ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff, 1944年7月3日 - )はフランスの男性ポップス・シンガーソングライター、コンポーザー。フランス共和国ロット=エ=ガロンヌ県ネラック出身。フランスでは国民的歌手としての人気があり、日本でも「シェリーに口づけ」、「愛の休日」などのヒット曲で知られている。名前の発音はフランス語では「ミシェル」に近いが、日本では長年「ミッシェル」と呼び慣わされているために項目名はこれに倣う。7月3日、第二次世界大戦の最中、両親の疎開先だった南仏のネラックで生まれる。父親のレイブ・ポルナレフ(Leib Polnareff, ウクライナ語表記は Лейб Польнарев, 1899-1975)はウクライナ南西部のオデッサ(旧ロシア)出身のユダヤ系ウクライナ人の音楽家で、1923年にフランスに移住した。『』という変名にてエディット・ピアフやイヴ・モンタン、、ダニエル・ダリューに楽曲提供していた作曲家(ピアフの "Un Jeune Homme Chantait"、モンタンの "Le Galérien"、フランスのバンド Trabucco and His Musette Group の "Oui, Oui" などの作曲で知られる)で、ジャズ・ピアニストでもあった。母親のシモーヌ・ラーヌはフランス人のダンサーだった。異母兄弟の兄にブルガリアの科学者・ボリス・ポルナレフ (, 1924-2013) がいる。コンセルバトワール(パリ音楽院)に入学。ピアノやソルフェージュを学び始める。徹底した英才教育だった。ソルフェージュで優勝をする。この頃にエルヴィス・プレスリーの歌を聞いてロックンロールを知り、クラシック音楽への情熱を次第に失っていく。兵役でモリュソンに赴任。不適格な人間として6ヶ月後に退役させられる。その後に保険会社に就職する。上司と衝突して保険会社を退職。クラシック音楽の道への復帰を強要する両親と仲違いし、ギターを手に家出をし、モンマルトルでヒッピー生活を始める。レコード会社「」およびラジオ局「」のディレクターである(1970年9月11日に逝去し、ポルナレフは後の曲「愛のコレクション」に「ルシアン・モーリスに捧ぐ」という副題を付けている)に出会い、レコード・デビューをめざす。アマチュア・ロックのコンテスト「ロコモティヴ」に参加して優勝をする。優勝者はロッカーズというレコード会社と契約できて、レコード・デビューできるというものであったが、ポルナレフは既にルシアン・モーリスと契約をしていたので、それを辞退した。ルシアン・モーリスはポルナレフのデビューにあたり、ロシア人やウクライナ人を連想させるポルナレフという名前ではなく、イギリス人のような名前の芸名を考えていたが、ポルナレフはそれを拒否して、本名でデビューすることになった。ロンドンにて「ノンノン人形()」、「悲しきマリー」など5曲をレコーディング。ギターにはジミー・ペイジ、ベースにはジョン・ポール・ジョーンズ(後に共にレッド・ツェッペリンのメンバー)が参加した。レコーディングでのバック・ミュージシャンをイギリスのユニオン(音楽家組合)に依頼したところ、ジミー・ペイジが紹介されたと言われている。5月、4曲入りEP「ノンノン人形」がDisc'AZより発売されてデビューする。15万枚を売る大ヒットとなった。6月には続く3曲入りEP「愛の願い(Love me, please love me)」も大ヒットし、一躍スターダムに上り詰める。8月には、アンチープ・フェスティヴァルで「愛の願い」を歌って評論家賞を受賞。当時のフランスの首相・ジョルジュ・ポンピドゥー(後に大統領)は、「時代の流れだ。私は今日、新しい歌手の存在を知った」と賛辞の言葉を贈った。10月、日本でテイチクよりシングル「ノンノン人形」が発売される。11月、フランスでファースト・アルバム『』を発表。英語の作詞でプロコル・ハルムのが参加している。当時は旧来のシャンソンと区別するため、フレンチ・ポップスと呼ばれた。同じレコード会社に所属するに協力し、ワルテルの4曲入りEP盤『Mrs. Applebee』の3曲の編曲と音楽監督を担当。更に、ワルテルの4曲入りEP盤『Les Petits Boudins』に1曲 "Je N'Ai Pas Osé" を提供した。1月、「愛はあの人の胸に」がフランスで大ヒット。2枚目のアルバム『』を発表。ポルナレフの曲「バラ色の心 (Ame Câline)」が " に改題されて、レイモン・ルフェーブル・グランド・オーケストラによって演奏されたものが欧米のヒットチャートにランクインした。そして、欧米の多くのラジオ局が同曲をテーマ曲に選定し、ポルナレフの名前が世界的に広く知られるようになる。その後、多くのイージーリスニングのバンドやオーケストラによって同曲が "Soul Coaxing" のタイトルでカバーされている。ザ・ベンチャーズもカバーし、ペギー・マーチなどは、英訳した歌詞を乗せてカバーした。7月、「門番の娘」がフランスで大ヒット。12月、劇作家・ジャン=ルイ・バローの依頼で、演劇『ラブレー (Rabelais)』の音楽を担当。演劇畑の評論家からも高い評価を受ける。3月、2枚目のアルバム『Le Bal Des Laze』がシャルル・クロ協会のディスク大賞を受賞。5月、「渚の想い出」がフランスで大ヒット。夏季3大ヒットの1つに数えられる。B面は「シェリーに口づけ」。11月、パリのオランピア劇場での初の公演を行う。12月、「ステキなランデブー」がフランスで大ヒット。フランス映画『』でポルナレフ作曲の「La femme faux-cils」が使用されている。(作詞は、歌は主演の アニー・ジラルド)1月、「想い出のシンフォニー」がフランスで大ヒット。4月までレコード売上げの1位を独占。1月14日から同月27日まで、オランピア劇場で公演を行い、大成功となる。3月、映画プロデューサーのクロード・ルルーシュから映画『哀しみの終わるとき』の音楽の依頼を受ける。映画の公開は1971年。7月、「僕は男なんだよ」がフランスで大ヒット。B面は「忘れじのグローリア」。10月、ギリシャ、モロッコなどを旅行した後、ロンドンで次のアルバム『』のレコーディングを開始。11月、アルバム『Polnareff's』のストリングスとブラスのセクションの録音をパリで行う。また、久々に公に姿を現したことにより、チフスに感染した、神経衰弱になっていたなどの噂がピタッと収まった。フランソワ・レシャンバック監督のスイス映画『 (口の軽い人)』の音楽を担当。映画の公開は1974年。8月に日本ではCBSソニー(レーベルはその前月に発足されたばかりのエピック)よりシングル「シェリーに口づけ(Tout, tout pour ma chérie)(c/w 初めての愛)」と、同曲を追加収録したファースト・アルバム『愛と青春のトルバドゥール/ミッシェル・ポルナレフ 1』が発売される。それまで、テイチク、日本コロムビアからシングル、アルバムが発売されていたが、日本での人気はこの時に火が付き、「シェリーに口づけ」がラジオ・チャートでトップ入りし、40万枚を売り上げる大ヒット・シングルとなったことで、実質的にはこの時点が日本でのデビューとされている。10月、シングル「愛の願い (c/w 君の幸福と僕の後悔)」、フランス盤と同内容(但し、ジャケットのデザインは異なる)のセカンド・アルバム『フレンチ・ポップスのスーパースター/ ミッシェル・ポルナレフ 2』をリリースした。当時の日本でのキャッチフレーズは「フレンチ・ポップスのスーパースター」と「ロックとロマンの出逢い」であった。フランスのコメディ映画「大乱戦 ()」の音楽を担当。サントラ盤のLPがフランスで発売された。主演はかつてポルナレフの父親が曲を提供したこともある歌手・俳優のイヴ・モンタン。フランスでは、シングル「愛の休日」が大ヒット。「哀しみの終わるとき」(同名映画のテーマ曲)、「愛のコレクション」、「渚の想い出」のシングルも続いて発売された。日本では、サード・アルバム『ポルナレフの世界 / ポルナレフ3』と、それまでの3枚のアルバムに収録されなかったヒット曲をまとめた編集盤『ポルナレフ・ナウ』が発売された。また、日本ではシングル「哀しみの終わるとき (c/w カトリーヌの追憶)」、「愛のコレクション (c/w 神父様の結婚式)」、「渚の想い出 (c/w コンピュータの夢)」、「愛の休日 (c/w 愛の物語)」が発売された。1月6日、ポルナレフのインタビューとライヴのシーンをメインとしたドキュメンタリー番組 "A Bout Portant" がフランスの公共テレビ局ORTFで放送された。後にこの映像は INA(フランス国立視聴覚研究所)からインターネットを通じて有料配信され、日本では「ミッシェル★ポルナレフ」のタイトルで1999年にビデオソフト(VHS版のみ)として発売されている。10月6日から同月22日まで、パリ・オランピア劇場でのライブ「ポルナレボリューション」(Polnarévolution = Polnareff + Révolution の造語)が開催されたが、公演に先立つ宣伝用ポスターはポルナレフ自身の臀部を露出した写真が使用され、それがパリの街中に貼り出された。この行為がフランス当局より「公序を乱した」としてポルナレフが逮捕され、フランス国内各紙一面に「ポルナレフ逮捕される」の記事が掲載され、大きなセンセーションを巻き起こした。ポルナレフはこの件の裁判で罰金360万フランの求刑がなされたが、判決では、ポスター1枚あたり10フラン、合計で罰金6,000フランの支払が課せられた。この時のオランピア劇場でのライヴ録音盤が、後に「熱狂のオランピア (原題:Polnarévolution)」のタイトルで発売されている。また、フランスの人気ロック歌手・ジョニー・アリディ出演のドキュメンタリー映画『ジョニー・オン・ステージ』にピアニストとしてサプライズ・ゲスト出演する。撮影は1971年9月24日、パリのパレ・デ・スポール。シングル「愛の休日」は日本でも大ヒットし(「シェリーに口づけ」を超える彼の最大のヒットとなった)、11月に初の来日公演が実現した。バック・バンドはフランスのロック・バンド、ディナスティ・クリジス()。東京公演を録音したライヴ盤「ポルナレフ・ア・トーキョー(発売時邦題)」が翌年になって日本でのみ発売されている。この日本での大人気に乗じて、翌年に予定されている次作アルバムについて日本先行発売をする計画が発表された。4月、再びオランピア劇場でのコンサート「ポルナレーヴ」(Polnarêve = Polnareff + Rêve の造語で、Rêve はフランス語で「夢」の意味)を開催。3週間にわたる最終ステージで、フランスとの訣別宣言をする。この後、ポルナレフは2007年までの34年間、フランスでのコンサートを行なっていない。前年のオランピア劇場でのコンサートの臀部露出ポスターをエスカレートさせ、今回はオールヌードで股間を帽子で隠している写真が公開され、日・仏で話題となる。今回はフランス当局からのクレームなし。この写真は後に、日本編集アルバム「ポルナコレクション」のジャケットにも使用されている。5月31日、ロスアンジェルスに滞在中、母の訃報が届く。6月、2度目の来日公演を開催。東京でのライヴの模様が90分の特別番組「ミッシェル・ポルナレフ / ロックンロール熱狂のライブステージ」として東京12チャンネルで同月17日に放送された。オープニングの「ラース家の舞踏会」の奇抜なライト・ショーから始まり、アンコールではステージ上に観客を上げて、"Be-Bop-A-Lula
出典:wikipedia
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