高崎市(たかさきし)は、関東地方の北西部、群馬県中部よりやや南西に位置する中核市。旧群馬郡・碓氷郡・多野郡(多胡郡・緑野郡)・甘楽郡(1900年(明治33年)の市制当時の区域は旧群馬郡)。平成の大合併により、群馬県内では最大の人口を擁する都市となった。古くから交通の要衝で、中山道(国道17号・国道18号)と三国街道(群馬県道25号高崎渋川線)の分岐点、関越自動車道と北関東自動車道の分岐点、上越新幹線と北陸新幹線の分岐点ともなるなど、全国有数の交通拠点都市である。新幹線の停車する高崎駅は群馬県の県庁所在地前橋市の玄関口ともなっており、群馬県の交通の中心地である。平成の大合併では、倉渕村、箕郷町、群馬町、新町、榛名町、さらには吉井町を編入し、広大な市域に県内一の人口を擁するようになった。都市圏人口は約53万人で、都市圏人口としては県内一の規模である。公示地価では、高崎市が商業地・住宅地とも県内最高地点を占めている。市の中心地域(中心市街地)は旧群馬郡高崎町を中心とする地域である。江戸時代には高崎藩の城下町として、中山道69次中4番目に規模が大きい宿場町として、また物資の集散地・商業のまちとして大いににぎわった。街道筋の田町、本町、新町(現:あら町)などに市が立ち、その様子は「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と詠われたほどである。鍛冶町には鍛冶職人が、鞘町には刀の鞘師が、白銀町には金銀細工師らが住み、当時の職人の町は今も町名として留めている。現代でも県内有数の商業都市として盛えている。また、高崎郊外に位置する問屋町は、日本初の郊外型問屋団地である。政治的には、本市から自民党の政治家(総理大臣については本市から3名)を多く出しており、「自民王国」としても有名である。日本一のだるまの産地であり、国道18号沿いにはだるまの生産工場が集中している。また、数少ないオーケストラのある地方都市であり、高崎マーチングフェスティバルが開かれるなど、音楽に関する活動が盛んであることから、高崎市は「音楽のある街」と名乗っている。また、高崎フィルム・コミッションにより、ドラマ・映画・プロモーションビデオ等の撮影を誘致しており、しばしば高崎の市街地や学校などが登場する。毎年、高崎映画祭を開催するなど、音楽以外の芸術・文化活動も盛んである。また、昭和40年代の上越新幹線ルート発表を契機に市が主導となっておこなった再開発事業などは30にもおよぶ。毎年元日に行われる全日本実業団対抗駅伝大会では、高崎市役所が1区と2区の中継地点となっている。関東平野の北西部に位置している。西端は長野県北佐久郡軽井沢町、東端は前橋市に接しており、群馬県南西部をほぼ横断する形になっている(飛地があるため、完全に横断する形ではない)。市内から赤城山・榛名山・妙義山の上毛三山を望むことができる。特に榛名山の南面は、大部分が市域に含まれる。また市内には、利根川・烏川・碓氷川など、大きな一級河川が流れている。特に烏川は、流域のほとんどが市域に含まれている。また、海岸より100km以上離れた内陸に位置するにもかかわらず、中心市街地の標高は97.1m(高崎市役所)と低い。また、市の北部及び西部には標高1000m以上の地点も存在し、倉渕町川浦の浅間隠山にある東吾妻町及び、長野原町との境界では標高1690m、新町の烏川河川敷の標高60mと標高差が1630mもある。(2009年10月1日現在)(現在)高崎市の中心市街地は、およそJR高崎線とJR信越本線、国道17号で囲まれた地域である。この地域は江戸時代以来の城下町であったとともに、中山道の宿場町でもあった。市役所を始めとする主要な行政機関や文化施設、公共施設、また数多くの商店街や金融機関、大型商業施設、宿泊施設などがこの地域に立地している。ただ、近年は高崎駅の東側にも商業施設や文化施設などが進出してきている。江戸時代明治から第二次大戦まで第二次大戦後当初、高崎の地は「和田」と呼ばれていた。「高崎」という都市名の由来については、以下の伝承がある。高崎城が和田城の跡に完成した際に、城主である井伊直政は、当地を「松ヶ崎」という名前に改めようと思った。そこで、その件を常日頃から信頼を寄せている箕輪の龍門寺の住職である白庵に話した。白庵は「もっともなことではありますが、諸木には栄枯あり、物には盛衰があるのは珍しいことではありません。殿様が、家康様の命を受けて和田の地に城を築いたのは権力の頂点に立った大名に出世されたからであります。そうであれば『成功高大』の意味を採って『高崎』と名付けた方がよいのではないでしょうか?」と言った。白庵の含蓄ある言葉を聞いて喜んだ直政は、直ちに「和田」を「高崎」と改めた。そして白庵が箕輪から転住した龍広寺の山号に、「高崎」の2字を与え感謝の意を表した。廃藩置県により1871年(明治4年)10月に誕生した群馬県の県庁は当初、高崎に置かれていた。しかし、県庁の建物は高崎城内にあり、軍事上の要地であったことから、翌年1月に政府の兵部省に接収されてしまった。当時の高崎には他に県庁舎として代用できる建物がなく、やむを得ず太政官に許可をもらい、県庁を前橋城内に移転した。この時は、高崎の住民も事情を察してか、大きな混乱が起こることはなかった。だが、1873年(明治6年)に群馬県令(現在の群馬県知事)に就任した河瀬秀治は入間県(現在の埼玉県)の県令も兼任していたため、県庁のある前橋と川越のあいだ(距離にしておよそ100km弱)を頻繁に行き来しなければならず、業務に支障を来たした。政府はこの事情を考慮して、同年6月、群馬・入間両県を合併して熊谷県とした。熊谷県の県庁は熊谷に置かれたため、前橋は県庁所在地でなくなった。ところが、政府が全国的に実施した府県の大規模統合により、3年後の1876年(明治9年)熊谷県がふたつに分割された。熊谷県の旧武蔵国の範囲が埼玉県に併合され、残りの範囲に栃木県からもらい受けた館林県をあわせて、再び群馬県が誕生し、県庁は高崎に戻った。しかし、以前県庁として使用していた高崎城は陸軍省(旧兵部省)に陣取られていたため、県庁舎に代用できる建物がなかった。とりあえず高崎にある安国寺を県庁舎としたが、手狭のために各課を分散配置して県政運営をしなければならず、業務は混乱を来たし、県令の責任問題にも発展しかねない状況に追い込まれた。そのため、新たに群馬県令に就任した楫取素彦(吉田松陰の義弟にあたる)が、明治政府に前橋城内の建物を仮庁舎として使用させてもらえるよう交渉し、大久保利通内務卿の許可を取り付けた。高崎の住民に対しては、「県庁移転はあくまで一時的なものであり、地租改正の業務が終了すれば県庁を高崎に戻す」と約束して納得させた。それから4年余りの歳月が経過し、前橋は政治の中心地としての機能が整いつつあり、経済力も備えていた。いまさら高崎に県庁を戻すメリットはないと判断した楫取県令は1880年(明治13年)11月に、住民にはあくまで内密にして松方正義内務卿に県庁舎を前橋に置きたいという旨の伺い書を提出した。そして翌年の1月、県庁を前橋に置くことが、太政官布告により正式に決定した。高崎市民は突然の知らせに騒然となり、楫取県令の裏切り行為に激怒した数千人が県庁に押しかけ、あわや軍隊が出動する事態にまで発展したため、県庁移転問題は裁判にゆだねられることになった。1882年(明治15年)3月に判決が下され、高崎住民の訴えは退けられた。これにより、県庁を前橋に置くことが確定したが、高崎の住民は納得したわけではなく、大正時代にも県庁移転運動が再燃した。しかしながら実現することはなく、ついに県庁が高崎にかえることはなかった。第一次合併(群馬町・箕郷町・新町・倉渕村)1997年(平成9年)以来、中核市への移行を目指して周辺市町村との合併を模索してきたが、2003年(平成15年)12月に倉渕村・群馬町・新町・吉井町と任意合併協議会を設置し、合併協議が本格化した。その後、吉井町は法定合併協議会設置案を否決して協議から離脱した。箕郷町では住民投票の結果賛成多数となった事を受けて、群馬町・新町・倉渕村とは別に、高崎市との法定合併協議会を設置した。その後、5市町村は同時合併を目指して合同で協議会を開き、2005年(平成17年)2月8日に合併協定の調印に至った。2006年(平成18年)1月23日、倉渕村・箕郷町・群馬町・新町の4町村を高崎市に編入し、法定人口(合併市町村の2005年国勢調査人口の合算値)が318,097人となり、中核市への移行要件を満たすことになった。この時点では榛名町が合併慎重派の町長と推進派が多い町議会の対立などで合併協議に加わらなかったため、旧倉渕村は飛地となった。また、旧新町も藤岡市などとの合併協議から離脱し、隣接していないが繋がりの深い高崎市との合併を選択したため、飛地となった。なお、この合併によって住所表記が以下のように変更された。第二次合併(榛名町)榛名町では、2005年(平成17年)11月に合併推進派の住民が約7900名の署名を集めて慎重派の町長の辞職を請求し、町長はリコール投票前に辞職、これを受けた町長選挙の結果、2005年(平成17年)12月に合併推進派の町長が就任した。一方、慎重派の住民が起こした町議会リコールの住民投票でも「解散反対」が多数を占め、その後2006年(平成18年)2月に高崎市と榛名町は合併協議会を設置した。高崎市と群馬町・新町・箕郷町・倉渕村との合併協定項目を榛名町が追認する形を取ったため、5月8日には合併協定調印にこぎつけ、両市町議会、群馬県議会の議決を経て、7月13日には総務大臣が官報に告示し、2006年(平成18年)10月1日に合併が行われた。この合併により旧倉渕村域の飛地状態が解消され、高崎市の人口は約34万人と史上初めて前橋市の人口を上回り、県内で最も人口を抱える都市となった。同時に広大な市域を抱えたことから、人口密度は太田市に次いで県内第5位である。なお、この合併によって旧榛名町の住所表記が、合併前の大字名の後に「町(まち)」が付く形に変更された。但し、大字榛名山地域は、地区住民の総意として榛名湖周辺の次の区域が合併と同時に高崎市榛名湖町に分割された。第三次合併(吉井町)2003年(平成15年)に任意協議会が設置されたが、合併賛成と反対で町は二分し、合併の賛否を問う3度の住民投票が行われ、合併反対が多数を占めた町議会が合併に同意。2008年(平成20年)7月、高崎市と吉井町による合併協議会が設置され、2008年(平成20年)10月16日に高崎市長・吉井町長による合併協議項目の調印を完了させ、2009年(平成21年)1月8日高崎市が、1月13日吉井町がそれぞれ関連議案を可決し、2009年(平成21年)6月1日に合併が実現した。新市の人口は36万6966人、面積は459.36m²(2008年6月1日現在)に及ぶ。しかし、一部の合併反対派住民は合併関連祭典等への参加を拒んでおり、今後はこのしこりを取り除くことが課題となっている。なお、この合併によって旧吉井町の住所表記が以下のように変更された。将来合併構想(前橋市・玉村町)高崎市は2002年(平成14年)6月に玉村町に合併を呼びかけたが、2003年(平成15年)12月の任意合併協議会設立に玉村町は参加を見合わせた。2007年(平成19年)にも玉村町の住民署名による直接請求に応じて、高崎市は合併協議会の設置を可決しているが、玉村町では否決している。2008年(平成20年)1月20日に行われた玉村町長選では、高崎市との合併推進派と合併慎重派の一騎討ちとなったが、合併慎重派候補が当選している。2007年(平成19年)10月に前橋市長から、高崎との合併による政令指定都市実現を構想する旨の発言があったが、NIRA(総合研究開発機構)の対談シリーズ(第26回;2007年11月19日)において、松浦・高崎市長は「前橋との合併は極めて困難」であると語っている。松浦高崎市長は、自らのホームページ上で、「高崎市は、高崎都市圏(玉村町・藤岡市・安中市)での広域合併を実現し、太平洋と日本海を結ぶ結節点として、新潟市やさいたま市等の政令指定都市に比肩しうる拠点都市を実現したい」旨を表明している。2006年(平成18年)の合併以前の市域には、届出や証明書の発行を受けることができる市民サービスセンターが9箇所ある。設置されている委員会高崎市では友好交流都市として国内1都市・海外5都市を挙げている2010年発行の『高崎市観光振興計画』では、以下4自治体がパートナー都市として挙げられている。年間商品販売額(万円)(2007年)小売業売場面積(m²)(2007年)製造品出荷額(万円)(2007年)農業産出額(千万円)(2006年)農家数(戸)(2005年)耕地面積(ha)(2007年)データ出典:群馬県統計情報提供システム高崎市は北関東工業地域の一角であり、市内各地に工業団地が造成されている。市内の工業団地(計28か所)かつて事業所を置いた主な企業高崎市では、麒麟麦酒工場跡地に公共施設を建設するなどの有効活用を検討中であったが、2007年(平成19年)9月に森永製菓が「2010年(平成22年)1月の生産開始を目指して新工場を建設する」と発表した。森永製菓の既存工場の大部分を集約し、生産額500億円を目指す国内最大級の規模になる。しかし、2008年(平成20年)6月には新工場建設を無期限停止すると発表、原因は当時進行していた、原油高に伴う原料高騰による収益減だと思われる。その後2009年(平成21年)10月には無期限停止を解く形で、2010年(平成22年)4月に第1工場の建設を開始すると発表され、新工場建設の起工式が行われた。2011年(平成23年)夏には第一工場が完成し、早くも営業を開始した。また、2012年には第二工場の完成も予定されており、周辺地域の更なる発展が見込まれている。ちなみに麒麟麦酒工場跡地では2006年(平成18年)に公開された映画『日本沈没』のロケが行われた。高崎駅西口側の中心市街地には、高島屋やスズランなどの大型店舗や専門店(ファッション関係の店が多い)、飲食店などが立ち並んでいる。昔からある商店街はシャッターを下ろしている店が幾つかあるが、駅前の中心街についてはそこそこの賑わいを見せている。高崎駅東口側には、ヤマダ電機の本社併設店舗であるLABI1高崎やビックカメラなどの大型家電量販店があり、西口側ほどではないが専門店や飲食店も立地している。また、東口側には大型の娯楽施設がいくつか立地している。高崎問屋町駅周辺は日本初の郊外型問屋団地として知られるが、近年は中規模・大規模の小売店の進出も目立っている。それ以外にも、国道17号高崎前橋バイパスや高崎環状線などの幹線道路沿いに大型のロードサイドショップが多数立ち列び、「ロードサイド銀座」となっている。特に、国道17号高崎前橋バイパス沿いには、国内・海外の主要自動車メーカー系列の自動車販売店が集まっている。高崎市の小売業販売面積および年間商品販売額(何れも2004年)は、いずれも前橋市に次いで県内第2位の座を占めている。市内に立地する主な商業施設を業態別に見ると、以下のようになる。百貨店は、中心市街地に地元資本の百貨店であるスズラン高崎店と、高崎高島屋が立地している。スズランは、隣接する平面駐車場に地上8階/地下2階の新館の建設を予定している。ショッピングセンターは、大型の郊外型ショッピングセンターとして、高渋バイパス沿いにイオンモール高崎が、国道17号高崎前橋バイパスの前橋インターチェンジ付近にアカマル(旧赤まる市場)が立地している。また、国道17号倉賀野駅付近のミスターマックス倉賀野ショッピングセンター、国道406号沿いのはるなショッピングタウンパワーセンター、北高崎駅付近にあった高崎木材市場跡地のウニクス高崎(核店舗はヤオコー)など、中小規模のショッピングセンターもいくつか立地している。ショッピングビルとしては、高崎駅西口に高崎駅ビルモントレー、ラ・メルセなどがある。以前は高崎ビブレがあったが、再開発計画により2014年3月31日に閉店した。スーパーマーケットは、以下のような店舗が進出している。家電量販店は国内最大手のヤマダ電機が、高崎駅東口に同社最大級の店舗LABI1高崎を構え、本社を前橋市から同店舗の建物内に移している。また、菅谷町の高崎渋川線バイパス沿いにはテックランド高崎北菅谷店を構えている。家電量販店大手のビックカメラは、高崎市が創業の地であり、現在でも高崎駅東口店を構えている。そのほか、高崎環状線沿いにコジマ×ビックカメラ高崎店がある。以前は国道17号沿いにデオデオ(現・エディオン)高崎店もあったが、2008年(平成20年)10月26日に閉店した。ホームセンターは最大手のカインズが市内に本社を設置していた。但し、高崎市内の店舗は箕郷店と吉井店を除き、いずれもフランチャイズ店舗(FC高崎東部店、FC高崎豊岡店、FC高崎小鳥店)である。現在は、本社を埼玉県北部の本庄市にある上越新幹線本庄早稲田駅付近に移転している。また、東関東を除いた関東地方を中心に発展するホームセンターのセキチューも市内に本社を設置しており、店舗としては高崎店、高崎矢中店を構えている。その他、大八木町の群栄化学工業工場跡地に、スーパービバホームが2010年3月にオープンした。映画館は、シネマコンプレックスが高崎駅東口に109シネマズ高崎、郊外のイオンモール高崎にイオンシネマ高崎がある。また、高崎駅西口にはNPOの運営によるシネマテークたかさきがある。群馬県内の金融は、県庁所在地であり日本銀行前橋支店もある前橋市が中心であり、当市には本店を設置する銀行はない。支店のある都市銀行もみずほ銀行のみである。一方、当市は証券会社の支店の立地が多く、県内で大手三社の支店が揃っているのは当市のみである。市内に本店または支店を置く銀行、信託銀行、信用金庫、信用協同組合、労働金庫、農業協同組合、証券会社は以下のとおりである(※印は市内に本店があるもの)。市内に一般営業窓口を置かず、ATMのみを設置する金融機関かつて市内に店舗を展開したが、撤退した主な金融機関(合併による商号変更等は除く)県内およびそのほか上信越を統括する事業所高崎市は古くから音楽に関する活動が盛んであることから、高崎市は「音楽のある街、高崎」と銘打っている。日本の地方オーケストラの先駆けとして知られる群馬交響楽団を生んだ土地である。現在でも群馬交響楽団が本拠地を置いており、数少ないオーケストラのある地方都市である。また、市の自己予算と市民の寄付によって1961年に建設された群馬音楽センターは、その象徴的な存在である。毎年10月中旬には、高崎マーチングフェスティバルが開催され、毎年世界的なマーチングバンドを招いたり、市内各小学校や企業団体のバンドが一堂に集まり、市街地のメーンロードを行進したりする。高崎市には、市の歌である「高崎市歌」(作詞:黒崎親厚、作曲:塚田佳男)があり、詩と曲を公募して作られた。現在、高崎安中医療圏に200床を超える中核病院が高崎総合医療センターのみであるため、市は県に「西毛中核病院(仮称)」の建設を新市建設計画にも盛り込むなど、継続的に求め続けているが、現在県内に4つある県立病院(高崎市にはない)が大赤字状態なので美術館博物館植物園劇場・ホール・展示施設上毛かるたで「関東と信越つなぐ高崎市」と詠まれるなど、交通の要衝として知られる。群馬バスが、高崎駅を中心に市内のほぼ全域に路線バス網を持つ。上信電鉄バスは市の東部・南部の一部に路線を運行している。群馬中央バスは本拠地である前橋市から乗り入れてくるバス路線の他、高崎駅と玉村町を結ぶ路線を運行している。関越交通は同様に渋川市からの乗り入れバス路線や、倉渕地域(権田)と東吾妻町を結ぶ路線バスも運行している。日本中央バスは、高崎駅と大胡駅を結ぶ路線バスを運行している。新町駅には、日本中央バスと永井バスが乗り入れている。日本中央バスは藤岡市や多野郡と新町駅を、永井バスは玉村町と新町駅を結ぶバスという性格が強く、どちらも市内を走る区間はわずかである。その他、箕郷地域の榛名山麓や榛名山頂と伊香保温泉の間に群馬バスがバス路線を営業している。高崎市は、「高崎市内循環バスぐるりん」、「榛名循環バスはるバス」、「よしいバス」、「代替バス」の4種類の路線バスを走らせている。このうち「ぐるりん」は市営ではなくコミュニティバスであり、市内に路線を持つバス事業者が運行し、市が欠損補助を行う形で運営されている。ぐるりんは都心循環線、少林山線、高経大線、大八木線、京ヶ島線、群馬の森線、倉賀野線、観音山線、岩鼻線、こうづけ国分寺線、かみつけの里線、白川線、生原線、松原線、柏木沢線、榛名線、倉渕線、外来センター線、新町循環線の19路線が運行されており、都心循環線以外は両方向の路線が運行されている。はるバスは2路線、よしいバスは5路線、代替バスは2路線が運行されている。ぐるりん、はるバス、よしいバスの運賃は、都心循環線と、それに重なる少林山線、高経大線、観音山線の区間は1回100円で、それ以外は距離にかかわらず1回200円(子供半額)となっている。代替バスは距離制の運賃である。なお、ぐるりんにはバスナビゲーションシステムが導入されており、パソコンや携帯電話から運行状況や時刻表などが分かるようになっている。なお、旧榛名町・吉井町と合併した時には、高崎市役所と各支所(旧役場)間に運賃無料の交流バスを走らせていたが、2010年9月2日に運航終了した。(以上、市内循環バス「ぐるりん」/高崎市、高崎市・吉井町合併協議会 合併協議会だより Vol.2(2008年9月1日発行)p.4、広報高崎2010年8月1日号 pp.2〜5に基づいて作成。)高崎は「自民党王国」として有名であり、自民党の大物政治家を多数出している。又、高崎出身ではなくても、高崎に事務所を置く政治家もいる。合併した町村出身の著名人は各町村のページを参照。高崎出身者高崎に事務所を置いた政治家高崎に事務所を置いている政治家首藤真知子が* ブスの瞳に恋してる(2006年)ノンフィクション政令指定都市への移行松浦幸雄前市長は2007年(平成19年)4月22日執行高崎市長選挙選挙公報(高崎市選挙管理委員会)にて以下のような文面を載せている。以下、高崎市長選挙選挙公報より抜粋。以上、高崎市長選挙選挙公報より抜粋。このことから、松浦幸雄前市長は市長選でのマニフェストの一つとして政令指定都市を目指した政策を進めるということを示した。高崎都市圏の総人口は約57万人のため、都市圏内のみでの合併では、政令指定都市への移行は不可能だと思えるため、周辺の県内都市圏、特に前橋市との合併、および伊勢崎市との合併が必要だと言われている。県内の社団法人「理想の都市建設研究会」では、県央政令市の実現に向けて、というテーマの下、現実的な試算や将来の財政状況を踏まえた高崎市、前橋市、伊勢崎市の県央三市の合併推進を提唱している。(因みに県央三市の合併が成立した場合、総人口はおよそ90万人となる。)将来の他県との都市間競争を見据え、県内でどれだけまとまりを持ち、弾力的、かつ継続的に発展していくかが焦点といえる。2007年(平成19年)10月30日、高崎市と前橋市の相互協力などについての両市長間会議終了時に開いた記者会見で、前橋市の高木政夫市長が高崎市との合併も視野に入れた政令指定都市移行を考えているとの発言をした。これまでも合併に前向きだった松浦幸雄市長は、その際、「将来は政令指定都市を目指している」と改めて明言した。高崎市は中核市への移行を計画しており、合併への議論が具体化するのはその後になる可能性が大きい。前橋、高崎両市の人口を合わせると、68万1949人(2007年10月現在)になり、さらに高崎市との合併推進運動が盛んに行われている玉村町との人口を合わせと、74万4702人(2007年10月1日現在)となり、政令市へ移行を果たした静岡市の人口を抜くことになる。しかし2007年(平成19年)11月19日のNIRA(総合研究開発機構)の対談シリーズで松浦・高崎市長は「前橋との合併は極めて困難である」と語っている。なお、現在の富岡賢治市長は政令指定都市移行については特に見解は示していない。新駅設置構想道州制移行関係JR高崎線新町駅周辺連立体交差化事業都市集客施設建設構想高崎駅東口の栄町に位置する場所に、新しい都市集客施設「高崎パブリックセンター(仮称)」を建設する計画が浮上した。この計画は、現在老朽化が指摘されている中央体育館とビックカメラ、その周辺の駐車場などを含める広大な敷地を再開発し、大型集客施設を建設するもので、平成27年着工を目指し現在計画が進められている。高崎競馬場再開発・高崎操車場再開発に関することは高崎市の再開発を参照。高崎市は2006年(平成18年)10月1日に群馬郡榛名町を編入して以後、県庁所在地である前橋市の人口を上回り、群馬県内で最大の人口を有する都市となっている。県庁所在地よりも人口が多い市の例
出典:wikipedia
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