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瀧本誠

瀧本 誠(たきもと まこと、1974年12月8日 - )は、日本の柔道家、総合格闘家。茨城県坂東市(旧岩井市)出身。柔道四段。2000年シドニーオリンピック柔道男子81kg級金メダリスト。シドニーオリンピックの際には、当時の柔道家では珍しい茶色に染めた髪、国歌斉唱時に手を胸に置く仕草などユニークなエピソードをマスコミに提供。「柔道界の異端児」とも評された。柔道家時代の得意技は、袖釣り込み腰、内股。総合格闘技に転向・引退後、柔道指導者として活動している。実家は青果店を経営。たまたま客に柔道の先生がいて誘われたのがきっかけで、6歳(小学1年)の時に柔道を始める。中学入学と同時に上京、講道学舎に入門(吉田善行、小斎武志、大山峻護らが同期)。世田谷区立弦巻中学校、世田谷学園高校、日本大学を卒業。大学卒業後は日本中央競馬会に所属し、2000年シドニーオリンピック柔道男子81kg級金メダリストとなった。2002年に日本中央競馬会を退職し、フランスのクラブチーム「USオレルアン」所属となった。2003年に帰国すると埼玉栄高校職員を務めながら、アテネオリンピック出場を目指すも、2004年4月4日の全日本選抜柔道体重別選手権大会(兼アテネオリンピック代表最終選考会)男子81kg級の決勝で塘内将彦に袖釣り込み腰で一本負けし、代表権を逃した。2004年12月7日、総合格闘家への転向、PRIDE参戦を表明。2004年12月31日、総合格闘技デビュー戦となったPRIDE 男祭り 2004で相撲界から転向してきた戦闘竜と対戦。判定で勝利し、デビュー戦を勝利で飾る。試合後リング上で「今日、試合するまで、総合格闘技をなめてました。どうもすいませんでした」と発言した。2005年6月26日、PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUNDで田村潔司と対戦し、判定負け。2005年10月23日、PRIDE.30で同じく柔道出身のユン・ドンシクと対戦し、判定勝ち。瀧本は半袖の柔道着、ユンはスパッツ姿での対戦となった。2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005で菊田早苗と対戦し、判定負け。2006年6月4日、PRIDE 武士道 -其の十一-で行なわれたウェルター級(-83kg)グランプリ1回戦でゲガール・ムサシと対戦し、ムサシのパンチで右眼窟底骨折し、ドクターストップ負け。2007年4月8日、PRIDE.34でゼルグ・"弁慶"・ガレシックと対戦。苦しみながらも、チキンウィングアームロックで一本勝ち。2007年12月31日、やれんのか! 大晦日! 2007でムリーロ・ブスタマンチと対戦し、僅差の判定勝ち。2008年3月5日、戦極旗揚げ戦戦極 〜第一陣〜でエヴァンゲリスタ・サイボーグと対戦し、アキレス腱固めで一本負け。2008年8月24日、戦極 〜第四陣〜でフランク・トリッグと対戦し、判定負け。試合後、「これはあまり言いたくないのですが、もう限界かなと思っています。」と発言した。2009年5月2日、ウェルター級転向初戦となった戦極 〜第八陣〜でマイケル・コスタと対戦し、ヒールホールドによる一本勝ち。試合後、「気持ちの上ではもうちょっと出来るかなと思っています」と発言した。2010年3月16日、現役引退を発表。2011年開校の世田谷区スポーツ振興財団世田谷ジュニアアカデミーにて「柔道アカデミー」の総合監修を務める。2013年には早稲田大学スポーツ科学学術院社会人修士課程1年制の第7期生(2012年度卒業生)として修了。柔道指導、柔道に関する講演や雑誌連載(『近代柔道』「誠が翔ける!」)のほか、2014年から駒澤大学で講師を務める。2015年にはバラエティ番組「ぶっこみジャパニーズ」に出演。私生活では、2005年に結婚し、一男一女の父親。2012年11月、プロ野球球団の北海道日本ハムファイターズがドラフト1位指名した大谷翔平(花巻東高)と入団交渉した際、提示した資料「夢への道しるべ~日本スポーツにおける若年期海外進出の考察~」に、資料作成協力者として、日本ハム球団ホームページ内の資料に名前が記載されている。

出典:wikipedia

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