榴岡公園(つつじがおかこうえん)は、仙台市都心部の東側にある撓曲丘陵「宮城野撓曲」(みやぎのとうきょく)、すなわち、歌枕「躑躅岡」(つつじがおか)の南西部を占める都市公園。ツツジ(躑躅)の名所として古くから知られる歌枕「躑躅岡」に17世紀末、仙台藩主・伊達綱村が馬場などを開設してサクラ(桜)を植え、四民に開放した。すると当地は「桜の馬場」と称され、サクラの名所となった。1902年(明治35年)にこの「桜の馬場」は県立の「榴ヶ岡公園」として開園する。すると、1875年(明治8年)開園の桜ヶ岡公園が仙台市中心部の西にあることから「西公園」、当園が中心部の東にあることから「東公園」とも呼ばれたが、「西公園」と「榴ヶ岡公園」が各々定着した。西公園がソメイヨシノ(染井吉野)を主とするのに対して、榴岡公園はシダレザクラ(枝垂桜)を主としている。園内には、シダレザクラを中心に約370本の桜が植えられている。シダレザクラの内、元禄年間に伊達綱村により植えられた白色や薄紅の一重咲きのシダレサクラは「仙台枝垂桜」とも呼ばれる。また、八重咲きのヤエベニシダレ(八重紅枝垂)は仙台市長の遠藤庸治が普及に努めた品種で、子孫樹が平安神宮などにある。「伊達家の桜」とも言われ、園内に限らず仙台およびその周辺に多く見られる。なお、このヤエベニシダレを母とし、ソメイヨシノを父として、宮城県師範学校の坂庭清一郎が交配させて1900年(明治33年)に誕生したのがセンダイヨシノ(仙台吉野)で、原木が東北大学植物園にある。1997年(平成9年)より、宮城県柴田農林高等学校の講師・生徒らが、バイオテクノロジー技術を用いて増やし、1999年(平成11年)に校内や白石川公園に植樹した。仙台平野では長町-利府断層沿いに東山道(街道)が通るが、同道沿いでは律令制初期の陸奥国府と推定される郡山遺跡(仙台市太白区・長町副都心)が、奈良時代の724年(神亀元年)に多賀城(多賀城市)に移転した。また、740年代には同道沿い東側に陸奥国分寺および陸奥国分尼寺(以上、仙台市若林区)が創建されている。現・仙台市内の同道沿いには歌枕があり、同道東側の仙台平野が「宮城野」、同道西側にある撓曲丘陵の宮城野撓曲が「榴ヶ岡」である。平安時代末の1189年(文治5年)、源頼朝と奥州藤原氏・藤原泰衡が戦った奥州合戦において、泰衡は同道沿いの鞭楯(宮城野撓曲と推定される)に本陣を置いた。安土桃山時代末に伊達政宗が大崎地方・岩出山城から仙台平野に居城を移す際には、街道が通り、周囲が平地で城下町を造り易い宮城野撓曲に平城を建てる案と、周囲が断崖に囲まれる青葉山に平山城を造る案などがあったとされる(結局、1601年1月28日(慶長5年12月24日)より青葉山に仙台城が建設された)。1650年(慶安3年)、仙台七崎の1つ「玉手崎」の天神社境内に仙台東照宮が造営され、天神社はその境内社とされたが、仙台藩第3代藩主・伊達綱宗によって1667年(寛文7年)7月25日、宮城野撓曲で最も標高が高い同撓曲南西部に遷宮して榴岡天満宮とした。1695年(元禄8年)、仙台藩第4代藩主・伊達綱村が榴岡天満宮の北東の宮城野撓曲上、現在は宮城県公文書館が建っている場所に躑躅岡釈迦堂(つつじがおか しゃかどう)を建立した。このとき、同堂の南側隣接地の宮城野撓曲上(榴岡天満宮の東側隣接地)に馬場・的場も設置し、シダレザクラ・マツ・カエデなど千本余を植栽した。また、「四民遊覧の地」として演劇などの興行も許可され、仙台の公園の発祥となった。当地は現・榴岡公園において住所が「榴ヶ岡」である区域(以下「榴岡公園(榴ヶ岡)」)にあたり、現在も当園の花見の中心区域である。文化年間(1804年~1817年)の大火により桜が焼失している。明治時代に入ると、1875年(明治8年)に歩兵第4連隊が組織され、「榴岡公園(榴ヶ岡)」の東側隣接地の宮城野撓曲上、すなわち、現・榴岡公園において旧町名が二十人町通、現住所が五輪1丁目である区域(以下「榴岡公園(五輪)」)に設置された。二十人町通には他に、1896年(明治29年)の陸軍幼年学校条例に基いて仙台陸軍地方幼年学校(1924年に廃止。跡地には、1928年に商務省工芸指導所、1930年に仙台市宮城野高等小学校などが設置された)が設置されるなど、旧仙台城・二の丸(第2師団ほか)と並んで宮城野撓曲周辺には軍事施設が集積した。1924年(大正13年)には「榴岡公園(榴ヶ岡)」が名勝に指定され、記念として1928年(昭和3年)にサクラ100本が植えられた。戦後の占領期には、歩兵第4連隊跡地の「榴岡公園(五輪)」が進駐軍のキャンプ・ファウラー ("Camp Fowler") として使用された。1947年(昭和22年)施行の(旧)警察法によって国家地方警察・仙台警察管区(東北6県を管轄)が歩兵第4連隊跡地に仙台管区警察学校を設置。1954年(昭和29年)施行の警察法により同校は東北管区警察学校に改称した。1965年(昭和40年)には、二十人町通に住居表示が実施され、「榴岡公園(五輪)」は五輪一丁目の一部となった。1975年(昭和50年)3月に警察学校が旧多賀城海軍工廠(占領期は進駐軍「キャンプ・ローパー」)の跡地の一部である多賀城駐屯地隣接地(多賀城市)に移転した。すると、1977年(昭和52年)の仙台市の市制88周年を記念して、1976年(昭和51年)から同校跡地を当園に組み込んで一体的な公園整備が始められた。このとき、「榴岡公園(榴ヶ岡)」と「榴岡公園(五輪)」の境界を南北に走って両区域を分断していた道路が、市道榴岡公園西線として当園の西縁に移設された。 1989年(平成元年)7月28日に日本の都市公園100選に指定された。
出典:wikipedia
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