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パブロ・ネルーダ

パブロ・ネルーダ(Pablo Neruda、1904年7月12日 - 1973年9月23日)は、チリの詩人、外交官、政治家。本名はリカルド・エリエセール・ネフタリ・レジェス・バソアルト(Ricardo Eliecer Neftalí Reyes Basoalto)。チェコの詩人ヤン・ネルダから筆名を取ったが、後にこれを本名とした。チリの国民的詩人として知られる。バスク系チリ人の家庭に生まれる。1934年、外交官としてスペインに赴任した。スペイン内戦を目の当たりにして共産主義に接近し、人民戦線とスペイン共和国を支援した。1945年には上院議員に当選、同時にチリ共産党に入党したが、1948年にビデラ政権によって共産党が非合法化されたため、国外逃亡を余儀なくされた。イタリア亡命時代を題材に映画『イル・ポスティーノ』が作られた。その後、1958年に共産党は再び合法化された。1962年にはモスクワを来訪し、パキスタンの詩人ファイズ・アハマド・ファイズと出会い、その後も交友が続いた。1970年の大統領選挙では、一時共産党から大統領候補に推されるが辞退し、社会党のサルバドール・アジェンデが左派統一候補として立候補し当選した。その結果、チリは世界で初めて民主的な選挙によって社会主義政権が誕生した。ネルーダはアジェンデ政権から駐仏大使を任命され、在任中の1971年にノーベル文学賞を受賞したが、ガンに侵されたため1972年に大使を辞任しチリに帰国した。しかし翌1973年9月11日にアジェンデ政権がピノチェトのクーデターによって滅ぶと、軍事政権はネルーダの家に押し入り、調度品を破壊し蔵書を破り捨て、徹底的に家を破壊した。ネルーダはこのことで絶望し、病状は急激に悪化したといわれる。クーデターの12日後、ネルーダは危篤状態に陥り、病院に向かったが、途中の軍の検問で救急車から引きずり出されるなどして、病院に着いたときには亡くなっていた。「彼は病気で死に、クーデターで魂を殺された。彼は二度死んだのだ」とチリでは言われている。ネルーダの死因は長い間病死とされてきたが、彼が属していたチリ共産党は2011年5月、毒殺の疑いがあるとしてサンティアゴの控訴裁判所へ告訴状を提出。これはネルーダの元運転手の証言を基にしたもので、同党は、毒殺がネルーダによる海外での反クーデター活動の阻止を狙った軍部によるものとの見解を公表している。2013年2月、チリの司法当局は死因の確認のため、ネルーダの遺体を掘り起こす方針を決定し、同年4月8日に同国中部イスラネグラにある墓地より遺体を掘り起こし調査を開始。同年11月8日、司法当局はネルーダの遺体より毒物は検出されなかったという調査結果を発表したが、死後すでに40年を経過していて、その間、埋葬場所も変えており、当時の毒薬の製造技術水準からも殺害に使用された薬物、あるいはガスが、既に体内から分解又は排出された可能性も十分考えられるために、安易な毒殺説の払拭に疑問の声が起こっている。また、ネルーダに注射を行ったとされているサンタマリアクリニックのプライス博士の正体も依然謎のままになっている。代表作にチリの自然の美しさをうたった「マチュピチュの高み」や「女のからだ」などがある。1971年にノーベル文学賞受賞。ガブリエル・ガルシア=マルケスは「どの言語の中でも20世紀の最高の詩人」と称えた。若いころから詩人として名をなした。しかし、当時としては性に関する描写が多めで、下品だとの批判も文壇からあった。離婚を2回しており、最後の妻に贈った詩「100の愛のソネット」が有名。南米では頻繁に詩の朗読会が開かれている。アメリカのベトナム戦争でのやり口を批判した「ニクソンサイドのすすめ」などがある(「ニクソンサイド」はジェノサイドとニクソン大統領をかけた造語)。「ニクソンよ、この詩の力でうちのめしてやる」などの名文がある。比喩が非常にうまく、「女のからだ」で、女性器を「恥骨のばら」、また、女を「肉のりんご」と表現している。また、彼の比喩のうまさは、映画『イル・ポスティーノ』のテーマともなった。彼の家とイスラネグラの2軒の別荘はどれもチリの観光名所であり、大勢の人で賑わう。南米ではチェ・ゲバラと同様に、左派のヒーローの一人である。

出典:wikipedia

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