岸和田だんじり祭(きしわだだんじりまつり)は、大阪府岸和田市で行われる祭。岸和田祭又は旧市の祭りとも呼ばれる。岸和田市北西部、岸和田城下およびその周辺(旧市と呼ばれる地域)で毎年9月に行われる。今から約260年前の1745年(延享2年)に、町方の茶屋新右衛門が大坂の祭を見聞し、牛頭天王社(現・岸城神社)の夏祭(旧暦・6月13日)に献灯提灯を掲げたいと藩主に願い出て許可されたのが始まりである。また、1703年(元禄16年)、当時の岸和田藩主であった岡部長泰が伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し(→三の丸神社)、五穀豊穣を祈願して行った稲荷祭を始まりとする説がある速度に乗っただんじりを方向転換させる「やりまわし」が醍醐味で、曳行コースの曲がり角は大勢の観客であふれる。また、だんじりに施された非常に精緻な彫刻も見所で、休憩時などの停止中に申し出れば見物を許可してくれることもある。もとは関西の一地方の祭であったが、昭和の終わり頃から多くのメディアで紹介されるようになり、一気に全国区の祭となった。近年、だんじりを所有する町会がさらに増加しており、規模が拡大しつつある。同日開催の春木だんじり祭と合わせて南北3.5km、東西1kmの範囲で交通規制が敷かれる。これは南海本線春木駅-蛸地蔵駅間の4駅全てが含まれる国内最大級の規模である。2009年度の観客数は2日間で56万人であった。曳行されるだんじり(地車)は総欅造り(黒檀等を装飾的に用いることもある)、前方に100mほどの2本の綱をつけ、500人程度で地元の町を疾走する。囃子を奏でる大小の和太鼓と鉦が備えられ、そこに篠笛が加わる。欅には女神が宿るなどと言われ、女性がだんじりに乗ることはできないが、女児はその限りではない。成人女性も曳き手として参加することは可能だが、18歳程度で止めて、後は男性をサポートする立場にまわる者が圧倒的に多い。近世の岸和田城下において城門を潜る必要性から独自の進化を遂げて行った岸和田型のだんじりを「下だんじり」、以前の形態を残した各種だんじりを「上だんじり」と呼び分けることもある。下だんじりは優美なシルエットと精緻な彫刻で人気を博し、岸和田市内や泉州地域以外にも広まりを見せている。岸和田市、和泉市、忠岡町、貝塚市、熊取町、泉佐野市、田尻町で曳行されるだんじりは全て下だんじりとなっている。下だんじりの特徴である豪快な「やりまわし」は、曳き綱の付け根を持つ綱元(つなもと)がラインと速度を決め、屋根上の大工方(だいくがた)が指示を出し、台木後方に挿し込まれた後梃子(うしろてこ)を外側へ振って行う。その際、前内輪の前へ前梃子(まえてこ)を当て、様々な曲率に合わせた微調整をし、だんじりの平側に乗車するタカリまたはセミと呼ばれる役が、外側は降車し内側は増員するなどして遠心力に対応し、ブレーキ担当者が必要に応じてブレーキを踏む。前梃子の担当は左右に1人ずつで、互いの呼吸を合わせることが重要であるため、親友又は従兄弟同士で務めるケースが多い。また、細心の注意を払う危険な役割であるため、禁酒している者も多い。後梃子の担当は20-30(貳拾人組や参拾人組とも呼ばれる)人で、後梃子から枝状に伸びた緞子(どんす)や梃子尻を持っている。大工方は主屋根に1人、後屋根に3人程が乗り、前方の進路を監視して団扇を使って(補正する方向の屋根の端を叩く)後梃子に指示を出す。狭い路地では小刻みに指示を出す必要がある。藩政期の町・村・字といった伝統的な地域紐帯に基く「町会」と呼ばれる組織がだんじりを所有し、曳行を行う。いわば祭礼の基礎となる単位で、このレベルでは行政や観光協会などの介入はほとんどない。単に町(ちょう)と呼ばれることも多い。町会の中では、年齢に応じて「世話人」「若頭」「組」「青年団」などの祭礼団体が組織されている。その中から「曳行責任者」を選出し、町会長は全体の責任者たる「総括責任者」となる。「曳行責任者」は現場の最高責任者として「総括責任者」(町会長)とともに、2日間のだんじり曳行の重責を担う。不幸にして事故が起きたり死傷者が出たりした際、刑事責任を問われるのはこの「総括責任者」と「曳行責任者」である。行政の長である市長が責任を問われることはない。上記の町会が数ヶ町まとまって祭礼が行われるため、祭礼地区内を統括的に運営する必要がある。その代表的なものが「年番」と呼ばれる運営組織で、この年番制度は200年以上続いている。その名の通り年番制で、その年の当番となった町会が様々な問題に対応し取り決めを行う。昭和中期頃には、自動車の増加による交通規制の問題や、観客数の増加による安全面の問題などが深刻化するようになった。以降、年番の強化拡大を図ると共に、より安全で円滑な運営を目指して様々な組織が結成され、「祭礼町会連合会」「曳行責任者協議会」「若頭責任者協議会」「若頭連絡協議会」「後梃子協議会」「千亀利連合青年団」といった組織ができた。これらの自主的な運営組織の他に、観客の誘導や犯罪の取り締まりに関しては警察の協力があり、観光案内などを行うボランティアもみられる。かつては年に3回祭礼が行われていたが、最も盛大な旧暦8月の祭礼に一本化されていった。明治に入り新暦が導入され、宵宮が9月14日、本宮が15日となった。1966年になって9月15日が敬老の日となったが、2003年のハッピーマンデー制度導入に伴い、2004年、2005年は再び平日となった。祭りの観客動員数が減少してしまうこと、社会人や大学生、高校生などの曳手が不足して曳行に支障が出ることを踏まえ、2006年(平成18年)から敬老の日(9月第3月曜日)の直前の土・日曜日に日程が変更された。なお、日程の変更は(130年前の新暦導入に伴う変更を除いて)これが初めてである。2009年(平成21年)は宮入りを行う本宮が彼岸の入り(20日)と重なり、一時は日程の変更も取り沙汰された。これは「仏教的行事である彼岸にだんじりは相応しくない」という意見が出たためであったが、最終的に予定通り開催された。「岸和田地車祭禮年番」(きしわだだんじりさいれいねんばん)が祭の運営にあたるが、さらに「中央地区」「浜地区」「天神地区」の3つの地区(「三郷」と呼ぶ)からなるため、地区毎にその年の当番となる町(本年番)を選出し、当番町3町(うち年番長1町、副年番長2町)が中心となって全体の運営を行う。この年番制度も約200年の歴史があり、現在も毎年9月1日に岸和田市港緑町の浪切ホールにおいて「三郷の寄合い」を行い、その席で祭の重要事項を決定する。なお、本来の「三郷」(さんこ)は、城下建設後の岸和田における町方(岸和田町)、浜方(岸和田浜町)、村方(岸和田村)の3つの地区を指す呼称であり、以下の通りに分かれる。括弧内はだんじりを所有しない町。上記の他は、沼村、野村、藤井村、別所村(→沼野村)、春木村の一部といった岸和田近郷の村および城下の並松町となり、現在は天神地区と称している。1日目(宵宮)の朝6時、市役所から流れるミュージックサイレンを合図に各町のだんじりが大阪臨海線岸和田港交差点(通称「カンカン場」。岸和田カンカンベイサイドモール前)を目指して一斉に出発する「曳き出し」で幕を開ける。午後1時からは岸和田駅前にてパレードが行われる。2日目(本宮)の午前9時過ぎから岸城神社・岸和田天神宮・弥栄神社(春木南のみ)で「宮入り」が行われる。なかでも、かつて「城入り」と呼ばれた岸城神社の宮入りでは、コナカラ坂(小半坂。岸和田市役所前)を一気に駆け上がっての豪快な「やりまわし」が行われ、祭のハイライトのひとつとなっている。宵宮は午後7時から10時頃まで本宮は午後7時30分頃か11時頃までの間は「灯入れ曳行」(ひいれえいこう)が行われる。約200個の赤い駒提灯に照らされただんじりが老若男女問わず楽しめるよう歩行曳行され、昼間の「動」に対し、雅やかな「静」を演出する。比較的道幅が狭い紀州街道には、年番本部前の交差点(通称「小門」「貝源」)、堺口門跡・内町門跡の枡形(通称「S字」)といった「やりまわし」の見せ場がある。テレビ番組でよく取りあげられるだんじりが家屋を破壊する映像は大抵がこれらの箇所で発生するものだ。また沿道の建物にはたいてい「だんじり保険」という保険が掛けられており、だんじりによる損傷修復に備えているのである。パレード、夜間の灯入れ曳行では全町岸和田駅前へ上がるが、基本的に紀州街道と大阪臨海線の間を周回する。この基本となる周回コース内は、宵宮のパレード後と本宮の午後においては事実上立ち入りが不可能になるほどの観客数に達する。そのため、紀州街道から浜手への移動が菊右衛門橋 - 欄干橋間において規制され、岸和田駅からの移動では大幅な迂回が求められる。だんじりはカンカン場の渋滞を避けて南北に分散することが多くなってくるので、紀州街道の南下(城下風情が色濃く残っている)や浜地区の周回(やりまわし有)を見るなら蛸地蔵駅、大阪臨海線の北上(帰町せずここで休憩を取るだんじりが多い)を見るなら和泉大宮駅からの移動が早い。主婦は直接に祭礼にはかかわらないが、特に本家の場合などは親戚・縁者が大勢押し寄せるため、男性以上に忙しくなる場合がある。料理に関しては、ワタリガニやシャコおでんを大量に湯がいたり、関東煮を大量に作ったりする。紀州街道に沿ったかつての岸和田城下の街並を館内全体で再現しつつ、だんじりと祭に関する資料が豊富に展示してある。また、岸和田市内の他のだんじり祭(春木・東岸和田・南掃守・八木・山直・山直南・山滝)も取り扱っている。
出典:wikipedia
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