白鬚神社(しらひげじんじゃ)は、滋賀県高島市鵜川にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。神紋は「左三ツ巴」。全国にある白鬚神社の総本社とされる。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも称される。祭神は次の1柱。国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。人格神が猿田彦命とされた由来は不詳であるが、猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起『三尾神社本土記』にも見えることから、両社の密接な関係が指摘される。社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという(一説に再建)。また白鳳2年(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある。一方で白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという説もある。当社の周囲には、背後の山中に横穴式石室(現・末社岩戸社)が残るほか、山頂には磐座と古墳群が残っている。国史では貞観7年(865年)に「比良神」が従四位下の神階を賜ったとの記載があり、この「比良神」が当社にあたるとされる。ただし『延喜式』神名帳には記載されていないため、当社はいわゆる国史見在社にあたる。弘安3年(1280年)の比良庄の絵図では「白ヒゲ大明神」と見えるほか(「白鬚」の初見)、『太平記』巻18では「白鬚明神」という記載も見える。また、謡曲『白鬚』では当社が舞台とされている。その後、慶長年間(1596年-1615年)には豊臣秀頼によって境内の整備が行われた。慶安元年(1648年)には朱印地として100石を受け、のちには189石余となったという。明治に入り、明治9年(1876年)に近代社格制度において郷社に列し、大正11年(1922年)に県社に昇格した。境内は、慶長年間(1596年-1615年)に豊臣秀頼によって整備が行われた。本殿は慶長8年(1603年)の造営。棟札等から、片桐且元を奉行として播州の大工の手で建てられたとされる。間口三間・奥行三間の入母屋造で、向拝一間を付し、屋根は檜皮葺である。向拝の手挟・蟇股等に桃山時代の特徴を示している。明治の拝殿造営・接続に伴い、向拝の軒先は切り縮められて権現造のような複合社殿様式となり、その際に屋根も柿葺から檜皮葺に改められている。この本殿は国の重要文化財に指定されている。この本殿のほか、境内社4殿も同時期の慶長期の造営になる。拝殿は明治12年(1879年)の造営で、間口三間三尺・奥行二間の四棟造。旧拝殿は寛永元年(1624年)の大溝藩主・分部光信による造営で、現在は絵馬殿として使用されている。また、昭和7年(1932年)の造営になる社務所は書院造で、中世を思わせる造りであるとして、国の登録有形文化財に登録されている。その社務所前には、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻が当社へ参詣した際に詠んだ歌碑が建てられている。また大鳥居は湖中に立ち、当社のシンボルとなっている。鳥居について古くは弘安3年(1280年)の絵図では陸上に描かれているが、その後の琵琶湖の水位上昇に伴い水中に立つようになったと伝える。その伝説に基づいて昭和12年(1937年)に鳥居の寄進がなされ、昭和56年(1981年)に現在に見る鳥居が再建された。。境内社として11社が鎮座する。本殿裏の石段上の10社(若宮神社除く10社)は「上の宮」と総称される。例祭は次の年2回。所在地交通アクセス
出典:wikipedia
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