狭山池(さやまいけ)とは、大阪府大阪狭山市大字岩室にある日本最古のダム式ため池とされ、現在では狭山池土地改良区が維持管理している。石川や大和川といった水量の豊富な河川から外れる河内国西部の丘陵地帯は、水量に乏しく灌漑に苦労していた地域で、現在も狭山池周辺には大小の溜め池が数多く点在する。飛鳥時代前期、朝廷によって西除川(天野川)と三津屋川(今熊川)の合流点付近を堰き止め築造されたとされるが、正確な築造年は明かでは無く、4世紀から7世紀の改修記録が残る時期まで幅広い説がある。『古事記』・『日本書紀』にもその名が記され、池の中に狭山池神社が祀られている。1704年(宝永元年)の大和川の付け替えまで、現在の大阪市域に至る80か村、約55,000石を灌漑していた。各時代で幾度となく改修が重ねられ、1988年から10年以上の工期をかけた大改修のダム化工事により洪水調整機能を備え、同時に池の周囲は公園として整備された。また、以前の狭山池の保存と公開を目的とした大阪府立狭山池博物館が池の北側に2001年に開館し、改修工事の際に切り出した堤体の実物が展示され断面を見ることが出来る。堆積物中にはプラント・オパールと呼ばれる植物の遺骸が残されており、周辺の植生の変遷を知ることが可能になる。この、プラント・オパールの分析からは水田を伴わない自然栽培的な稲作が行われていた可能性が指摘されている。7世紀以降と16世紀以降と推定されるそれぞれ数百年間の地層から珪藻の化石が確認され、海性珪藻が最大で全体の5割近く占めていたことや、8世紀ごろと17世紀前後の大規模な地震による噴砂や地滑りの痕跡が確認された。また堆積物中には過去500年間の古地磁気方位変化が記録されている。古文書などから、津波を伴う東南海・南海地震として、グレゴリオ暦684年11月29日の白鳳地震と1605年2月の慶長地震があったことがわかっており、狭山池で見つかった地震痕跡の時期と近いことから、珪藻は両地震の津波で大阪湾から運ばれた可能性が指摘されている。※西除川の狭山池より上流部分は「天野川(あまのがわ)」とも呼ばれる。国の史跡に指定されている。また出土品の狭山池出土木樋と重源狭山池改修碑が2014年8月21日付で重要文化財に指定された。
出典:wikipedia
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