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小田急1600形電車

小田急1600形電車(おだきゅう1600がたでんしゃ)は、かつて東京急行電鉄(大東急)・小田急電鉄が保有していた通勤車両である。主制御器のメーカー型番から趣味者の間と会社の内部でABF車と呼称されていた。本形式およびそのグループに属する車両は以下の通り。クハ1651 - クハ1653は当初はクハ601形として計画され、小田急電鉄が東京急行電鉄へ合併され、車両番号が大幅に変更された時期に製造された。このため、クハ1651・クハ1653は旧番号のクハ601・クハ603として出場し、クハ1652はクハ602として工場入りしたが新番号のクハ1652で出場した。デハ1600形は全て完全新造車であるのに対し、クハ1650形は前半のクハ1651 - クハ1655が改造車となっており、特に木造客車から台枠を流用したクハ1651 - クハ1653は他と車体形状も大きく異なっていた。クハ601形として計画された車両で、鉄道省より払い下げを受けた、明治時代に製造された木造客車の台枠を流用したため、種車となった木造客車に由来する寸法・構造の相違が一部に存在した。車体長16,150mmの半鋼製車体を備え、妻面は中央に貫通扉を設けた3枚窓構成で、丸みを帯びていた。側面は車体裾が切り上げられており台枠が露出していたほか、クハ1652には床下に木造車時代のトラス棒が残されていた。小田原側と新宿側の双方に半室(片隅式)運転台を設けた両運転台車であるが、乗務員扉は当初より車体の左右両側面に設置されていた。側面窓は小田急では初の下段上昇式の2段窓となり、窓の上下にそれぞれウィンドウ・ヘッダーとウィンドウ・シルと呼ばれる補強用の帯材を露出した構造となっており、窓配置はdD (1) 4 (1) D5 (1) Dd(d:乗務員扉、D:客用扉、数字:窓数、(数字):戸袋窓数)と両端の客用扉を乗務員扉に隣接させたレイアウトの3扉車である。座席は全てロングシートである。俗に「関東型」と呼ばれる、側面窓配置をd1D (1) 2 (1) D3 (1) D1dとして窓の天地寸法を大きくとった軽快なデザインの半鋼製車体を備える。時期的には電気溶接の発達で全溶接構造も可能となっていたが、ウィンドウ・シルやウィンドウ・ヘッダーなどを中心に一部にリベット接合が採用されており、鋲頭が露出していた。このスタイルは帝都電鉄モハ100・200形や近隣では東京横浜電鉄モハ500・510・1000形、南武鉄道、鶴見臨港鉄道などにみられた戦前関東私鉄の標準スタイルであった。だが、その一方で本形式はデハ1400形までの仕様を引き継いで前面を貫通型とされ、全長が比較的短く、屋根が薄くRの大きいものとされたため、コンパクトで均整のとれたスタイルとなった。また、小田急の車両としては初の種別表示幕が、運転席側前面窓の内側に設けられた。当初は両運転台であったが、後に新宿側の運転台を残して片運転台化された。戦前のデハ1600形の設計を踏襲し、小田原寄りにのみ乗務員室を設置した片運転台車となった。また、車体長が17m級に延長され、前面の幕板上部が弓形となり、さらに全溶接構造となるなど、基本となったデハ1600形とは一部で構造・寸法・形状が相違する。いずれも窓配置はd1D (1) 2 (1) D3 (1) D2である。1952年日本車輌製造製のクハ1654とクハ1655は半室運転台(残りはパイプで仕切)、狭幅貫通路、1953年東急車輛製造製のクハ1656以降は全室運転台、広幅貫通路である。1400形までの三菱電機製HL単位スイッチ式手動加速制御器から、同じく三菱電機製のABF単位スイッチ式自動加速制御器に変更された。これは主幹制御器を1 - 4ノッチのいずれかにすることにより、設定された限流値に応じてノッチに応じた段数まで電磁弁による単位式スイッチにより自動的に進段するもので、断流器、主制御器、界磁接触器の3箱から構成される。主電動機は1400形までのHL車から引き続き三菱電機MB-146-CFを使用している。駆動装置は歯数比56:27=1:2.07の吊り掛け式で、主電動機と同様、これも以後のABF車の標準仕様となった。デハ1600形は1400形の住友鋳鋼場KS-31Lの基礎ブレーキ装置(ブレーキワーク)を直列の両抱き式から複列の両抱き式へ改良したイコライザー式鋳鋼製台車の住友金属工業KS-33Lを装着した。クハ1650形のうち戦前製の3両については、種車の台車が揺れ枕部など高速運転に耐えられるような構造ではなかったため、他の車両から流用したKS-30LおよびKS-31Lを装着した。これに対し、戦後製のクハ1650形は国鉄より払い下げを受けたTR11が全車に装着された。開業当初の小田急は、初期投資の過大や昭和初期の不況の影響もあり、輸送需要が低調であったため経営は苦しい状態で、従業員の昇給がなく株式配当も無配の状態が6年続く有様であった。そんな小田急であったが、1938年頃から輸送需要の増加に伴い、車両不足を感じるようになった。沿線に軍の施設が設けられたこともあり、輸送需要は上向きとなったことから、鉄道省から電車の払い下げを受けたり、クロスシート車両のロングシート化改造などを行なって輸送力の増強に対処していたが、車両不足は解消しなかった。しかも、車両を増備しようにも、戦時統制経済の下で車両新造が厳しく規制され、中古車両の確保も車両統制会の管轄下で割当制となっていたため容易には必要な車両数が確保できない状況となりつつあった。このため、まず鉄道省払い下げの木造客車の台枠を流用して、クハ601形が製造されることになった。まず、1899年福岡鉄工所製の阪鶴鉄道13号客車に由来するホハニ4204を改造したクハ1653(クハ603)が1941年12月に入線したが、この車両は東京工業所が作業員を派遣の上、相武台工場の一角で製造されたものと考えられている。続いて、1902年に鉄道作業局新橋工場で製造された二三等車ホボ2だったホハユ3158を大阪府堺市の帝國車輛工業で改造したクハ1651(クハ601)が1942年4月に入線した。もっとも、これらの種車が装着していた台車はいずれも明治期の古典的な構造のものであり、高速電気鉄道で通勤輸送に使用するには不適であった。このため、これらの2両はクハ564・565がモニ1・2の台車と主電動機を使って電装された際に捻出されたKS-31Lを使用した。これに対し、クハ1652(クハ602)は車体は製造できたものの装着すべき適切な台車がなかったために入線が遅れ、1944年2月27日に経堂工場で火災が発生しデハ1158が全焼したことから、このデハ1158が装着していたKS-30Lを使用することとなり、1944年4月にようやく使用開始となった。東急合併後の入線であったため、当初より合併後の車両番号であるクハ1652として登場したことになっているが、実際にはクハ602と付番された状態でメーカーから納入され、経堂工場でクハ1652に書き直された。なお、クハ1652(クハ602)の種車となった車両については諸説ある。帳簿によるとクハ1651がホハユ3158、クハ1652がホハユ3152、クハ1653がホハニ4204である。しかし、竣工図ではクハ602はホハニ4038が旧番号ということになっている。生方良雄が車両課にある書類を調査したところ、ホハユ3152やホハニ4152と記載されているものがあったという。また、国鉄側の資料ではホハユ3152は廃車年月日が1949年3月22日と戦後の日付になっており、1941年に小田急に譲渡という記録と矛盾するほか、ホハニ4038に至っては、1928年の「昭和3年版車両形式図客車」にそのような車両は存在しなかった。吉川文夫は種車の台車中心間距離(16,813mm)に着目し、クハ1652の種車をホハニ4152と推定している。このホハニ4152は1902年に関西鉄道四日市工場で製造された関西鉄道78号客車で、当初より郵便手荷物車として新造された、オープンデッキ構造かつモニター屋根を備える16m級2軸ボギー車であった。いずれにせよ、製造後39年から42年という老朽車であるが、これらが製造された1940年代初頭の段階では、戦時統制経済の下で新造による車両の増備が難しくなっており、これらのようにほとんど流用できる部品もないような老朽車を「改造」したとすることで、厳しく締め付ける統制当局の監視をすり抜けて実質的な車両増備を行う私鉄が後を絶たない状況にあった。これらの3両は、竣工当初は在来のHL車(HL制御方式の車両)用制御車として使用されたが、後にデハ1600形の制御車として使用されることになり、主幹制御器をABF用のものに変更された。クハ1650形3両の製造が進む中、小田急は沿線に軍事施設があったことが幸いし、10両の電動車の製造割り当てを獲得することに成功する。これらは当初、モハ1000形1001 - 1010として設計認可申請が提出され、従来車と同様に川崎車輛で製造されることとなり、同社に発注された。だが、これらは日米開戦などの影響による物資不足で完成が大きく遅れ、小田急の大東急への統合後の1942年10月以降に順次来着し、デハ1600形1601 - 1610として竣工した。3扉で窓が大きい軽快なスタイルの車両は、当時の鉄道ファンからは喜ばれたという。デハ1601は1945年4月20日に喜多見駅構内で発生した追突事故により前面を大破した。その後、1946年5月29日に経堂工場の火災により全焼したデハ1356(旧モハ206)の復旧工事の際に機器を流用することになったため、しばらく休車となった。1947年からは方向転換して片運転台の制御車代用として使用され、後に機器を復旧して電動車に戻されている。1945年5月25日深夜の空襲により、井の頭線の永福町車庫に留置されていた29両中23両が焼失するという壊滅的な被害を受けたことを受け、応援として同年7月から11月にかけて、クハ1651などの車両が代田連絡線を経由して井の頭線に貸し出された。1945年頃にクハ1315の主幹制御器をABF制御器対応に変更し、後の南武線貸出や特急運転にもデハ1600形に連結して使用された。戦後の復興期に1800形とともに窓ガラスやシート地などできる限りの整備を施し、「復興整備車」の看板を掲げて使用された。1947年5月には南武線の限界拡大までの輸送力増強用として国鉄のモハ50、クハ65と引替にデハ1602・1604・1607・1608、クハ1615・1315が南武線に貸し出され、6月にはデハ1602・1604と1603・1605が交代したが7月には元に戻り、その後1947年10月までに全車復帰している。1948年10月から「週末温泉特急」の運転を再開することになり、1800形とともに特急車の候補形式に選ばれ、1948年8月24日に1607 - 1601(クハ代用)で新宿 - 小田原間100分での試運転を行った。この結果を受け、1948年10月16日から、1601(クハ代用) - 1602、1604 - 1315、1607 - 1651などがノンストップ特急として使用された。この際には中央の扉を閉鎖して補助シートを置き、シートには白のカバーを装着し、車内に灰皿を設置し、前後にヘッドマークをつけて運用した。1949年に1910形が竣工するまでこの運用は続いた。1950年頃からは固定編成的に使用されるようになり、1601 - 1651 - 1602、1603 - 1652 - 1604、1605 - 1653 - 1605、1607 - 1661 - 1608、1609 - 1610のように組成されて使用された。1951年には戦災復旧車のクハ1661が製造され、1952年まで主に1607 - 1661 - 1608の編成で使用された。1951年には、1700形の新造に伴い、デハ1607 - 1610の主電動機と台車をデハ1700形に流用し、代わりに主電動機を国鉄払い下げのMT7・9・10、台車も同様に国鉄払い下げのTR25に交換、歯数比も2.26とされた。1953年から1954年にかけて、デハ1700形の主電動機・台車が新品に交換されたのに伴い、元に戻されている。1952年以降はMc - Tc編成として使用するため、まず1952年11月には制御車としてクハ1650形が2両増備された。この車両は木造省電サハ19022・19023の戦災復旧名義でクハ1654・1655として製造されたが、使用されたのはTR11台車のみで、車体はデハ1600形とほぼ同一の仕様で新造された。全長は17mとデハ1600形よりも長かった。1953年4月にはさらに制御車が5両増備されたが、こちらは台車こそ払い下げのTR11であったものの、車籍上は完全な新造車である。この際にMc - Tc同番号で固定編成化され、すでに方向転換されていたデハ1601を除く電動車が方向転換された。同時に、制御車と連結する側の運転台を廃止して片運転台車両とし、運転台を撤去した跡には幅の狭い窓を設け、座席をその分延長した。また、デハ1600形に装備されていた種別表示幕は撤去された。その後、1954年にはデハ1606 - 1610がクハにあわせて広幅貫通路に改造されている。1958年より東急車輛製造で更新改造が開始され、正面窓のHゴム支持化、側面窓のアルミサッシ化、客用扉のプレスドア化、尾灯の窓上設置、室内デコラ張り化、室内灯の蛍光灯化、肘掛けのパイプ化、電動発電機 (MG) ・空気圧縮機 (CP) をクハに移設、狭幅貫通路の車両は広幅貫通路化、半室運転台の車両は全室運転台化などがなされた。また、奇数の編成がデハを新宿向きに、偶数の編成が小田原向きになるように向きが揃えられ、1601 - 1651と1602 - 1652が番号の振り替えを行っている。この更新時に、クハ1651 - 1653は車体を東急車輛製造で新造し、他のクハ1650形と同様の形態となり、余剰となった旧車体は上田丸子電鉄へ売却された(後述)。この後しばらくは1600形のみで4両編成を組成する運用が主体であったが、その後1900形の4両固定化に伴い、6両編成の増結用車両として使用されることが多くなった。1959年にクハ1651(旧クハ1652)は、中日本重工製短腕式軸梁式台車であるMD5の枕バネ部を改造した、試作空気バネ台車のMD5Aを試用した。また、1963年からは外部塗色を黄色と青の2色塗りに変更することになり、デハ1602 - クハ1652の編成から塗装変更が開始された。1968年から1970年にかけて廃車され、主電動機と一部機器は4000形に流用された。クハ1658についてはこの時には廃車とはならず、振子式の試験車として住友金属工業FS080台車に交換され、電動発電機と空気溜めが追加された。塗装はロイヤルブルーの1色塗りとなり、1971年まで試験を実施した。その後は使用されないまま1976年に廃車となった。前述のように、主電動機などの電装品の一部を4000形製造時に転用したため、クハ1650形と更新前のクハ1650形の旧車体、それにデハ1600形の車体および台車が数社に譲渡されている。

出典:wikipedia

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