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土崎神明社祭の曳山行事

土崎神明社祭の曳山行事(つちざきしんめいしゃさいのひきやまぎょうじ)は、土崎神明社例祭で、秋田県秋田市土崎港地区で18世紀から続いている祭典行事。毎年7月20日の宵宮(よみや)と21日の本祭りの2日間に渡って行われる。日本の重要無形民俗文化財。土崎神明社例祭の俗な呼称としては、「みなと祭り」、「土崎港曳山まつり」などがある。なお、土崎地区以外の秋田市民であれば、単に「土崎の祭り」という呼び方をすることが多い。(曳山の構造と外観については後述。)「曳山」の本来の読みは「ひきやま」であるが、土崎では単に「やま」と読む。ただし、「曳山行事」・「曳山祭り」は、「やまぎょうじ」・「やままつり」とは読まず、「ひきやまぎょうじ」・「ひきやままつり」と読む。あるいは、「山車」(標準語では「だし」と読む)と書いて「やま」と呼ぶこともある。曳山は土崎神明社の氏子の町内として奉賛会(ほうさんかい)に加盟する各町内ごとに組立てられ奉納される。平成期に入ってからは毎年20台前後の数が奉納されており、かつてより大幅に増えている(各年の奉納曳山の項を参照)。土崎神明社の例祭は7月1日の 清祓いの儀式 に始まる一連の行事で、曳山行事はその終盤の例祭に当たる。7月22日の昇神祭にて一連の神事の儀式を終える。各町内では「会所」(かいしょ)が設けられ、15日の統前町(とうまえちょう、後述)の大会所開き(だいかいしょびらき)を皮切りに、各町内の会所開き(かいしょびらき)の神事が行われる。その神事では曳山に神様の降臨を招き、厄除けを祈願する。曳山行事の1日目である20日は宵宮(よみや)と呼ばれる。この日は、まずは自分の町内を練り歩くことが必須とされ、これによって町内の災いを祓うものとされている。また、当日中には曳山が土崎神明社に立ち寄って参拝を行い、町内によっては演芸(踊り)も奉納する。さらに、2006年に土崎駅前の道路拡張工事に伴い、神明社の祭館・本殿の建て直しとともに鳥居のかさ上げもしたため、曳山が鳥居をくぐって境内に乗り入れることが可能となった。この曳山の境内参拝の運行は郷社参り(ごうしゃまいり)と名づけられた。郷社参りは、昼食休憩の時間帯に合わせて行う町内が比較的多いため、その時間であれば土崎駅から出てすぐに複数台の曳山を目にすることができる。宵宮と21日午前の曳子(ひきこ)には子どもが多く、また、演奏される囃子はテンポの速い「寄せ太鼓」(後述)である。曳山は行程の所々で停止して、子供の輪踊りや舞方の演舞などの演芸(後述)が行われる。20日の夕方以降に本町通り(後述)の夜店に出かけるのは、子供や若者にとって楽しみの一つである。近年では、観光客が曳山を曳く体験ができる催しも行われることが多い。これは「ふれあい曳山」として港振興会が主催しているもので、協賛する町内が一旦会所に収まった曳山を観光客向けに運行するものである。秋田銀行土崎支店付近で行われ、参加無料。21日は例祭と呼ばれる。午前中、すべての曳山は、土崎の南端である穀保町(こくぼちょう)の御旅所に向かい、昼前までに集結する。曳子達は、午後の部に備えて腹ごしらえをする。ここで土崎中の厄をお祓いした御神輿、御神体を迎える。天照大神を祀る土崎神明社の御神輿の先導は面を付けた猿田彦が務める。午後には御神輿が土崎北端の相染町(そうぜんちょう、あいそめまち)の御旅所に向かう。統前町から選ばれた、裃に身を包んだ名士達が乗ったハイヤーも、列を成して追随する。昼12:30頃に上がる‘のろし’を合図に、第1号車である相染町の曳山から順に本町通りを真っ直ぐ北に進んで、相染町へ向かう。これを御幸曳山(みゆきやま)あるいは送り曳山(おくりやま)と呼ぶ。御幸曳山のとき、曳山の向きは、武者人形がある方が前(進行方向)、囃子がいる方が後ろである。演奏される囃子は、主に「湊ばやし」(みなとばやし)である(後述)。多くの町内では、曳子は中学生以上である。曳き方は綱を進行方向に真っ直ぐ曳くだけでなく、横方向にも綱を振るなどする。時折、曳山を停止させたまま、綱をただ横に振るだけという遊びさえも見られる。御幸曳山では、宵宮よりも頻繁に曳山を止めて演芸を行う。相染町の御旅所で神事が執り行われ、神事的意味合いの曳山は終わる。曳山が相染町に到着すると、曳子達は、夜のクライマックスに向けて腹ごしらえをし、アルコールも入れる。夜8時の‘のろし’を合図に、号車番号が大きい曳山から順次、自分の町内への帰途に就く。それが戻り曳山(もどりやま)と呼ばれる、この曳山行事の一番の見ものである。戻り曳山のときは、やぐら(お囃子所)前(進行方向)、武者人形がある方が後ろである。前方の角灯篭が点灯され、その赤い色が夜の闇の中に幻想的に浮かび上がる。後方の武者人形は、提灯の明かりで照らされる。戻り曳山のときに演奏される囃子は、「あいや節」(後述)である。曳き方は御幸曳山のときにも増して激しく、曳子達が出す掛け声も荒々しい。また、時折、相当のスピードで曳山が走ることもある。戻り曳山では、曳子が体のどこにもあざを作らずに済ますことは不可能と言われる。各曳山には10人程度の警護役が付いているが、それでも、曳子だけでなく見物客も、怪我や事故のないように自ら十分な注意を払わなければならない。死亡事故は非常に珍しいものの、1988年(昭和63年)、祭り見物をしていた地元の中学生が、曳山と電柱の間にはさまれて死亡している。時々曳山を止めて、曳き子らが自ら「土崎盆踊り」(後述)を踊る。なお、20日・21日の両日は秋田市土崎地区で交通規制が敷かれているが、深夜12時には規制が解除されるので、その時刻までには曳山を通りから退去させなければならない。しかしながら、交通規制区域を抜けると各町内によって進路や距離の違いもあり、最終的に町内に曳山が到着するのは明け方という町内もある。なお、戻り曳山において交通規制区域外を運行する曳山には警察官(パトカー)が同行する場合がある。祭りが終わった翌日の22日、曳山は早々に解体される。曳山を作り、曳き、解体するという一連の流れが曳山であり、解体は大切な作業とされている。各町内での神事としては、会所開きに始まって曳山に飾られた札と会所の祭壇に置かれた御幣と御札を委員長や役員の自宅に納める札納めで一連の神事を終える。7月終わりから8月初めに行われる「笠納め」(かさおさめ)と呼ばれる祭りの反省会(打ち上げ)を締めとする町内も多い。台車はケヤキ等の材料で枠組みされ、外枠の横に町名が掘り込まれていて、化粧板、または前後に雲状の模様が施されていることから「雲板」と呼ばれている。木製の車軸に組木された木製の車輪。回転を補助するために軽油にサラダ油やひまし油、天ぷら油等を混ぜたものを注ぐ。その結果、独特の軋む音と匂いを発する。これも曳山の特徴の一つである。曳山は武者人形の乗る合戦場面の人形側と岩の後ろに組んだやぐら側のどちらにも曳く為の綱を出せるようにしてあるが、神明社に参拝に向かうときには人形側を前にするという決まりがあり、神明社に向かう方を優先するという決め事から人形側を前方としている。台車の中央部後ろよりに黒木綿で木組みを覆った男岩と女岩を配し、その中央からは滝を流す。そのために場面の前方には波しぶきを配することが多い。人形が乗るステージを「ザル」と呼び、そこには人形や飾り付けのほかに下記の縦長の札が取り付けられる。また、町内によっては合戦の場面を解説する文章が書かれた、縦長ではない解説札を乗せるところもある。人形は勇壮な武者人形で通常曳山1台につき2 - 3体が設置され、港衆の魂の表れとして合戦の場面や歴史的な場面を表現する。裸人形(半裸あるいは上半身裸の武者人形)、鎧を着た武者人形(騎乗の場合あり)が多く、また、化け物(大蛇など)や獣(虎など)の人形も用いられる場合がある。その中でも、裸人形は人形師のメンテナンスが大変なため、高級とされる。古くは組み立てには全て縄を使用していたので、かけ師と呼ばれる組み立て専門職人もいたが、昨今の事情で釘やネジ、番線、結束具も使用するようになり自町内で組立てるようになった。ザルの周りには山ツゲを配し、ツゲを刺す部分と岩の中には柳を使用し、ゴツゴツ感を出す。そのツゲと柳も独特の匂いを発する。岩の中央には杉の枝、両側には松の枝という配置をすることが多い。曳山の後部(つまり岩の裏)には箱型のやぐら(お囃子所)が組まれ、そこに太鼓が設置される。やぐらを囲むように赤を基調とした角灯篭が設置され、そのワクの中に囃子の奏者達が乗る。やぐらの上には、時事を風刺する七五調の文が書かれた見返し札が乗り、隣に風刺人形として、おとぼけ人形を乗せる。なお、祭りに先立って、見返しの文を競う「見返しコンクール」が行われ、最優秀1町内、優秀2町内には、受賞したことを表す札が与えられる。その札をもらった町内は、見返し札の横に設置する。曳山の高さは、現在では電線やケーブルに掛からないよう、4.7m以内という規定を設けているが、通常は岩の高さ5mを基準に組み立てられ、町内によって通過する場所が違うのでできるだけ高くするために岩組みの頂上を可動式にしてる町内もある。巾も岩組みの最大巾で3m以内から4m近いところもあるが、細い小路を通るかどうかで町内によって大きさは様々である。楽器の構成は、以下の通りである。奏者は各1名である(「寄せ太鼓」演奏時のみ太鼓は2名)。このうち、小鼓と三味線の奏者・伝承者は少ないため、大部分の曳山では太鼓・笛・摺鉦のみを演奏する。大概の奏者は太鼓・笛・摺鉦の3つを演奏でき、やぐらの中では奏者のローテーションが行われる。交替は囃子を止めずに行われ、それは太鼓も例外ではない。曳山行事で演奏される囃子は「港ばやし」と呼ばれ、その曲目は、次の5曲である。笛が奏でる旋律は嬰ヘ短調である。ここで、表記として、であることに注意されたい。港ばやしは、「花輪ばやし」、角館のお祭りの「飾山囃子(おやまばやし)」とともに「秋田県三大囃子」の一つとして数えられる。佐竹氏が秋田に移る前に治めていた茨城県常陸太田市の「天神囃子」には、寄せ太鼓と似ている部分があるため、佐竹氏とともに秋田へ移り住んだ人達の芸能文化が秋田の芸能と結びついて、港ばやしが生まれたとの説がある。また、寄せ太鼓のリズム・笛の旋律は、同じ秋田市の祭りである竿燈祭りと同一であるが、竿燈の太鼓は大太鼓だけである。加相ばやしは、1889年、相染新田村(相染町)が土崎に加わった(つまり「加相」)したときに作られた囃子である。曲の前半が相染にあった囃子、後半が湊ばやしという構成になっている。湊剣ばやしと加相ばやしは一時廃れたが、1956年に復元・復活された。昔は「丹前ばやし」や「浴衣ばやし」という曲もあったが、明治後期か大正の頃から演奏されなくなった。港ばやしは、戦前は家元制度・世襲で受け継がれたが、戦後は港和会(1947年結成)・娯笑会(1955年結成)・しぶき会(1956年結成)・若波会(1974年結成)から構成される「土崎港ばやし保存会」(1980年結成)、および、旭鳳会によって伝承されている。西洋音楽と同様の五線譜での採譜も試みられている。音源としては、音楽CDとして1997年に発売され、2013年現在も販売されている(港和会演奏)。曳山は行程途中の各所で停まり、踊りが披露される。子供の輪踊りもある。これらの踊りのことを演芸と称する。曲目は、民謡、演歌、流行りの歌等々であり、テープやCDを用いる場合が多い。中でも「秋田音頭」は、全町内で採用されているスタンダードナンバーである。テープやCDを用いずに囃子方と歌い手で生演奏する町内もある。振り付けは全町内とも似ているが、町内ごとに工夫している部分もある。その発祥は、一説には、若い武士が柔術の型を踊りにしたものに、さらに上方の旅役者が歌舞伎の六方の表現を加えたものとされる。亀ちゃ(仁井田亀松、1856年 - 1916年)が名人として知られ、その弟でやはり名人の福ちゃ(仁井田福松)が1915年(大正4年)から土崎港に広めたとされる。古くは「男踊り」と呼ばれ、女性が男性の服装をして踊ることが多かったという。 戻り曳山のときは、簡単な振り付けの土崎盆踊りが踊られ、酒が入った曳き子が自ら参加することが多い。どの町内でも囃子方が生演奏する。その太鼓は、「どんどこどっけ、どんどこどっけ、どんどこどっけ、どん」というノリの良いリズムである。4拍子の楽譜に書けば、たった3小節単位のリズムを何度も繰り返すシンプルなパターンであり、踊りも同じ繰り返しである(笛の旋律は3小節の繰り返しではなく、いくつかバリエーションがある)。土崎の歴史は、土崎港の歴史を参照。1602年(慶長7年)、佐竹氏が湊城入部。その2年後、久保田城に移転。この際、武士官僚・寺社、住民等も土崎から久保田城下へ移転し、土崎の人口はいったん減少し、経済活動をする町人が残る。川口家の氏神の神明堂を湊城跡地に土崎神明社として1620年(元和6年)に建造した。1625年(寛永2年)、湊に下ってくる船乗り達が神輿を寄進し、この年の祭礼で神輿神幸。1704年(宝永元年)、往来の船乗りが神輿を寄進。1705年(宝永2年)、大祭典と神輿神幸をもって旧暦の毎年6月20日・21日を例祭とする。これが祭りの始まりと考えられている。1789年(寛政元年)に久保田藩の江戸藩邸御用商人であった津村淙庵が執筆したとされる『雪のふる道』には、40もの山車が曳かれている様子が書かれている(曳山行事の最古の記録)。1856年(安政3年)の記録では、曳山・置山(おきやま)・擔山(かつぎやま)・子供擔山などがあり、饅頭・菓子等がふるまわれたとある。明治期に入る前後には町内ごとに曳山の高さを競うようになり、7 - 8丈、あるいは13 -14丈の曳山が登場した。曳山が倒れないように、横の小路から綱を張って支えた。この頃、曳き子は1町内に200名以上もいた。1878年(明治11年)のイギリス人イザベラ・バードによる記録には「50フィート近く」とある。しかし、電気の普及に伴い、電線が電柱同士を伝うように張られてからは、曳山の高さは下げざるを得なくなった。現在は、先述のとおり通常5m程度の高さに組み立てられている。明治時代に入り、例祭日は新暦の7月20日・21日となる。1878年(明治11年)、イギリス人、イザベラ・バードが偶然旅行中に曳山を見て、現在とは違う姿を外国人の目を通して描写している。1881年(明治14年)、土崎神明社が県社に昇格。1889年(明治22年)、隣村の相染新田村(現在の相染町)が合併。昭和初期の戻り曳山の様子について、杉田瑞子の芥川賞候補作品『北の港』に「酒で千鳥足になり、足許も覚束ない若衆たちが山車をぶつけ合って」とある(現在は曳山ぶつけは行われていない)。1946年(昭和21年)、この年から号車札が固定され、戻り曳山の追い越しが禁止される(喧嘩発生防止のため)。1947年(昭和22年)、のちに「土崎港ばやし保存会」を構成する保存会の一つとして初の「港和会」が結成される(港ばやし伝承の家元・世襲制からの移行)。1960年(昭和35年)、従来徒歩であった御神輿巡幸(宮司は乗馬)が、年番町をくまなく渡御するためトラック(随行者は乗用車)に変更。1972年(昭和47年)、この年から毎年、土崎経済同友会が「みなと祭りのしおり」(土崎地区全世帯配布の祭りガイド冊子、のちに「港曳山祭りのしおり」に改名)を発行。1975年(昭和50年)、昭和50年を記念し、戦後最多の20台の曳山が奉納される(平成期に、さらに最多台数が更新される)。1980年(昭和55年)、4つの保存会により「土崎港ばやし保存会」が結成される。1991年(平成3年)、「暴対法」が成立。以降、従来200 - 300もあった露店が大きく減らされる。1993年(平成5年)、秋田市の無形民俗文化財に指定される。1994年(平成6年)、秋田県の無形民俗文化財に指定される。1997年(平成9年)12月15日、日本の重要無形民俗文化財に指定される。2006年(平成18年)、この年から、1日目(7月20日)に曳山を境内に入れての参拝である「郷社参り」が始まる(土崎駅前開発の道路拡張工事に伴い、土崎神明社の祭館と拝殿が改築。その際、鳥居がかさ上げされたため)。2010年(平成22年)9月12日、全国山・鉾・屋台保存連合会総会(通称「曳山サミット」)土崎大会が開催され、10台の曳山奉納。その中、電線の撤去工事が完了した土崎神明社・土崎駅付近の道路で、高さ15mの「復元曳山」が披露される。2013年(平成25年)、土崎神明社鎮座四百年記念。戦後最多タイとなる25台の曳山が奉納されることに加え、高さ10mの「復元曳山」が披露される。また、50年ぶりに神輿の徒歩巡行が行われる。土崎の曳山行事は、日本の多くの祭礼行事と同様、長らく女人禁制であった。明治時代に太政官布告により「女人禁制の禁止」が布告されたにもかかわらず、女性の参加が珍しくなくなったのは、それから100年程度経ってからである。日本の古代の神祗信仰では女性禁忌はなく、むしろ巫女など女性は高い位置に置かれていたが、仏教観に起因して方向転換したといわれる。曳山のように移動せず、鑑賞用に設置されるだけの山車があり、そのうち大型のものを置山(おきやま)、小型のものを飾山(かざりやま)と呼ぶ。毎年飾られるわけではない。置山の高さや幅は曳山よりもかなり大きく、武者人形の数も多い。なお、イオン土崎港店(土崎ショッピングセンター)では、毎年祭りの時季になると幅10m程度の飾山を店舗入り口に設置してスピーカーから囃子の音を流し、お祭りムードを盛り上げるのに一役買っている。曳山については町内行事であり、各町内に一任されているため特に役職についての決まりはないが、統括を計るため委員長、副委員長、警護長、会計長は前もって統前町で結成する総括に名前を登録することが決められている。役職の数、仕事内容については町内ごとに違う。スタッフは、その役割名が書かれたたすきを浴衣や半纏の上にかけている。また、町内によっては「氏子総代」、「参与」など他の役職もある。祭りのメインストリートは本町通り(ほんちょうどおり = 国道7号線より1本東にある、南北に延びる道)である。JR土崎駅(秋田駅の北隣の駅)で下車。土崎駅出口(西側のみ)から正面方向(西)に直進、徒歩3分で左手に土崎神明社(= 土崎地区の中心に位置)。さらに徒歩3分の直進をすれば本町通りの土崎駅入口交差点。そこから左(南)に少し歩くと、露店が多く、最もにぎやかな地点。祭り当日は交通規制があり、周辺の道路も渋滞するため、車で本町通り近辺に直接アクセスすることは困難。遠方から車で向かう場合は、遠巻きにホテルなどに駐車して、そこから徒歩・電車・バスなど。ポートタワーセリオン(タワー、道の駅あきた港)付近から徒歩で国道7号線を渡って本町通りに向かっても、10分程度である。
なお、「土崎港曳山まつり総合本部」「土崎港曳山まつり実行委員会」「秋田臨港警察署」および統前町の連名で毎年配布される交通規制図では、「セリオン」の駐車場が案内されている。(いずれも、土崎港の出身。出身町名は、寄稿文において本文内またはプロフィールに書かれたもののみ記載。)上記のほか、号車番が与えられない企画用の曳山として、1992年に「元町商店会」によって2台の曳山が、1993年には「ふれあいみなとカーニバル実行委員会」によって‘昔の曳山’が出されている。また、2013年には土崎神明社鎮座四百年を記念して‘復元曳山’が披露されている。各町内名(旧町名)の読みと由来については、記事「土崎港」の「旧町名」の項を参照。ただし、港北町(こうほくちょう)、鉄道社宅、南幕洗川(みなみまくあらいかわ)、若松町(わかまつちょう)の4町内は、1970年代以降に新しく土崎神明社奉賛会に加盟し曳山を奉納するようになった町内である。新参加の経緯の一例としては、南幕洗川のサイトが参考になる。なお、「幕洗川」という地名は、1968年(昭和43年)の住居表示実施前は「秋田市土崎港寺内字幕洗川」と「秋田市寺内字幕洗川」の2町名があり、前者は幕洗川一区・二区・三区として従来から祭りに参加していたが、後者(寺内幕洗川)のうち寺内幕洗川二区が南幕洗川となり新たに参加にいたったものである。「将軍野(しょうぐんの)」という地名も、住居表示施行前は「秋田市土崎港寺内字将軍野」と「秋田市寺内字将軍野」の2つの大字にまたがっており、前者は旧町名(= 祭りの町内名)将軍野一区から将軍野五区までの5町内として従来から土崎神明社の氏子であり祭りにも参加している。これらは全て現在の住居表示でも町名「土崎港」(土崎港東や土崎港北の一部)の中に入る。一方で、現在の住所表示名である「将軍野」は、「土崎港」の東に隣接する別の地区であるが、そのほとんどは旧「秋田市寺内字将軍野」であり、これらは祭りには参加していない。専ら子供に曳かせるための曳山を子供曳山(こどもやま)という。号車番は付与されず、御幸曳山や戻り曳山にも参加しない。戦後、通常の曳山奉納の実績がない御蔵町も、子供曳山は出したことがある。

出典:wikipedia

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