ピピン3世(ドイツ語:Pippin III, 714年 - 768年9月28日)は、フランク王国の国王(在位:751年 - 768年)。アウストラシアの宮宰だったピピン1世(大ピピン)との対比で、「小ピピン("Pippin der Jüngere")」とも呼ばれる。また、ピピン短躯王(ペパン=ル=ブレフ)とも呼ばれる。カール・マルテルの子。はじめネウストリアの宮宰(在職:741年 - 751年)およびアウストラシアの宮宰(在職:747年 - 751年)であったが、メロヴィング朝のキルデリク3世を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた。ピピンは、714年に現在のベルギー領で全フランク宮宰カール・マルテルとその妻クロドトルード(690年 - 724年)の間に生まれた。740年にラン出身のベルトレドと結婚し何人かの子供をもうけた。そのうちカール、カールマン、レドブルガ(ウェセックス王エグバート妃)の3人が成人した。741年に父のカール・マルテルが死去し、権力はピピンと兄のカールマンの二人に継承された。庶子のグリフォにも割り当てがあった可能性はあるが、この異母弟はピピンとカールマンによって修道院に軟禁された。後にカールマンも自ら修道院での隠棲を望んでアウストラシア宮宰を辞したため、ピピンはもはや名目のみとなったメロヴィング朝のキルデリク3世の下、宮宰としてフランク王国の実権を握った。そして彼はローマ教皇ザカリアスに「王の称号を持つのみの者と、王ではないが王権を行使する者のどちらが王たるべきか」と尋ね、実権を持つものが王となるべきという回答を得た。これを背景に751年、ピピンはフランク族の貴族たちによってフランク王に選出され、ソワソンで(おそらくマインツ大司教ボニファティウスによって)塗油された。ピピンは多くの土地を征服し、その権威はクロヴィス1世以来最も高まっていたが、ローマ教皇ステファヌス3世が彼をローマ貴族(パトリキ)に叙し、パリのサン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油したことで更に増した。このときピピンは王位の世襲を望み、ステファヌス3世は息子のカールとカールマンにも塗油を行なった。ピピンは王位承認の見返りの一環として、754年から755年にかけてランゴバルド王国のアイストゥルフスと戦い、ラヴェンナを奪って教皇ステファヌス3世に献上した。これはピピンの寄進と呼ばれ、後の教皇領の元となった。また759年にはナルボンヌを奪還してサラセン人(イスラム帝国)をフランスから駆逐することに成功し、さらにアキテーヌも王国に組み入れた。768年にピピンはサン=ドニで死去し、サン=ドニ大聖堂に葬られている。
出典:wikipedia
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