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鶴岡市立加茂水族館

鶴岡市立加茂水族館(つるおかしりつ かもすいぞくかん)は、山形県鶴岡市にある、同県唯一かつ市立の水族館である。同館は旧加茂町の中心部に近い、日本海に面した岬に建っている。愛称は「クラゲドリーム館」。クラゲの展示種類は50種類以上で、2008年(平成20年)にはクラゲの繁殖等を授賞理由に古賀賞を受賞し、2012年(平成24年)には種類数でギネス世界記録に認定された。庄内地方沖に生息する約140種類の魚などを展示し、アシカショーやウミネコの餌付けショーも行っている。下村脩が2008年(平成20年)ノーベル化学賞を受賞すると、その受賞理由となった緑色蛍光タンパク質(Green Fluorescent Protein; GFP)がオワンクラゲ由来であることも報道された。このことでオワンクラゲを飼育している同館が注目され、同館の入館者数が通常の1.5〜2倍にまで増加した。同館で飼育されているオワンクラゲは、自然界から採取した成体は発光するものの、人工繁殖で世代交代させると発光しなくなっていた。そのことを聞いた下村が2008年(平成20年)10月24日に直接同館に電話をし、「セレンテラジンを餌に混ぜれば、2週間で光る」とアドバイスをした。そして、下村の紹介で、三重大学大学院生物資源学研究科の教授・寺西克倫からセレンテラジンを譲り受け、発光実験に取り組んだ。2008年(平成20年)10月、アメリカ合衆国の音楽学校生の下川和己がピアノ曲「"Dance of the Aequorea"」(オワンクラゲのダンス)を作曲して下村に献曲したところ、2009年(平成21年)6月12日に当館のBGMとして推挙した。これを機に、当館に下村のパネルコーナーが設置され、同曲のBGM使用も開始された。2010年(平成22年)4月2日には下村が初めて来館し、一日名誉館長を務めた。その後2011年(平成23年)3月に同館では来館した際の写真やオワンクラゲを用いた切手シートを発行、30枚を下村に送った。翌4月にこのうちの15枚が加茂水族館に下村のサインが書かれて送られてきた。同年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で大きな被害を受けたマリンピア松島水族館にその一部とミズカサクラゲ、ハナガサクラゲが贈られた。2012年(平成24年)9月22日 - 28日に採取したクラゲ数頭が、北半球で初採取の軟クラゲ目ヤワラクラゲ科の「オリエンタス」(Meliceritissa orientalis)と判明し、2012年(平成24年)暮れに学会発表され、奥泉和也副館長が「ハッポウヤワラクラゲ」と命名した。和名の由来を副館長は「放射管が中央から8本伸びていることから、末広がりの「八」とかけて」と述べた。大きさは1cm程度。加茂港を抱える加茂村(当時)は江戸時代、庄内藩の鶴ヶ岡城下に最も近い北前船の寄港地として繁栄し、城下とを結ぶ加茂坂峠は鉄門海上人(即身仏)や、明治期になって鉄龍海上人(即身仏)あるいは三島通庸・山形県令によって道路の改修があり、現・鶴岡市中心部との間の交通利便性が図られ、加茂港には蒸気船も寄港して鶴岡の外港の地位を維持した。また、1889年(明治22年)の町村制施行に際しては周辺5村(湯野浜村含む)と合併して(新)加茂村が発足し、翌年には町制を施行した。しかし、大正期に鶴岡駅が開業して羽越本線が整備されると、外港としての地位を失った(漁港としての地位は維持)。さらに高舘山をはさんで町外れにある旧・湯野浜村の湯野浜温泉に1930年(昭和5年)、鶴岡駅から庄内電気鉄道・湯野浜線が開業するにあたり、鉄道が通らない加茂町中心部近くにおいて加茂港の山形県水産試験場の隣接地に「山形県水族館」が地元有志の水族館組合によって設立され、当館の端緒となった(初代館長は湯野浜温泉の旅館「亀や」社長)。戦時中に水族館は廃止されて県に譲渡され、男子青少年の修練施設の海洋道場となり、戦後も山形県水産学校(現・山形県立加茂水産高等学校)の仮校舎となっていたが、県から加茂町に建物が戻り、鶴岡市に編入合併された翌年の1956年(昭和31年)、10年以上の歳月を経て「鶴岡市立加茂水族館」として水族館が再開館した。高度経済成長期にあって東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)、特別豪雪地帯の当地にあって従前の冬季休館を余儀なくされていた状況を改善する目的で、通年営業が出来る建物での新館が、旧館から西側約500mの「荒崎」と呼ばれる岬に移転・開業。秋田県男鹿水族館(現・男鹿水族館GAO)および新潟市立新潟水族館(現・新潟市水族館 マリンピア日本海)といった大型水族館が国道7号沿道かつ羽越本線沿線でどちらも鶴岡市から約150kmの隣県に開館した1967年(昭和42年)、市の意向で、湯野浜温泉一帯の観光開発を目的とする第3セクターの株式会社庄内観光公社に売却され「庄内浜加茂水族館」となった。翌年度には入館者数が過去最高の「21万7372人」となった。しかし、庄内観光公社の湯野浜温泉地区にある他施設の経営失敗により、当館の利益は同施設の赤字穴埋めに使われ、当館は1971年(昭和46年)末を以って閉鎖、従業員も全員解雇された。自主的に残った元従業員4人が自らの住居を担保にしたり、生命保険を解約するなど金策をして水族館の生き物の餌代などを捻出しては世話をしていたが、その窮状が荘内日報で伝えられると市民からの寄付も受けるようになり、翌1972年(昭和47年)3月には経営問題が未解決のまま再開館した。同年6月には地元出身者が経営する佐藤商事(東京都)が負債1億4000万円を含めて経営を引き継いだ。それでも経営は上向かず、1976年(昭和51年)10月29日の酒田大火の日には強風と高波により当館は大きな被害を受け、さらに安定成長期に入ったため入館者数は長期低落傾向を示した。競合相手の新潟市立新潟水族館が1990年(平成2年)に移転オープンしさらに大型化して注目される中、打開策としてバブル景気期から計画し多額の資金を投じて1993年(平成6年)に実現した人気のラッコの飼育・展示でさえ低落傾向を止めることが出来ず、かえって負債を増やす結果になった。1997年度(平成9年度)には過去最低の入館者数9万2183人となったが、サンゴの水槽で偶然クラゲが発生すると、それを見逃さずに展示に結びつけるセレンディピティがあり、ここから反転攻勢が始まった。クラゲに特化した展示や商品開発をすることで10万人/年度の入館者数に戻し、2000年(平成12年)にはクラゲ展示種類数日本一となった。競合相手の秋田県立男鹿水族館が建て替えのため一時閉館した2002年(平成14年)、市が買い戻して35年振りに「鶴岡市立加茂水族館」に名称復帰した。2005年(平成17年)にクラゲ展示種類数世界一となり、2008年(平成20年)には日本動物園水族館協会より第22回「古賀賞」を受賞、さらに下村脩のノーベル化学賞受賞の際には当館が全国的に注目されて多くの入館者が訪れる幸運も得た。2009年度(平成22年度)には入館者数が1968年度の「21万7372人」を超えた。競合相手の秋田県立男鹿水族館や新潟市立新潟水族館は自治体からの補助を受けて運営されているが、当館は市からの補助金なしで運営し、黒字から1億2千万円を市に寄付した。半世紀使用した旧館から、東隣に新館を建設して、2014年(平成26年)6月1日に移転・開館した。開館は「山形デスティネーションキャンペーン」(2014年6月14日 - 9月13日)に間に合わせることができたが、旧館を解体して駐車場にする工事については東日本大震災(2011年3月11日発生)に伴う復興特需や消費税増税(2014年4月1日に5%から8%に税率変更)に伴う駆け込み需要により工期が延び、新館開館には間に合わなかった。新館は鉄筋コンクリート地上3階建てで、延べ床面積が約4,000m²と旧館の約2.5倍となり、クラネタリウムも4倍規模になった。総工費約30億円のうち約27億円が合併特例債であり、その1/3にあたる9億円分をミニ公募債(住民参加型市場公募地方債)で調達することとして、1回目の募集の3億円分を「加茂水族館クラゲドリーム債」として発行したところ、発売20分で完売するほどの盛況を見せた。また、新館開業からの1年間で入館者数は83万5796人を数え、クラゲ特化が始まった年のそれの9倍以上にのぼった。1968年(昭和43年)から館長を務め、経営危機の際にも身銭を切り、クラゲ特化の先導もした村上龍男が、2015年(平成27年)3月で退任。独自のクラゲ飼育技術を開発して当館を世界一に導いた奥泉和也副館長が後任として昇格した。このほか、「もう、しませんから。」ではオリジナル商品を漫画の中で取り上げられ、「ライトノベルの楽しい書き方」第7巻では当館でクイズ大会が行われ、主人公たちが参加するのが取り上げられた。

出典:wikipedia

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