このまま1-0で試合終了し勝利して、続く最終節にも勝利したボカは宿敵リーベルを振り切って1962年シーズン優勝を果たした。この1962年のチームにはローマの他にパウロ・バレンティン、アントニオ・ラッティン、シルビオ・マルソリーニ、カルメロ・シメオネなどがいた。1963年にはコパ・リベルタドーレスで決勝まで進んだがペレを擁するサントスFCに敗北した。ボカは1964年、1965年と連覇を達成した。この連覇のメンバーの顔触れはアンヘル・クレメンテ・ロハスとアルフレッド・ロハスが攻撃陣に加わった以外は1962年優勝した時のメンバーからあまり変わりはなかった。1964年シーズンはプレイ内容が良くなく攻撃陣が不調であったがローマが742分間連続無失点という記録を作り、シーズン通しての失点は僅か15失点で守備陣の活躍が目立ち優勝を果たした。1965年シーズンはリーベルを勝ち点1差でかわして最終節で優勝を決めた。しかし、1965年、1966年と2年続けてコパ・リベルタドーレスでは準決勝で敗退した。1968年6月23日、メトロポリターノ交流戦グループ第17節、スーペルクラシコとなったエル・モヌメンタルでのリーベル対ボカの試合で、試合終了後に将棋倒しが起きてボカのサポーター71人が死亡するという大惨事が起きた。この事件はアルゼンチン・リーグの歴史の中で最悪のスタジアム事故で12番ゲートの悲劇と呼ばれている。1969年シーズン、ボカの監督にリーベルの元名選手でアイドルのアルフレッド・ディ・ステファノが就任した。そして、1969年メトロポリターノでアントニオ・ローマが再びリーグ新記録となる782分間無失点記録を作ったがボカは準決勝ラウンドで敗退した。しかし、同1969年のコパ・アルヘンティーナ(アルゼンチン・カップ)では決勝でCAアトランタを破って優勝した。そして同1969年ナシオナルの時に、ここ数年、守備陣のパフォーマンスは素晴らしかったがナシオナルでは低調であったので、ディ・ステファノは名手ローマを先発から外してルーベン・サンチェスを起用して、他にも先発にラモン・ポンセ、イグナシオ・ペーニャなどを思い切って起用した。するとボカは12試合無敗を記録するなど好調に首位を走り、そして残り1試合となった状況で2位リーベルと勝ち点差は2ポイントであった。そして、最終節に奇しくもアウェイのエル・モヌメンタルでリーベルと優勝を懸けた直接対決をする展開となった。このスーペルクラシコをボカは2-2で引き分けて見事逃げ切り優勝を果たした。ノルベルト・マドゥルガが2得点を挙げる活躍をした。最大のライバルの本拠地で優勝を決めるというボカにとって歴史に残る痛快な一戦となった。この1969年シーズンは、コパ・アルヘンティナとナシオナルに優勝をして2冠を達成した。このチームにはローマ、アンヘル・ロハス、マルソリーニ、マドゥルガの他にルーベン・スニェ、フリオ・メレンデスなどがいた。1960年代のボカはリーベルとの優勝争いとなったシーズンの接戦は全て制して優勝した。このためリーベルは17年間無冠という暗黒時代を過ごすことになった。ボカは1970年ナシオナル決勝でCAロサリオ・セントラルを下して優勝し、1969年、1970年とナシオナル連覇を達成した。しかし、その後、アンヘル・ロハス、ラッティン、ローマ、マルソリーニら主軸が退団や引退をすると、5年間無冠が続いた。
また1971年3月17日、コパ・リベルタドーレスの試合でボカはペルーのスポルティング・クリスタルと対戦した際、試合終了間際に乱闘となり双方合わせて19選手が退場となり無効試合となるという歴史的大乱闘事件を起こした。1971年シーズン、この年に後にボカで最多出場試合記録を作るロベルト・モウソがデビューした。1976年にワールドカップでアルゼンチン代表を2大会指揮した経験を持つ名将フアン・カルロス・ロレンソが監督に就任した。そして新監督就任に伴いエルネスト・マストランヘーロ、ウーゴ・ガッティ、フランシスコ・サ、カルロス・ベグリオ、マリオ・サナブリア、ホルヘ・リボルシなどが入団し、ルーベン・スニェもボカに復帰して大刷新が行われた。そしてチームのエースのオズバルド・ポテンテは退団することになった。この後、ポテンテに代わりサナブリアが司令塔として定着して行った。そして1976年メトロポリターノで優勝決定リーグを全11試合無敗(8勝3分0敗)で終えて5年ぶりの優勝を果たした。更に続く同年ナシオナルでは決勝戦がリーベルとのスーペルクラシコとなった。そして、この試合の後半27分にフリーキックを得たボカは、スニェがリーベルのゴール・キーパーのウバルド・フィジョールが仲間に壁を作る指示を出している隙を突きいきなりシュートを撃ってゴールを決めた。これが決勝点となりボカは1-0で勝利してナシオナル優勝を果たした。このゴールはボカにとってスーペルクラシコの歴史の中でも最も重要なゴールの1つとされている。この優勝によりボカは1976年シーズン、メトロポリターノ、ナシオナルで2期連続優勝をして2冠を達成した。翌1977年はコパ・リベルタドーレスで決勝まで進みクルゼイロECと対戦した。第1戦、第2戦、両チームともにホーム・ゲームで1-0で勝利して第3戦プレイ・オフがウルグアイのエスタディオ・センテナリオで行われ、延長戦を戦っても0-0で決着が着かずペナルティ・キック戦に突入した。このPK戦でガッティが活躍してボカはクラブ史上初の南米王者に輝いた。そして翌1978年の3月21日と8月1日に、ボカは1977年シーズン欧州王者のリヴァプールFCが出場辞退したために準優勝のボルシア・メンヒェングラートバッハと世界一の座を懸けてインターコンチネンタル・カップを戦うことになった。ボンボネーラで行われた第1戦は2-2で引き分けたが、第2戦のアウェー・ゲームに見事3-0で勝利して、世界王者に輝いた。そして翌1978年のコパ・リベルタドーレスで再び決勝まで進みコロンビアのデポルティーボ・カリと対戦した。第1戦のアウェー・ゲームは0-0で引き分け、第2戦はボンボネーラで4-0と圧勝して、見事、大会2連覇を達成した。しかし、同年のコパ・インテルアメリカーナではメキシコのクラブ・アメリカに敗れた。そして1978年シーズンのインターコンチネンタル・カップは、1978年欧州王者となったリヴァプールFCが昨年に引き続き出場辞退して、結局開催中止となった。1979年シーズン、3年連続でコパ・リベルタドーレス決勝に進出しオリンピア・アスンシオンと対戦したが第1戦をアウェーで0-2で敗北し、ホーム・ゲームは0-0の引き分けの結果に終わり、南米3連覇達成は叶わなかった。1979年シーズンを最後にロレンソ監督は退任し、彼は3シーズンで2度のリーグ優勝と3つの国際タイトル獲得という素晴らしい業績を残しボカの黄金時代を築いた。この1970年代後半の栄光のチームには、ガッティ、スニェ、マストランヘーロ、モウソ、サナブリアの他にダリオ・フェルマン、アルベルト・タランティーニ、ビセンテ・ペルニア、ウーゴ・ペロッティ、ホルヘ・ホセ・ベニテスなどがいた。1970年代は国内リーグの優勝回数は少なかったが、国際舞台で大成功を収めた。1981年シーズン、ボカの監督にシルビオ・マルソリーニが就任した。そしてアルヘンティノス・ジュニアーズからボカ・ジュニアーズにフットボールの歴史上最高のスーパー・スターの1人ディエゴ・マラドーナが移籍した。他にボカへミゲル・ブリンディッシ、オスバルド・サルバドル・エスクデロ、マルセロ・トロッビアーニも入団した。そしてマラドーナが期待通りの活躍をしてボカは1981年メトロポリターノに優勝した。5年ぶりの国内リーグ優勝であった。しかし翌1982年5月にマラドーナはFCバルセロナにフットボール史上最高額の移籍金で移籍をしたため、1シーズンのみの在籍でボカを去った。この後、ボカは1984年に財政危機を迎え破産寸前に陥る問題を抱えたことも影響して、長い低迷を始めた。この苦しい財政事情のために1985年にボカの中心選手がライバルのリーベルへ移籍するという事件も起きた。下部組織出身のアイドル、オスカル・ルジェリとリカルド・ガレカ(3年連続チーム得点王)がリーベルへ、金銭プラスフリオ・オラルティコエチェアとカルロス・ダニエル・タピアの2選手と交換というトレードの形で移籍した。この様に主力選手が流出してしまう状況に陥ったため優勝からは遠ざかり結局1980年代の国内リーグの優勝は1981年の1度のみで、この優勝後は国内で無冠に終わった。対照的に1986年にリーベルが初の世界チャンピオンに輝くという出来事を目の当たりにし、ボカにとっては非常に辛い時期が続いた。しかし、1980年代後半に財政問題がようやく正常化するとカルロス・モントーヤ、ホセ・クシューホ、ブラス・ジュンタ、クラウディオ・マランゴーニ、フアン・シモンなど優れた選手を獲得して、下部組織出身のディエゴ・ラトーレ、ディエゴ・ソニョーラらが頭角を現したのでその結果、チーム力が上がり1988-89シーズンは2位となった。そして1989年のスーペルコパ・スダメリカーナでは決勝まで進みCAインデペンディエンテを下して優勝した。これは11年ぶりの国際タイトル獲得だった。1990年、ボカはレコパ・スダメリカーナにもアトレティコ・ナシオナルを下して優勝した。そして、1980年代末に移籍して来たモントーヤ、クシューホ、ジュンタ、シモンとラトーレ、ソニョーラらがチームの主力となり、1990年にガブリエル・バティストゥータが入団すると更にチーム力が増した。そして1990-91年シーズン、オスカル・タバレスがボカの監督に就任すると、1990-91年シーズン後期はバティストゥータとラトーレが素晴らしい2トップのパフォーマンスを見せて全19試合無敗(13勝6分0敗)を記録して1位となった。この1990-91シーズン後期は攻撃陣のみならず守備陣が19試合で僅か6失点という際立った成績を残した。この1991年はリーグ方式の移行年で、大会規定では優勝決定プレイオフ勝者のみにタイトルが授与されるため優勝タイトルをかけてニューウェルズ・オールドボーイズとプレイオフを戦うことになった。しかし、バティストゥータとラトーレの2トップは既に欧州移籍が決まりプレイオフに出場ができなかったということも影響してボカは敗北し、優勝を逃した。この1991年シーズンは、コパ・リベルタドーレスでも準決勝まで進んだがチリのCSDコロコロに敗北した。翌1992-93シーズン前期、ボカにアルベルト・マルシコとセルヒオ・ダニエル・マルティネス、カルロス・ダニエル・タピア、カルロス・マカリステルが入団した。このシーズンは司令塔マルシコとロベルト・カバニャスが活躍し、そしてゴール・キーパーのモントーヤが824分間無失点というアルゼンチン・リーグの新記録を樹立する大活躍を見せた。彼らの活躍などがありボカは1981年以来の実に11年ぶりとなる久しぶりの国内リーグ優勝を果たした。これで低迷期を脱するかと思われたが、この優勝後、ボカは再び低迷を始めた。そして1995-96シーズン前期、ディエゴ・マラドーナがボカに14年振りに復帰した。このシーズンはマラドーナ自ら優秀な選手を勧誘してクラウディオ・カニーヒア、キリ・ゴンサレス、ディエゴ・カーニャなど名手が入団した。そして監督は14年前と同じシルビオ・マルソリーニが指揮していた。ボカは残り5試合で2位と勝ち点6差をつけて首位を走っていて優勝の夢が膨らんだが失速し、CAベレス・サルスフィエルドに逆転されて、結局4位でシーズンを終えた。そして1995-96シーズン後期はカルロス・ビラルドが新監督に就任し、更にフアン・セバスティアン・ベロンが入団した。このシーズンもボカは優勝争いを演じていたが、1996年8月7日の第17節アウェーのラシン・クラブ戦でマラドーナがペナルティ・キックを失敗して0-1で敗北して優勝の可能性が失くなった。この試合にショックを受けたマラドーナはこの後11カ月間、チームから離脱した。そして結局ボカは5位でシーズンを終えた。1996-97シーズン前期、ボカは名手ホセ・バスアルドが入団し、ディエゴ・ラトーレが復帰した。しかし成績は更に落ちて10位に終わりビラルドは退任した。またこの1996-97シーズン前期は、リケルメがボカでプロ・デビュー(1996年11月10日、ウニオン・デ・サンタフェ戦)を果たした。1997-98シーズン前期はボカに後にクラブ史上最多得点記録を樹立するマルティン・パレルモとギジェルモ・バロスケロット、ノルベルト・ソラーノ、ホルヘ・ベルムーデス、オスカル・コルドバが入団した。そしてマラドーナもチームに復帰した。しかし1997年10月25日のリーグ戦第10節、アウェーのCAリーベル・プレート戦に先発したマラドーナは前半終了をした時点で交代を申し出てリケルメと交代をした。その後この試合はボカが2-1で逆転勝利した。そして、この試合を最後にマラドーナはボカの試合に出場することは無く、このスーペルクラシコが天才ディエゴ・マラドーナの公式戦引退試合となった。この試合の5日後、マラドーナは自身の37歳の誕生日、1997年10月30日にフットボール選手を引退することを発表した。このシーズン中、ボカにはマラドーナが突然引退して離脱するという事件があったが、最終的には2位という好成績に終わった。しかし1997-98シーズン後期は、8位となりまたしても期待外れに終わった。天才マラドーナ、カニーヒアというスター選手とビラルドの様な名監督を据えて他に優秀な選手を大量補強しても優勝することができず、逆に宿敵リーベルが1996年から1997年にかけてアルゼンチン・リーグで16年ぶりの3連覇(3期連続優勝)という偉業を達成したので、ボカのサポーターが受けたショックは甚大であった。その様な状況下で、1998-99シーズン前期にカルロス・ビアンチが新監督に就任した。そしてマウリシオ・セルナが入団した。ビアンチはリケルメを司令塔に定着させて、新加入のセルナをボランチに置き、そして2トップにパレルモとバロスケロットを起用した。その結果、19試合を13勝6分け0敗の成績で無敗優勝を達成した。パレルモは20得点を挙げる活躍をして得点王に輝き、南米年間最優秀選手賞も受賞した。スター選手がいなくなった後にほぼ現有の戦力で圧倒的な強さで6年ぶりに優勝したのでこの優勝はサポーターを驚かせた。続く1998-99シーズン後期も好調を維持して連覇を達成した。1990年代、ボカ・ジュニアーズは補強を重ねてもうまくいかないシーズンを長く過ごしたが最後に2連覇を達成して20世紀を終えた。2000年代に入ってもビアンチに率いられたこのチームは好調を維持した
。2000年のコパ・リベルタドーレスに参加して、準々決勝で宿敵リーベル・プレートを倒すと、決勝まで勝ち進み決勝戦はSEパルメイラスと対戦した。第1戦をホームで2-2と引き分けたが、第2戦のアウェー・ゲームを耐えて0-0で引き分け、大会規定によりペナルティ・キック戦が行われ、これを制して22年振り3回目の南米王者となった。そして、2000年11月28日、東京で欧州王者レアル・マドリードと世界一の座を懸けてインターコンチネンタル・カップを戦った。ボカはレアル・マドリード有利の前評判を覆し、見事22年ぶりの世界王者に輝いた。そしてアルゼンチンに帰国後、2000-01シーズン前期にも優勝して、この2000年は国内リーグ、コパ・リベルタドーレス、インターコンチネンタル・カップに優勝して3冠を達成した。この年は国際舞台でその強さを証明することに成功した。翌2001年にボカは再びコパ・リベルタドーレス決勝へ勝ち進み、クルス・アスルと対戦して第1戦アウェーで1-0と勝利したが、第2戦のホーム・ゲームで0-1と敗北して、昨シーズンの決勝同様またしてもペナルティー・キック戦となった。これを制してコパ・リベルタドーレス2連覇を達成した。そして2001年11月27日、再び東京にて欧州王者バイエルン・ミュンヘンと世界一の座を懸けて戦った。バイエルン優勢で試合は進み、そして前後半終了して0-0で延長戦となり延長後半2分、サミュエル・オセイ・クフォーに得点を奪われ、敗北した。これにより世界2連覇の夢は潰えた。そしてこの試合後、帰国して2001-02シーズン前期が終了した後にカルロス・ビアンチ監督は退任をした。ビアンチ監督は僅か3年半の在任期間で3度の国内リーグ優勝(1998-99前期、1998-99後期、2000-01前期)と2度の南米王者(2000年、2001年)、そして1度の世界王者(2000年)を果たした。この黄金時代のチームには、パレルモ、バロスケロット、リケルメ、セルナ、ベルムーデス、コルドバの他にセバスティアン・バタグリア、ウーゴ・イバーラ、ロランド・スキアビ、ニコラス・ブルディッソ、マルセロ・デルガドなどがいた。また2001-02シーズン前期は、カルロス・テベスがプロ・デビューを果たした(2001年10月21日、タジェレス・デ・コルドバ戦)。2001-02シーズン後期から、ボカの監督にオスカル・タバレスが復帰した。しかし、国内リーグ優勝を逃し、2002年コパ・リベルタドーレスでも準々決勝でオリンピア・アスンシオンに敗北した。そしてこの後、リケルメはボカを退団してFCバルセロナへ移籍した。その後ボカは2002-03シーズン前期でも優勝を逃し、タバレス監督は1年で退任した。そして2002-03シーズン後期から、再びカルロス・ビアンチが監督に就任した。そして、2003年コパ・リベルタドーレスで決勝まで勝ち進みサントスFCを下して即座に優勝を果たした。ボカは5度目の南米王者を達成した。この大会ではカルロス・テベスの活躍が光った。そして2003年12月14日、横浜で世界一を懸けて欧州王者ACミランとインターコンチネンタル・カップを戦った。この試合もACミランが優勢だと予想されていたが、ボカは互角に戦い延長戦でも決着が着かず、ペナルティー・キック戦となった。それをボカが制して優勝を遂げた。ボカは3度目の世界王者に輝いた。そして、アルゼンチン帰国後、2003-04シーズン前期にも優勝して、この2003年はコパ・リベルタドーレス、インターコンチネンタル・カップ、国内リーグを優勝して再び3冠を達成した。ビアンチ監督は復帰1年目でボカを再び世界チャンピオンに導き、更に3冠達成まで成し遂げた。このチームには、テベス、バロスケロット、デルガド、ブルディッソ、スキアビの他にディエゴ・カーニャ、ラウル・カッシーニ、ルイス・ペレア、クレメンテ・ロドリゲス、ロベルト・アボンダンシェリ、ペドロ・イアルレイなどがいた。そして、翌2004年コパ・リベルタドーレスは再び決勝まで勝ち進み、オンセ・カルダスと対戦した。第1戦カルロス・テベスを出場停止で欠いたボカはホームで0-0で引き分け、第2戦のアウェー・ゲームも1-1で引き分けた。そしてペナルティー・キック戦の末、敗北した。国内では2003-04シーズン後期は2位となり優勝を逃し、この2つの敗北の責任を取ってビアンチ監督は辞任した。この後、ミゲル・ブリンディシが監督に就任したが、2004-05シーズン前期途中に辞任し、その後ホルヘ・ホセ・ベニテスが監督に就任した。ボカはベニテス監督の下、2004年コパ・スダメリカーナで決勝まで勝ち進みクラブ・ボリバルを下して優勝した。このチームにはパレルモ、バロスケロット、テベス、アンドレス・グリエルミンピエトロ、カーニャ、スキアビ、アボンダシエリなどがいた。そしてテベスはこの大会の後に、ボカを退団した。テベスはリケルメ退団の穴を埋めて、ボカ在籍中に2003年、2004年と2年連続で南米年間最優秀選手賞を受賞した。2005-06シーズン前期にアルフィオ・バシーレが監督に就任した。そしてフェデリコ・インスア、ロドリゴ・パラシオ、ダニエル・ディアス、ダニエル・ビロスなど大補強を行った。パレルモとパラシオの2トップに、司令塔のインスーア、そして下部組織出身のボランチフェルナンド・ガゴが先発起用されて活躍した。すると2005-06シーズン前期に優勝を果たした。そして、前年同様コパ・スダメリカーナでも決勝へ勝ち進み、クラブ・ウニベルシダ・ナシオナルを下してこの大会2連覇を達成した。そして、2005-06シーズン後期にも優勝したので国内で2期連続優勝して、連覇を達成した。そして2006年レコパ・スダメリカーナでサンパウロFCも下して優勝した。バシーレは就任1年間で即座に4つのタイトルを獲得した。バシーレ監督はこの業績によりアルゼンチン代表監督のオファーを受けて代表監督に就任した。その後、2006-07シーズン前期にリカルド・ラ・ボルペが就任して最終節を終了して、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタと同勝ち点で1位となり両チームによるプレイオフが行われた。この試合にボカは1-2で敗れて優勝を逃しラ・ボルペ監督は退任した。そして、2006-07シーズン後期にミゲル・アンヘル・ルッソが新監督に就任して、フアン・ロマン・リケルメがボカに復帰した。すると2007年のコパ・リベルタドーレスでリケルメの活躍もありグレミオFBPAを下して、ボカは6度目の南米王者に輝いた。このチームにはリケルメの他にパレルモ、パラシオ、エベル・バネガ、クレメンテ・ロドリゲス、ダニエル・ディアス、アボンダンシエリなどがいた。そして、2007年のFIFAクラブワールドカップに出場したが、この大会にリケルメがビジャレアルCFとの契約上の問題からボカの選手として大会に参加することができなかった。チームの司令塔を欠いたボカは決勝でACミランに2-4と惨敗をした。2008年1月、カルロス・イスチアが監督就任し、2008年のコパ・リベルタドーレスは準決勝まで進んだがフルミネンセFCに敗北した。国内リーグも2位に終わり優勝を逃した。しかし、2008年8月に行われたレコパ・スダメリカーナは、アルセナルFCを下して優勝し、その後の2008-09シーズン前期にも優勝した。この2008-09シーズン前期は最終節を終了した段階で、ボカ、CAサン・ロレンソ、CAティグレの3チームが同勝ち点で並び3チームによるプレイ・オフが行われるという珍しい展開となった。このプレイオフをボカが制して優勝を果たした。このチームにはリケルメ、バタグリア、イバーラの他にルーカス・ビアトリ、ガブリエル・パレッタ、ヘスス・ダトロなどがいた。しかし、2008-09シーズン後期からボカは酷い低迷を始めて、この後、4期続けて順位が10位以下という大不振に陥った。しかし、この低迷期にはマルティン・パレルモが2008-09シーズンの後期の対CAウラカン戦(2009年3月1日)で得点を挙げてボカ・ジュニアーズで通算195得点となり、フランシスコ・バラージョが持つクラブ最多得点(194得点)の記録を破る偉業が達成された。2000年代、ボカは10個の国際タイトルを獲得し、4度の南米王者、2度の世界王者に輝いた。国際舞台での活躍が華々しく、世界にボカ・ジュニアーズの存在を知らしめた時代であった。2009年から2011年まで低迷が続いた。そして、2011-12シーズン前期にフリオ・セサル・ファルシオーニが監督に就任した。そしてそれに伴いレアンドロ・ソモサも入団した。するとボカは無敗優勝(12勝7分け0敗)を達成した。このシーズン、ボカは19試合で僅か6失点を喫したのみで、これによりアルゼンチン・リーグが前後期制になって以降の最少失点記録を樹立した。この様に強さを取り戻したボカは2012年にコパ・リベルタドーレスに出場して決勝まで勝ち進んだ。しかし、決勝でコリンチャンスに敗北した。この2011-2012シーズンにかけてのチームには、リケルメ、ソモサ、スキアビ、クレメンテ・ロドリゲスの他にパブロ・モウチェ、サンティアゴ・シルバなどがいた。その後、2012年8月8日、ボカはコパ・アルヘンティーナ2011-12では決勝でラシン・クラブと対戦して2-1で勝利し、優勝を果たした。2012-13シーズン後期に、カルロス・ビアンチが3度目のボカ監督就任をした。そしてサポーターはビアンチが監督就任したので再びボカ・ジュニアーズが南米王者や世界王者を達成できるのではと期待を膨らませた。しかし、2013年のコパ・リベルタドーレスは準々決勝で敗退し、国内リーグでも優勝を遂げることはできずビアンチの3度目の監督時代は失敗に終わった。そして2014年7月にリケルメはアルヘンチノス・ジュニアーズに移籍して、2014年8月にビアンチはボカの監督を退任した。そしてビアンチ退任後、ロドルフォ・アルアバレーナが新監督となった。そして、2015年シーズン、シーズン途中からカルロス・テベスが復帰してチーム力が増したことも影響して見事優勝を果たし、またコパ・アルヘンティーナでも決勝でCAロサリオ・セントラルを2-0で下して優勝を果たした。これによりボカは2015年シーズン、国内2冠を達成した。このチームにはテベスの他にジョナタン・カレリ、ニコラス・ロデイロ、ダニエル・ディアスなどがいた。最初のユニフォームカラーはピンク色であるが、すぐにピンク色を捨てて細い黒色と白色の縦縞に変更された。1906年、ボカは白黒のユニフォームを着て試合に敗れたため、ラ・ボカ地区の港に最初にやってきた船舶の旗の色に変更すると決めた。「ドロットニング・ソフィア」というスウェーデン国籍の貨物船がコペンハーゲンからやってきたため、スウェーデン国旗の黄色と青色がクラブカラーとなった。変更後初のユニフォームは黄色の帯が斜めに入っていたが、後に横縞に変更された。エンブレムは時代ごとに細かな変更を経ており、現在のモデルは6代目である。1955年、クラブ創設50周年を記念して月桂樹の葉が加えられ、エンブレムの色がユニフォームカラ―に揃えられた。1970年、クラブが獲得した数々の国内タイトルを意味する星が上部に、数々の国際タイトルを意味する星が底部に付け加えられた。ボカが国内タイトルを獲得するたびに星の数が増え、現在では52個の星がエンブレムに付けられている。現在の場所であるブランドセンに落ち着くまでに、ボカはいくつかの場所で試合を行っていた。クラブ最初のグラウンドはラ・ダルセナ・スルにあったが、リーグが定めたスタジアムの最低条件を満たしていなかったため、1907年に立ち退いた。1908年から1912年の間はイスラ・デマルチ地区にある3つのグラウンドを使用した。1914年から1915年はラ・ボカ地区を離れた最初で最後の期間であり、ブエノスアイレス州アベジャネーダ・パルティードのウィルデで試合を行ったが、比較的残念なシーズンを送り、1915年の観客数が芳しくなかったため、ブエノスアイレス市内のラ・ボカ地区に戻った。ミニストロ・ブリン通りとセンゲル通りの交差部分に新しいスタジアムを建築し、1916年5月25日のオープンから1924年までこのスタジアムを使用した。1924年、ブランドセン通り・デル・クルセーロ通り・アルティストブーロ通が交わり、近くを鉄道路線が走る現在の地点に移転した。1931年に200万200ペソを支払って土地を購入すると、カミーロ・シチェーロ会長時代の1938年にコンクリート造りによる現在のスタジアムの建設が始まり、ホセ・L・デルピーニが建築監督を務めた。このスタジアムが1940年に完成するまでは、カバリート地区にあるフェロカリル・オエステのホームスタジアムでホームゲームを行った。1940年5月25日、CAサン・ロレンソとの親善試合で新スタジアムがお披露目され、スタジアム初得点を決めたリカルド・アラルコンの活躍などで2-0と勝利。スタジアムの設計者はユーゴスラビア人のヴィクトリオ・スルシッチであるが、彼がもらったチョコレート箱(スペイン語でBombonera)の形が設計中のスタジアムに似ていたことから、ラ・ボンボネーラという愛称が付けられた。1941年にはゴール裏の2階席が完成。1940年代から1950年代にかけて活躍したナタリオ・ペスシアに敬意を表し、このスタンドは彼の名前で呼ばれている。1951年から1953年には3階部分が増設され、人工的な照明システムが導入された。カーサ・アマリーリャのプラットフォームに対面するスタンドはほとんど未開発のまま残っていたが、1996年にスタジアム全体の大改修工事が行われ、バルコニー席やVIPボックスに改良されている。ボックス席のうちの2つは元監督のカルロス・ビラルドと元キャプテンのディエゴ・マラドーナが購入している。スタジアムの3面は従来通りの傾斜したスタンドであるが、もう一つの面は垂直に屹立した壁のようになっており、いくつかのボックス席が配置されてスタジアムの特色となっている。スタジアムに初めて正式な名称が与えられたのは1986年4月20日であり、現在のスタジアム建設に携わったカミーロ・シチェーロ元会長の名前を取ってエスタディオ・カミーロ・シチェーロとして知られた。1960年代から1970年代にかけて会長を務めたアルベルト・J・アルマンドの13回忌に当たる2000年12月27日、スタジアムの名称がエスタディオ・アルベルト・J・アルマンドに変更された。芸術家のペレス・セリスとロムーロ・マッシオはスタジアム壁面への絵画制作を依頼され、彼らの作品は今日でもボックス席の外側部分に残っている。クラブ創立100周年の際には、クラブの歴史に残る100人の選手や監督たちの足型がブランドセン通りの歩道に刻まれた。ラ・ボンボネーラは49,000人を収容する。その人気の高さからチケットを得るのは容易ではなく、特にCAリーベル・プレートとのスーペルクラシコはチケット入手が困難である。スタジアムにはさらなる改築計画があり、過度な混雑を緩和するための拡張や設備の改善などが計画されている。ボカは伝統的に労働者階級のクラブとみなされており、中流階級のクラブとされるCAリーベル・プレートとは対照的である。クラブ自身はアルゼンチンの人口の「半分よりひとり多く」(la mitad más uno)がボカのサポーターだと主張しているが、2006年の調査ではアルゼンチンの人口の40%がボカのサポーターであり、アルゼンチン最多のサポーターを持つクラブである。1975年、ボカのサポーターとしてよく知られたマリー・エッシャー・デュフォー (Mary Esher Duffau) の生活を追ったドキュメンタリー映画「ラ・ファウリート」が公開された。2008年4月30日、ボカがコパ・リベルタドーレスでクルゼイロECと対戦したのと同じ日に、マリーは74歳で死去した。彼女の死を悼み、ボカの選手とサポーターは1分間の黙祷をささげた。20世紀初頭、ラ・ボカ地区に多く住んでいたイタリアのジェノヴァからの移民たちがクラブを設立したため、ボカのサポーターはロス・セネイセス(Los Xeneizes、ジェノヴァ人)と呼ばれる。ライバルクラブの多くのサポーターはボカサポーターのことをロス・ボステロス(Los Bosteros、糞の回収業者)と蔑んでいる。現在はラ・ボンボネーラが建っている場所にかつて煉瓦工場があり、煉瓦の材料として馬の糞が使用されていたことに由来する。そもそもはライバルサポーターがボカサポーターを侮辱するために造り出したニックネームであるが、ボカサポーターは今やニックネームに誇りを感じている。クラブカラ―を反映して、ボカのユニフォームはラ・アスール・イ・オロ(青と金)と呼ばれている。日々のすべてをクラブのサポートに捧げる人々はラ・ヌメロ・ドセまたはラ・ドセ(la número 12、12番目の選手)と呼ばれる。ボカサポーターを有名にしたこの名称の由来は1925年のヨーロッパツアーまで遡る。このツアーにはビクトリアーノ・カッファレーナという裕福なボカサポーターが同行し、また彼はツアーの資金を供出した。ツアーの最中にもあらゆる点で選手をサポートし、選手と強い信頼関係を築いて「12番目の選手」と呼ばれるようになった。チームがアルゼンチンに帰国しても、カッファレーナは選手のような存在として知られた。今日、このニックネームはラ・ドセ (La 12) と呼ばれるサポーターグループを呼称する時にまず第一に使用される。ボカのライバル(主にリーベルとラシン)はボカサポーターに対してボリビアーノス(bolivianos、ボリビア人)やパラグアヨス(paraguayos、パラグアイ人)という侮蔑的なニックネームを使用し、このような差別的なチャントが歌われることで多くの試合が中断されている。ペーニャス (Peñas) と呼ばれるファンクラブはアルゼンチンの各都市に存在し、また、ロシア、ウクライナ、スペイン、イスラエル、日本に存在する。日本で開催されたインターコンチネンタルカップで多くの成功を収めていることから、特に日本ではボカの人気が高い。南米中にファンを抱えているが、南米出身者が多数在住するアメリカにも多くのファンがおり、2007年7月にはプレシーズンツアーでアメリカを訪れた。その際にクラブは「ボカ・ジュニアーズUSA」設立を検討しているとし、メジャーリーグサッカー (MLS) に参戦するためにニューヨーク、マイアミ、ロサンゼルス、アリゾナ州を本拠地の候補に挙げた。ボカは長い間CAリーベル・プレートとライバル関係にあり、両者の対戦はスーペルクラシコと呼ばれる。両クラブはともに貧困層が多い川岸のラ・ボカ地区に起源を持つが、1923年、リーベルは富裕層が多い市北部のヌニェス地区に移転した。スーペルクラシコは世界で最も激しく最も重要なダービーのひとつであるとされている。イギリスのオブザーバー紙は、「死ぬまでに観るべき50のスポーツイベント」の第1位に「(ラ・ボンボネーラで行われる)スーペルクラシコ」を選出した。サポーターの情熱は特筆すべきであり、両クラブのサポーターが陣取るスタンドには花火、色とりどりの紙吹雪・クラブ旗・紙ロールが登場する。両サポーターは有名なロックバンドの楽曲をベースにしたチャントを歌い、チャントに合わせてサポーターが一斉に飛び跳ねることでスタジアム全体が振動する。試合はしばしば暴動に発展し、両クラブのサポーター同士やサポーターと警官が衝突することがある。引き分け以外に終わった試合の後には、ブエノスアイレスの通りは敗者をからかう多数のポスターで埋め尽くされる。これはボカの勝利が続いた1990年代以降に広まり、今ではブエノスアイレスにおける文化にひとつとなっている。プリメーラ・ディビシオンでは200試合近くのダービーが行われ、その他の試合も含めると300試合以上が行われている。プリメーラの試合に限定しても、その他の試合も含めても、ダービーの成績ではボカがやや優勢である。激しいライバル意識にもかかわらず、ホセ・マヌエル・モレーノ、ウーゴ・オーランド・ガッティ、アルベルト・タランティーニ、オスカル・ルジェリ、フリオ・オラルティコエチェア、カルロス・タピア、ガブリエル・バティストゥータ、クラウディオ・カニーヒアなどが両クラブ間を移籍している。そして、CAインデペンディエンテ、ラシン・クラブ、CAサン・ロレンソのビッグ5同士の対戦もクラシコと呼ばれ、関心を集めている。ボカで最も成功を収めた監督を2人挙げるならば、フアン・カルロス・ロレンソ(1976年 - 1979年、1987年)とカルロス・ビアンチ(1998年 - 2002年、2003年 - 2004年、2012年 - )である。トトという愛称で呼ばれたロレンソは5個、ビアンチは9個のタイトルを獲得している。トトは1976年にメトロポリターノとナシオナルで優勝し、1977年と1978年にコパ・リベルタドーレスで優勝し、1977年にインターコンチネンタルカップで優勝した。ビアンチは1998年と2000年と2003年にアペルトゥーラで優勝し、1999年にクラウスーラで優勝し、2000年と2001年と2003年にコパ・リベルタドーレスで優勝し、2000年と2003年にインターコンチネンタルカップで優勝した。2006年9月15日、アルゼンチン代表監督に就任したアルフィオ・バシーレ監督の後任としてリカルド・ラ・ボルペ監督が就任したが、ラボルペ監督はアペルトゥーラ2006でバシーレ監督時代の成功を引き継ぐことができなかった。ラボルペ監督の後任にはミゲル・アンヘル・ルッソ監督が就任し、クラウスーラ2007ではCAサン・ロレンソに次ぐ2位であったが、コパ・リベルタドーレスではグレミオFBPAを5-0で下して6度目の優勝を果たした。サン・ロレンソに去ったルッソ監督の後任にはカルロス・イスチア監督が就任した。現監督のフリオ・セサル・ファルシオーニはアペルトゥーラ2011で無敗(12勝7分)優勝を果たした。Jリーグの北海道コンサドーレ札幌、FC東京、横浜F・マリノス、ヴァンフォーレ甲府、アビスパ福岡などの応援歌は、ボカ・ジュニアーズの応援歌を借用している。
出典:wikipedia
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