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山本郡

山本郡(やまもとぐん)は秋田県(出羽国・羽後国)の郡。本項では旧称の檜山郡(ひやまぐん)についても述べる。以下の3町を含む。1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記3町に能代市の大部分(二ツ井町小繫・二ツ井町麻生を除く)を加えた区域にあたる。旧称の檜山郡は、遅くとも天正19年(1591年)には成立していたことが「秋田家文書」に所蔵されている羽柴秀吉から湊安藤太郎あての知行宛行状により確認できるが成立年は不明。「秋田湊氏文書」、「南部世譜」、「新羅之記録」(松前氏の家譜)等には、永享4年(1432年)に檜山城の修築の記事が見え、康正2年(1456年)頃には津軽十三湊から南部氏に追われて蝦夷島に逃れていた安東氏下国家の政季と嫡子忠季が河北地方の葛西秀清を滅ぼし一帯を領有し、明応4年(1495年)檜山城の築城を完成させたことが記載されていることから、15世紀半ば以前は河北郡と呼ばれていたと思われる当地方に15世紀頃に成立したと見られている。この時点での河北郡=檜山郡の領域は、現在の南秋田郡である馬場目川以北で現青森県深浦町までを含んでいたと推定されている。戦国時代後期に入ると秋田郡を領する安東氏の一族である湊上国家に後嗣がなく断絶の危機を迎えたため、檜山下国家の安東愛季が湊家をも継承して安東家を統合した。これにより秋田郡と檜山郡は同一の大名の領国となり、更に陸奥国比内郡の浅利氏が安東氏に滅ぼされ比内郡が秋田郡に併合されたことにより、出羽国の北部郡域が確定した。関ヶ原の戦い後、安東氏は常陸国宍戸に移され、入れ替わりに常陸から佐竹氏が入部すると、檜山城には佐竹家臣の小場義成、次いで多賀谷氏が入り、一国一城令によって檜山城が破却された後も館構えに変わったものの所預として明治維新まで続いた。寛文4年(1664年)、佐竹氏により檜山郡は山本郡と改称された。同時に旧来の山本郡(仙北山本郡)は仙北郡に改称されている。このような郡名の混乱の原因は、副川神社(国内最北の式内社)の比定地を政治的な理由により変更した佐竹氏の神社行政にあると見る見解がある。当初、藤里町を除く山本郡6町村は能代市と合併新市を誕生させる予定であったが、新市名を「白神市」に決定すると青森県で猛反発が起こり、秋田県側でも異論が相次いだ。そのため「白神市」案は撤回することになったものの、代わる名称として能代市が市民アンケートの結果から「能代市」を提案すると6町村が拒否し、能代市は協議会から離脱した。6町村は能代市抜きでの合併を目指したが、八森町、峰浜村が飛び地となるため合併は頓挫した。能代市は協議への復帰と新市名の再公募提案を申し入れたが、『能代市を信用することはできない』として拒絶され、合併協議会自体の解散に至った。その後、「能代・二ツ井」「南部3町」「北部2町村」の三つに分かれて合併協議会が発足し、それぞれ能代市・三種町・八峰町となった。

出典:wikipedia

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