LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

小野派一刀流

小野派一刀流(おのはいっとうりゅう)は、日本の剣術の流派。伊藤一刀斎には善鬼(姓不詳。小野姓とするのは俗説)と神子上典膳(みこがみ てんぜん)の二人の弟子がおり、一刀斎は二人に下総国の小金原(葛飾野)で真剣勝負をさせて「勝った者に一刀流を相伝する」とした。そして勝負に勝ち残った典膳に一刀流を継承させ、一刀斎の差料である瓶割刀を与えた(『一刀流口傳書』、『撃剣叢談』)。その後、神子上典膳は「小野忠明(小野次郎右衛門)」と名を改め、柳生新陰流の柳生宗矩と共に徳川将軍家剣術指南役として召し抱えられた。一刀流は忠明以後、忠明の弟(実子とも)である伊藤忠也の伊藤派一刀流(忠也派一刀流)と、忠明の三男の忠常の系統とに分かれ、それを区別するために小野家の系統を継いだ忠常の派が小野派一刀流と呼ばれるようになった。小野家の伝では忠明が小太刀五本、忠常が切落・二本目・寄身・開、忠於が合刃・張と3代に渡って形を加えることにより、発展していった。また、小野派一刀流には多くの弟子による様々な分派が存在する。中西派一刀流、北辰一刀流などが有名である。明治維新後、小野家第9代の小野業雄は小野家の知行地であった千葉県山辺郡松之郷村(現 千葉県東金市)に隠棲していたが、1884年(明治17年)、山岡鉄舟の招きで瓶割刀を携えて東京に出、伝来の組太刀を伝えた。山岡鉄舟の家系に小野家から嫁いだ者がおり、鉄舟は小野家の縁者であることから、小野家によって代々受け継がれた一刀流は鉄舟が継承することになり、1885年(明治18年)、小野業雄から、伝来の瓶割刀、朱引太刀、卍印、及び伝書が山岡鉄舟に相伝された。一刀流第11世となった鉄舟は自身の興していた無刀流に「一刀正伝」を冠し、一刀正伝無刀流と称した。現在、第16世(無刀流第7世)の井崎武廣まで受け継がれている。小野業雄は鉄舟に道統を継承させた後、京都府知事・北垣国道の招きで京都府警察部雇となり、巡査教習所や京都体育場で小野派一刀流の組太刀を教授した。現在、「小野派一刀流」という名称は、第5代の小野忠一から弘前藩主・津軽信寿に相伝された小野派一刀流、および中西派一刀流を大正時代に継承した笹森順造の系統により、商標登録されている。この系統では他に神夢想林崎流居合と直元流大長刀術を併伝している。現在は先代・笹森順造の息子でありキリスト教プロテスタントの牧師でもある笹森建美第17代宗家が前述の系統の一刀流を伝えている。笹森家はクリスチャンの家系であり、東京都世田谷区の道場「禮楽堂」は普段、日本基督教団の駒場エデン教会として活動している。1970年(昭和45年)、剣道範士八段長井長生は大阪市東住吉区に「長正館」道場を開き、笹森順造と小野十生から小野派一刀流を学んだ。1972年(昭和47年)、笹森順造から認可を受け、現在も禮樂堂大阪支部として小野派一刀流が稽古されている。剣道範士九段小川忠太郎ら警視庁の剣道師範は、笹森順造から小野派一刀流を学び、警視庁で教授した。現在も警視庁の武道専科生は剣道のみならず小野派一刀流を学んでいる。上記と同じ弘前藩の小野派一刀流で、小舘俊雄が伝えた系統が現在も青森県弘前市の道場「北辰堂」で伝承されている。笹森順造も北辰堂の出身である。会津藩系の小野派一刀流と名乗る系統もある。これは幕末の会津藩奥医師の息子であった渋谷東馬から武田惣角(後に大東流を名乗る)に伝わった系統を指しているものである。渋谷東馬の師の名前は未だ明らかになっていないが、竹刀稽古を重視していた為、小野派の中で竹刀稽古中心となった系統もしくは中西派であったと思われる。また、武田惣角自身は、己の剣術を小野派一刀流として教えず、独自の剣術と撃剣技術を主体に教えていたという伝承がある半面、「惣角伝」という伝承で剣術の組太刀を伝える系統もある。武田門下で剣術を体系的に学んだ者は極めて少ないとも言われており、大東流合気柔術の師範や修行者の中には、小野派一刀流が大東流の技術に大きな影響を与えた可能性を重視して、笹森門下に参じて津軽系小野派一刀流を学んでいる人物も存在する。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。