石動山(せきどうさん、いするぎやま)は、石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市にまたがる標高564mの山。山頂は中能登町に位置する。加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の御撫物の祈祷をした勅願所である。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊360余り、衆徒約3,000人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、イスルギ修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は八十を数える。南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと明治の廃仏毀釈によって衰亡した。山頂一帯は国の史跡に指定されている。開山は紀元前92年(崇神天皇6年)とも717年(養老元年)とも言われ、延喜式に伊須流岐比古神社として登場する。後に、虚空蔵求聞持法の修法や修験的な峰入り行が盛んになり、真言宗の寺院となって隆盛を極めた。後の太平記や太閤記が記すように任侠武勇をもって知られ、南北朝時代には宮方の越中国司中院定清をかくまったため、足利尊氏の命を受けた同国守護普門俊清に焼き討ちされて一時衰退した。戦国期には復興し、北陸に一向一揆勢力が勃興する中でも隠然たる勢力を誇ったが、1582年(天正10年)本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し、天平寺衆徒とともに石動山に立て籠ったため、前田利家・佐久間盛政・長連龍らの織田軍に焼き討ちされ、再び全山焼亡した。このときの焼き討ちは、主君織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちに似ているともいわれ、数百人の法印のみならず児童子まで撫で斬りにしたとか、千六十の首を山門の左右に掛け並べたなど、凄惨な弾圧がなされた。近世には前田家により復興されたが振るわず、明治に入って施行された神仏分離政策のもとほぼ全ての院坊が破却され、以後復興されることなく廃寺となった。
出典:wikipedia
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