葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。石清水八幡宮の南祭に対し北祭ともいう。平安時代、「祭」といえば賀茂祭のことをさした。石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。京都市の観光資源としては、京都三大祭りの一つ。平安時代以来、国家的な行事として行われてきた歴史があり、日本の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されている。葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名。斎王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代である。源氏物語中、光源氏が勅使を勤める場面が印象的である。大気の不安定な時期に行われ、にわか雨に濡れることが多い。1995年(平成7年)は雨天で中止になった(第二次世界大戦後初)。葵祭は賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の例祭で、古くは賀茂祭、または北の祭りとも称し、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさしていた。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになって、この名があるとされる。もともと古代より、賀茂神社の神紋として使っていた二葉葵(別名、賀茂葵)が更なる由来である。著名な徳川家の三つ葉葵の原型とも言われ、徳川家康の先祖である松平信光が賀茂朝臣を称していた事や、松平氏の出身地が三河賀茂郡松平郷でもある事から、『「三つ葉葵」も葵祭で有名な京都の賀茂神社との関連の深い』と述べる研究者も居る。実際に徳川家も葵祭を重視しており、徳川家茂は孝明天皇につき従って共に1863年に葵祭に参列している。。祭の起源と沿革は、欽明天皇の567年、国内は風雨がはげしく五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命をおおせつかって、4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になった。源氏物語にも、葵祭の斎王列を見物しようと、光源氏の妻、葵の上と六条御息所が、車争いを演じた場面が登場する。それから10年以上経ち、光源氏と紫の上が桟敷席から祭り見物する場面がある。ちなみに、紫の上は幼い頃。光源氏が勅使の役目を終えて休暇を迎えた際に、牛車の中で祭りを一緒に見物していた。さまざまな前儀(5月3日流鏑馬神事・5月12日御蔭祭・御阿礼神事)が行われるが、中でも流鏑馬神事(やぶさめしんじ)が有名である。糺の森(ただすのもり)の真中にある全長500メートルの馬場(ばば)を、公家風の装束姿や武家風の狩装束姿の射手(いて)たちが疾走する馬上から、3つの的を射抜くというものである。「矢伏射馬(やぶさめ)」とも書かれる流鏑馬は、その文字が示すように矢を射ること。馬を走らせながら正確に的を射抜く高度な技術が必要とされるため、人気の行事の一つである。雄略天皇の即位の年(457年)、「騁射(うまゆみ)」を行ったと『日本書紀』が伝え、「賀茂祭に民衆を集めて騎射を禁ず」の記事が『続日本紀』にしるされるなど、古い歴史を持つ日本古来の馬術とされる。射手のかけ声「イン、ヨー」とは「陰陽」のこと。みごと矢が的中すれば五穀は稔り、諸願は成就すると言い伝えられている。文亀2年(1502年)に中絶したが、昭和48年(1973年)、下鴨神社式年遷宮の記念行事として復活。「糺の森流鏑馬神事保存会」によって公家装束による流鏑馬が保存・伝承されている。また、上賀茂神社では競馬会神事(くらべうまえじんじ)などが執り行われる。葵祭は、宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀の3つから成るが、うち宮中の儀は現在では行われていない。5月15日、近衛使・検非違使と・山城使・馬寮使・内蔵使による本列と、斎王代(後述)をはじめとする女人列による路頭の儀(ろとうのぎ)では、平安時代の衣装を身にまとった人々が牛車とともに京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで約8kmの道のりを行列する。下鴨神社と上賀茂神社においては、実際の勅使である掌典職の掌典が祭文を奏上する社頭の儀(しゃとうのぎ)がとり行われる。と管轄がことなる。「斎王」(さいおう)とは、賀茂神社に御杖代として仕えるために皇室から差し出された内親王・女王のこと。1956年(昭和31年)に斎王にちなみ、斎王代と女人列が創設された。京都ゆかりの一般女性から選ばれるので「斎王代」(さいおうだい)となる。初代斎王代は占師の「易学あや」。唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用、白塗りの化粧をし、お歯黒も付ける。毎年5月4日には斎王代禊(みそぎ)の儀が行われる。斎王代と女人たちが御手洗池(みたらしいけ)に手を浸し清める儀式で、下鴨神社と上賀茂神社両社で隔年交替で行われる。なお斎王代は「一般公募」あるいはオーディション等で選ばれていない。数千万円と言われる費用を負担できることが条件となっているため、京都ゆかりの寺社・文化人・実業家などの令嬢(主に20代)が推薦等で選ばれている。莫大な負担ができる家の令嬢に事実上限られるため一部の資産家に役割が集中し、母も斎王代であったという例は数多く、姉妹揃って斎王代とか、祖母・母・本人と三代続けて斎王代であるという例もある。1995年(平成7年)は雨天で中止になったため、翌年も同じ女性が選ばれた。2002年(平成14年)には東京在住の女子大学生が選ばれた。京都府外在住者では史上初となる(ただし京都市出身)。さらに、2009年(平成21年)には、三笠宮崇仁親王の外孫(=大正天皇曾孫)にあたる女子大学生が選ばれた。斎王代を中心としてその周囲に、蔵人所陪従、命婦、女嬬、童女、騎女、内侍 、女別当、采女らの華やかで可憐な行列が続く。全員が化粧を施すものの、斎王代以外はお歯黒を付けない。
出典:wikipedia
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