大島 光義(おおしま みつよし)は、戦国時代から安土桃山時代の武将、江戸時代初期の大名で、美濃国関藩主。大嶋 光義とも記される。美濃国関大島(現在の大垣市)、または山県郡の出身という。永正12年(1512年)に父光宗(光時)が山県合戦で多くの家臣と共に戦死し、幼少のため縁者大杉弾正に育てられる。13歳の時に美濃国人との戦闘で敵を弓矢で仕留めた。はじめ美濃斎藤氏の長井道利に属し、関・加治田合戦の加治田城攻城戦に従軍。長井氏没落後の永禄7年(1564年)に織田信長に召しだされ、弓足軽頭となる。永禄11年(1568年)9月付けで信長から100貫文(『寛政重修諸家譜』によれば600貫文)の土地を与えられた。元亀元年(1570年)、姉川の戦いで戦功。坂本の戦いで信長に白雲をうがつような働きと賞され、命により通称を雲八と改めた。以後、江北、越前、長篠の戦いで戦功を挙げ、安土城矢窓切事の奉行も務めた。天正10年(1582年)1月10日に信長から「射芸をもって数度戦功の賞」として近江国内に100石を与えられた。同年6月の本能寺の変の際は安土城に在城していたが、変報を聞くと一揆勢と戦いながら、美濃へ帰還している。その後、斎藤利堯に味方し森長可と戦い勝利する(加治田・兼山合戦)。利堯の動向後、丹羽長秀に属して賤ヶ岳の戦いに参陣し、戦功により8,000石に加増された、あるいは、同年11月に羽柴秀吉に召し出されて弓足軽大将になり、6,000石を領知したという。また、秀吉に転仕して弓大将になったのは長秀の死後という見方もあり、天正13年(1585年)には、近江の知行地の代替として、摂津国豊島郡に3,535石を知行されている。その後、豊臣秀次付きとなり、秀次の命で京都法観寺八坂の塔の窓に矢を十本射込んで見せたという。天正18年(1590年)の小田原征伐に参加。 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では弓手200人を率いて肥前名護屋城に在陣した。慶長3年(1598年)には美濃国席田郡、尾張国愛知郡・中島郡、摂津国豊島郡・武庫郡 内の1万1200石に加増された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、嫡男光成とともに老齢93で会津征伐に従軍した(光義自身は高齢のため出陣していない、という説あり)。その後次男光政や三男光俊は西軍に与した。このため、西軍の石田三成らによって妻子を人質に取られてしまう。光義勢は東軍に与して武功を挙げたことから、戦後に家康から真壺・大鷲を与えられた。また、美濃国の加治田村、絹丸村、川辺村、武儀郡、大迫間村等、摂津国の伏見内の地も加わり、1万8000石に加増された。このとき幕閣の本多正純から豊後国臼杵城主に推挙されたが、辞退している。関ヶ原の一年後、徳川家康に堀尾可晴、猪子一時、船越景直らと共に呼び出され、昔話などをしたと伝わる。慶長9年(1604年)8月23日、97歳の長寿をもって死去。生涯53度の合戦に臨み、41通の感状を得たと伝わる。死後、家督は自分と共に東軍に与した光成が継いだが、所領を4人の息子たちに分知、それぞれ1万石以下の旗本となり、ここに関藩は廃藩となった。光義の墓所のある大雲寺は、光義の画像を所蔵しており、関市役所には光義使用の甲冑が展示されている。現在の京阪本線墨染駅の西側に深草大島屋敷町という地名があるが、これは光義の伏見屋敷があったことに由来する。また、豊中市の大島町も光義の旧領であったことに由来する。小説
出典:wikipedia
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