『MORAL』(モラル)は、日本のロックバンドであるBOØWYのファーストアルバム。1979年、ヤマハ主催のアマチュアロックバンドコンテスト「EAST WEST」にて、氷室狂介が松井恒松、諸星アツシ等と結成したバンド「デスペナルティ」が関東・甲信越大会にて優勝し、中野サンプラザで開催される全国大会に出場するため上京する。同時期に、楽器店主催のコンテスト「A・ROCK」にて、布袋寅泰が後にBOØWYのマネージャーとなる土屋浩等と結成したバンド「BLUE FILM」で優勝し、日本青年館で開催される全国大会に出場するため上京する。この当時、氷室と布袋はお互いに面識はあったものの、直接の交流はあまりない状態であった。その後、全国大会にて入賞を果たした氷室は、音楽事務所ビーイングと契約することとなる。しかし、バンドとしての活動は中止となり、事務所の意向により既に活動していたバンド「スピニッヂ・パワー」のボーカリストとして参加することになり、シングル「BOROBOROBORO」(1979年)にコーラスとして参加し、実質的なプロミュージシャンとしてのデビューを飾ることとなる。その後のシングル「HOT SUMMER RAIN」(1980年)においてはメインボーカルとなり、テレビ出演を果たすなどプロとしての活動を行っていたが、ポップスを中心としていた同バンドに対し、氷室はロックバンドでの活動を望んでいたこともあり、音楽性の違いにより同バンドからの脱退を決意する。事務所からロックバンド結成の許可を得たが、メンバーを自分で選定するよう要求された氷室は、それまで交流のなかった布袋に連絡をし、バンド結成の話を持ちかける。当時布袋も自身のバンドが空中分解し宙ぶらりんの状態であった為、バンド結成に同意する。その後、オーディションを行うもメンバーとして相応しい人材が見つからず、かつてのバンド仲間である松井恒松からのバンド参加への連絡を機に、氷室、布袋それぞれの人脈からの選定へと変更し、ギターとして諸星アツシ、サックスとして深沢和明の参加が決定する。ドラムスには「スピニッヂ・パワー」から木村マモルが参加し、バンド名を「暴威」と名付け活動を開始した。バンドとしてのリハーサルを何度も行い、デモテープを作成しては事務所に対し交渉を行い、ついにはアルバムのレコーディングが決定、暴威として初のレコーディング作業が開始することとなった。しかし、レコーディングの終盤になり、ドラムスの木村マモルからプレイヤーではなくプロデューサーとして活動したいとの申し出があり、バンドを脱退する意向を示される。そのため、知人を介して、高橋まことが新たなドラマーとして参加することとなる。プロデュースは当時「マライア」というグループで活動していた渡辺モリオが担当した。マライアとはビーイング所属のスタジオ・ミュージシャンによって結成されたグループであり、他に清水靖晃、笹路正徳、山木秀夫らが参加していた。渡辺はマライアメンバーとして、『YEN TRICKS』でデビューを果たし、様々なアルバムに参加していたが、当時パンク・ロックに傾倒していたため暴威のアルバムプロデュースを任される事となった。レコーディング作業は1981年にスターシップスタジオとスタジオバードマンにて行われた。音楽に関する技術的な事を暴威メンバーが認識できていなかったため、レコーディングは困難を極めた。当時陣内孝則率いる「ザ・ロッカーズ」が寺院で一発録りでレコーディングした事が話題となるなど一発録りが流行していたこともあり、本作も楽曲はほとんどが一発録りで行われ、歌入れも同時に行われている。レコーディングを繰り返し、レコード会社へ音源を持ち込むも、理解されずにリリースが決定するまでに時間がかかっている。布袋は後に「アマチュアのミュージシャンがスタジオで練習しているのをそのまま録ったようなアルバム」と評し、「俺もとりあえず初めから最後まで間違えなきゃいいというノリでプレイしていた」と語っている。また、本アルバムの大半の曲のドラムは初代ドラマーの木村マモルが叩いており、高橋まことが演奏しているのは「MASS AGE」と「WATCH YOUR BOY」の2曲のみとなっている。2曲目に収録されている「IMAGE DOWN」のイントロ等もライブではサックスによるもので、深沢は全曲で演奏しているが、レコーディングでは「MASS AGE」しか演奏していない(コーラスでは多数の曲に参加している)。スタッフの月光恵亮は歌詞に関して、「メッセージ性が強いのは、当時のムーブメントの影響もあるけれど、スピニッヂ・パワーやってた時の氷室の不満が積もり積もって言葉に出てきてるんだと思う。彼の書く言葉は群馬弁とかも入ったままなんだけど、リアリティーがあってそれも面白いんじゃないかって、ほとんど手直しをしなかった」と述べている。パンク・ロック色が強く、歌詞のイメージが汚いとレコード会社側がリリースをためらっていたため、1981年の夏に全てのレコーディングが終了しているにも関わらず、同年に本作はリリースされなかった。当初は、日本フォノグラム(現:ユニバーサルミュージック)よりデビューアルバムは発売予定だったが、1982年3月にビクターよりようやくリリースされる事となった。その直前にバンド名を「暴威」から「BOØWY」に変更した。アルバムの帯には「エアロスミスとアナーキーとサザンを足して3で割ったバンド」「ラスト・パンク・ヒーロー」というキャッチコピーが付けられた。レコード会社側はBOØWYを当時流行していたパンク・ロックバンドの一つとして売り出そうとしていたが、メンバーは本格的なパンクを目指しているわけではなく、またアルバムがリリースされるまでの半年間で音楽性が変化していたこともあり、精神的に落胆することとなった。氷室は後に「俺らとレコード会社とのコンタクトの取り方も下手だったと思う。全然コミュニケーションうまくいかなかったから」と語り、「"ラスト・パンク・ヒーロー"っていうコピーが付いたことによって、誤解して集まってくる客に対して責任取らなきゃいけないわけじゃない。その頃、俺はウルトラヴォックスとかの物憂いマイナー・メロディアスっていうのをやりたくてしょうがなかった。布袋もそうだった」と述懐している。当時は6人編成であり、アルバムジャケットは6人で写ったものになっている。ボーカルの氷室は改名前の為、クレジットされている名前は「氷室狂介」となっている。音楽評論家の市川哲史は「『NO N.Y.』の下世話だけどロマンティックな世界観、がなりや調子っ外れとは無縁の、氷室の『日本独自の正統派』ボーカルの艶っぽさ、布袋の英国ニューウェイヴへの『真摯な愛情』に満ちたスマートなアレンジ。そのどれもが日本パンク・ロック史上初であり、決して粗野なだけじゃない『文系』感を持っていたからこそ、スタイリッシュな香りが漂っている」と述べている。A面:1 - 6曲目、B面:7 - 13曲目 BOØWYスタッフ
出典:wikipedia
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