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興雲院

興雲院(きょううんいん、? - 慶長17年6月25日(1612年7月23日))は、織田信長の側室の一人。近江野洲郡北里村の土豪・高畑源十郎の四女。通称はお鍋の方(おなべのかた)。しかしながら、お鍋宛の書状の宛先は「小倉」「小椋」などとなっており、系譜類では「小倉三河守女」との記録も残り、当時の女性は実家の姓を名乗る事から、高畑氏であると言う説には疑問が残る。また、本能寺の変後、お鍋が実家の小倉氏の元に戻っていたとする文献もある。俗説では、はじめ近江国の八尾山城主である小倉実澄に嫁いで、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。実房が蒲生定秀に攻められ戦死した後は信長の側室となり、織田信高・織田信吉・於振(水野忠胤・佐治一成室)を儲けている。天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死去した後は、信長の側室の代表的存在として行動し、織田家の位牌所を守ったとされている。ただし、崇福寺に残る位牌所設置の書状の署名が「なへ」であるため、興雲院の書状であろうとされているが、「なへ」は当時の一般的な女性名であるため、興雲院ではない可能性もある。なお、次男・松千代は本能寺で信長に殉じた。こうした経緯を経て羽柴秀吉の庇護下に置かれ、化粧領(化粧料とも)として近江国神埼郡高野村で500石を与えられた。秀吉の正室・ねねに仕えて孝蔵主・東殿(大谷吉継の母)と共に側近の筆頭であったという。長男・甚五郎が天正11年(1583年)に加賀松任城主に任じられたという記録もあり、豊臣政権の奥向きにあって重きをなしたことは確かなようである。お鍋が、秀吉の側室松の丸殿の侍女であった可能性も指摘されている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで子の信吉が西軍について改易されたため連座して500石の化粧領を取り上げられる。そこで困窮したお鍋に豊臣秀頼(実質は淀殿)から50石の知行、北政所からは30石の知行が与えられ、共同でお鍋の晩年を支えた。京都で晩年を過ごしている。慶長17年(1612年)6月25日、死去した。墓所は京都の大徳寺塔頭総見院。文学に造詣が深く公家との交流があったという。

出典:wikipedia

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