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カール12世 (スウェーデン王)

カール12世(, 1682年6月17日(グレゴリオ暦6月27日) - 1718年11月30日(グレゴリオ暦12月11日))は、プファルツ王朝のスウェーデン国王(在位:1697年 - 1718年)。バルト帝国に君臨し、ロシアのツァーリ・ピョートル1世の好敵手として知られる。1682年6月17日にスウェーデン王カール11世とデンマーク・ノルウェー王フレデリク3世の娘ウルリカ・エレオノーラの子として生まれた。国王夫妻には4人の男子がいたがカールのみが成長した。他にホルシュタイン=ゴットルプ家のフレデリク4世に嫁いだ姉ヘドヴィグ・ソフィアと、ヘッセン=カッセル方伯世子フリードリヒと結婚、後にスウェーデン王位を継承した妹ウルリカ・エレオノーラがいる。幼少期のカールはもっぱら母ウルリカ・エレオノーラから教育を受け、その人格形成に大きな影響を与えた。4歳になると優秀な教師陣がつけられて帝王学を教え込まれ、肉体鍛錬も欠かさず4歳前に乗馬を覚えている。射撃術にも熟達し、11歳の時に熊を一撃で射殺して父王を悦ばせている。1692年7月、10歳の時に母が死去、それから4年足らず後の1697年4月に父王も没し、14歳10ヶ月でスウェーデン王に即位した。若年であったため6人の摂政が配されたが、議会との内紛のために数カ月でカール12世に全権が委譲され親政を開始した。1700年に大北方戦争が開始されると、その若さに乗じようとした近隣諸国を出し抜き、国外に進出して各地を転戦し、北方同盟を結成したザクセン選帝侯・ポーランド・リトアニア共和国(以後「ポーランド」と表記)、デンマーク=ノルウェー、及びロシアの連合を打ち破った。開戦直後にデンマーク王フレデリク4世がシュレースヴィヒ=ホルシュタインを包囲するとイングランド・オランダの援助でエーレスンド海峡を渡りデンマークの首都コペンハーゲンを急襲してデンマークを北方同盟から離脱させ(トラヴェンタール条約)、次いでナルヴァの戦いでロシアに勝利した後、リヴォニアに侵攻してリガを包囲していたザクセン軍と対峙、ドヴィナ川の戦いで撃破した。この時ポーランドより中立と和議の提案を受けたが、カール12世はザクセン選帝侯を兼任するポーランド王アウグスト2世(カール12世とフリードリヒ4世のいとこ)の退位要求と言う形で1702年にポーランドに逆に侵攻し、急造のポーランド・ザクセン連合軍をで撃破してポーランドを転戦した。1704年にアウグスト2世を退位させ、代わりにポーランドの大貴族(マグナート)スタニスワフ・レシチニスキのポーランドの王座獲得を実現し、1706年のアルトランシュテット条約と言う形でポーランドとの和議が成立した。スタニスワフは傀儡の君主であり、カール12世の臣下と、共和国の反国王派であったリトアニア連盟のサピェハ家(サピェハ家は、1700年のリトアニア内戦により、リトアニアでの覇権を失っていた)によって1709年までスウェーデンの従属国として統治された。カール12世はこの時点までの戦闘を優位に進め、戦争初期はスウェーデンが圧倒した。この時期のスウェーデンの侵攻範囲は、ポーランド・リトアニア共和国、ザクセン選帝侯領にまで至った。スウェーデン軍が駐屯したザクセンはヨーロッパの注目を集め、アルトランシュテットではカール12世との交渉に赴く西欧の外交官がひっきりなしに訪問したが、カール12世はロシアの遠征しか考えておらず、ロシアとの和睦も拒絶した。1706年から1707年までの1年間ザクセンに留まり休養を取った後、残るロシアのピョートル1世と敵対し、右岸ウクライナに侵攻していたヘーチマン国家のヘーチマンであるイヴァン・マゼーパと結び、この間にバルト地方まで進出したロシアとの対決を目論み、ロシア遠征を開始する。しかしロシアでの補給は困難を極め、ロシアによる焦土作戦と冬将軍にスウェーデン軍は疲弊、弱体化した。マゼーパもピョートル1世に襲撃され多くのコサックにも支持されず、壊滅状態でスウェーデン軍に合流した為戦力とはなり得なかった(マゼーパの名代ダヌィーロ・アポーストルはロシアに臣従した)。リヴォニアから援軍を連れたアダム・ルートヴィヒ・レーヴェンハウプトもレスナーヤの戦いで兵站を全てロシア軍に取られたためスウェーデン軍は更に劣勢を強いられた。1709年7月、ポルタヴァの戦いに敗れたカール12世は、黒海北岸にあるオスマン帝国領に亡命した(カール12世はこの戦闘直前にロシア軍からの狙撃によって足を負傷しており、直接戦闘指揮を執ることが出来なかった)。この間、ロシア軍はフィンランドにも侵攻し、スウェーデン領だったカレリアとリヴォニアを制圧・獲得した。マゼーパはカール12世と共にオスマン帝国領へ逃れたがそこで病没、以後ヘーチマン国家はロシアによって勢力を縮小されることとなった。カール12世はオスマン帝国の皇帝・アフメト3世を動かすことに成功し、追撃してきたロシア軍をオスマン帝国軍が包囲し(プルート川の戦い)、ピョートル1世の捕縛の好機を得るが、結局は解放してしまった(プルト条約)。この事でカール12世とアフメト3世の関係は悪化、スウェーデンが劣勢になる中、1714年にカール12世は帰途についた。しかし戦況は悪化し、プロイセン王国の参戦を招きポンメルンの戦役でカール12世は敗北し、スウェーデンに帰国した。イギリスはそれまでスウェーデンと同盟関係にあったが、1714年にステュアート朝が断絶し、ドイツからハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(ジョージ1世)が迎えられて王位を継承してハノーヴァー朝が誕生した事と、プロイセンの対スウェーデン戦が開始された事でスウェーデンとの同盟関係を破棄した。また、デンマークもロシアからの要求により戦線に復帰し、シュレースヴィヒに侵攻した。この頃になると、ハノーファー、プロイセンがスウェーデンに宣戦布告し、ドイツ側のスウェーデン領土はデンマーク、ハノーファー、プロイセン軍の共闘によって次々に奪われて行った。スウェーデンは北欧諸国全てと交戦状態に陥っており、ドイツ側の指揮官であったマグヌス・ステンボック将軍は1710年にデンマークによるスウェーデン侵攻を阻止(ヘルシングボリの戦い)、1712年のガーデブッシュの戦いでもデンマーク軍を破るなど抵抗していたが1713年に降伏していた。カール12世は戦局打開のためロシアと単独交渉を開始し、バルト地方の放棄の代償として、ドイツ方面での権益回復に方針を転換した。ロシアもバルト海進出でかえってイギリスなど同盟国に警戒されたためスウェーデンの打診に応じた。この間ポーランドもロシアとの協力によって体制を建て直し、自国領内を占領していたスウェーデン勢力を全て一挙にバルト海へと排除した。また、傀儡君主でしかなかったスタニスワフに対してポーランド貴族のシュラフタは王位を否認してアウグスト2世を再び王位に戻す事に成功した。しかしそれまでの占領期間でポーランドの国土は戦争による荒廃とスウェーデン人占領者によって破壊され経済は疲弊、ポーランド・リトアニア共和国の衰退は不可避となり、スウェーデン勢力を排除したロシアの影響力が高まることとなった。一方、ポーランドに関してはスウェーデン対ポーランドの国家間戦争というよりポーランド国内の政治的対立の要素が強かった。ポーランド・リトアニア共和国の軍人スタニスワフ・ポニャトフスキは1719年までポーランド・リトアニア共和国の将軍であると同時にスウェーデン王国の将軍でもあり、カール12世に仕えて対ロシア戦争のポルタヴァの戦いに参加したり、スウェーデンの全権として自らイスタンブールへ行き直接アフメト3世を説き伏せてオスマン帝国を対ロシア宣戦布告に持ち込むなど、スウェーデンによる対ロシア全面戦争を組織した。さらにポニャトフスキはポーランド国内ではスタニスワフ・レシチニスキを国王に推すマグナート・サピェハ家が中心となった一派であるリトアニア連盟に属し、自らスウェーデン軍を動かしてレシチニスキのポーランド国王即位を実現している。カール12世の死後はポーランドへ戻り、リトアニア大公国財務大臣、ポーランド王国大旗手、ワルシャワが属するマゾフシェ県知事と順に務めた後、名誉あるクラクフ城代に就任している。このようにポーランド侵攻をスウェーデンとポーランドとの民族戦争と捉えることには無理があり、どちらかといえばリトアニア連盟によってポーランドのアウグスト2世派、スウェーデン、ロシア、ヘーチマン国家、オスマン帝国など周辺全体が大きな対立構図に巻き込まれた形ともいえる。ポニャトフスキの息子のスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキは野心的で武断派の父やサピェハ家とは政治的に距離を置き、母方の親戚である穏健派マグナートのチャルトリスキ家と結んでポーランドの啓蒙主義を推進し、結果として後にポーランド最後の国王スタニスワフ2世となった。スタニスワフ2世は、ポーランドの独立を維持するためにあらゆる改革を行ったにも拘わらず、内紛とスウェーデンの侵攻によって引き起こされた混乱によって暗黒時代へと陥り、大北方戦争以後はポーランドへの外国の干渉は止まず、結局、混迷から脱することが出来ず18世紀末のポーランド分割と国家消滅の運命をたどることとなる。カール12世はデンマークへの氷上侵攻に失敗した後、その矛先をノルウェーに向けた。1716年には一旦はクリスチャンサンを陥れたが、スウェーデン海軍が敗退し、補給路を絶たれた為、撤退することとなった。スウェーデン海軍は疲弊していたものの、艦隊は全滅してはおらず、ストックホルム港などに反撃の為の戦力として残存していたが、カール12世死後のロシア海軍とのグレンガム島沖の海戦などによって海戦力が大幅に削がれる事となり、その事が戦争の完全終結へと向かわせて行く要因となった。すでに1714年のハンゲの海戦での敗北により、バルト海の制海権と覇権はロシアに移りつつあり、起死回生の為の反撃もカール12世の死によって完全に絶たれる事となる。1718年1月からオーランド諸島でロシアとの交渉が始まり、カール12世の側近のハインリヒ・フォン・ゲルツ男爵とロシア全権アンドレイ・オステルマンが講和内容を纏め、ロシア領となったバルト地方は放棄して他のドイツ領確保を狙い、ロシアの力を借りてハノーファー・デンマーク・ポーランド打倒を目論むゲルツの方針にそって交渉は進められたが、ロシアが話に乗ってこないこととスウェーデンの細かい要求もあって交渉は進展しなかった。11月30日、ノルウェー攻略の要となるフレデリクスハルド要塞を攻囲中、カール12世は流れ弾に当たって落命した。この死に関しては不審な点があるとされ、1994年以降の調査ではこの戦争に反対していたスウェーデン貴族や王位継承者の派閥による陰謀による暗殺説が強まっていたが、2005年以降は暗殺説に対する反論も提起されており決着はついていない。スウェーデンはカール12世の統率力によって、長期に渡る戦争にも関わらず国内の反戦勢力を抑止していたが、その死によって厭戦機運が高まった。しかし、1718年に始まったロシアとの休戦交渉は、主戦派のヘッセン派がスウェーデンの実権を握るとゲルツは処刑され交渉は打ち切られた。生涯独身だったため、王位は妹のウルリカ・エレオノーラが継承した。大北方戦争はカール12世の死後も継続し、スウェーデンはイギリスの後ろ盾で抵抗を続けていたが、ロシア軍のスウェーデン本土への攻撃は続き、ストックホルムへの上陸戦では撃退したものの、1720年のグレンガム島沖の海戦でのロシア海軍への敗北及びロシア軍の波状攻撃の前に屈して和睦に傾き、1721年のロシアとのニスタット条約によって完全に終結した。これにより、スウェーデンはバルト海の権益を失い、大国の地位から転落した。この出来事と前後して、1720年に王権を制御しようとする議会に反発してウルリカ・エレオノーラが退位、夫のヘッセン=カッセル方伯世子フリードリヒに譲位してフレドリク1世が即位した為、絶対王政も終焉、立憲君主制が始まった。カール12世はドイツ・オランダ・イギリスの外交に大きな影響を与え、ロシアをはじめとする北方ヨーロッパの脅威であり続けたが、その死はスウェーデン王国の覇権の終焉を意味した。ヴォルテールの書いた“"Histoire de CharlesXII,roi de Suéde"”(1731年)が代表的な伝記である。前述したとおり、カール12世は10代にして熊殺しの異名を取っており、何倍もの数を誇るロシア軍をたびたび、それも前線で指揮をとり打ち破っている。また、戦争について「熊狩りよりも楽しい」と述べていたともされる。しかしただの猪突猛進の猛将ではなく、彼が陣頭指揮を執ったのは「平凡な一般スウェーデン人を勇敢に戦わせ、また戦機を掴み勝利する為には司令官たる王が前線に出るより他ない」と考えていたからである。事実多くの場合、彼の指揮するスウェーデン軍兵は各国が恐れたような精鋭軍人ではなく普通の農民であり、突撃を忌避する事もあった。彼自身王が前線に出るリスクを承知していたが、スウェーデン軍の内情を考えればこれしかないと、彼は兵站総監アクセル・フォン・ローエンに語っている。カール・フォン・クラウゼヴィッツは『戦争論』の中で、フリードリヒ大王を評価する際にカール12世をその比較対象に挙げ、彼は偉大な天才と呼ぶに値しないと切り捨てた。しかしその一方で、舞台がアジアであればアレクサンドロス大王のような名声を得られただろうと見なし、ドイツ兵学的見地から、カール12世はナポレオン・ボナパルトの先駆者であるとも評価した。日本ではカール12世は「北方の流星王」の異名でも知られており、人気のある通り名となっているが、日本以外ではこの名は見受けられない。(下記文献参照)。また、田中芳樹のスペースオペラ『銀河英雄伝説』に「西暦の17世紀に北方の流星王と呼ばれる小国の王がいた」との記述がある。その王は「15歳で即位し、しばしば隣国の大軍を破り、軍事的天才として知られた」「30代で死ぬまでついに肉欲とは縁がなかった」などとされている。

出典:wikipedia

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