『豊饒の海』(ほうじょうのうみ)は、三島由紀夫の最後の長編小説。『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語で、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の全4巻から成る。最後に三島が目指した「世界解釈の小説」「究極の小説」である。最終巻の入稿日に三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した(三島事件)。第一巻は貴族の世界を舞台にした恋愛、第二巻は右翼的青年の行動、第三巻は唯識論を突き詰めようとする初老の男性とタイ王室の官能的美女との係わり、第四巻は認識に憑かれた少年と老人の対立が描かれている。構成は、20歳で死ぬ若者が、次の巻の主人公に輪廻転生してゆくという流れとなり、仏教の唯識思想、神道の一霊四魂説、能の「シテ」「ワキ」、春夏秋冬などの東洋の伝統を踏まえた作品世界となっている。また様々な「仄めかし」が散見され、読み方によって多様な解釈可能な、謎に満ちた作品でもある。〈豊饒の海〉とは、月の海の一つである「Mare Foecunditatis」(ラテン語名)の和訳で、〈月修寺〉のモデルとなった寺院は奈良市の「圓照寺」である。なお、最終巻の末尾と、三島の初刊行小説『花ざかりの森』の終り方との類似性がよく指摘されている。文芸雑誌『新潮』に、先ず1965年(昭和40年)9月号から1967年(昭和42年)1月号にかけて『春の雪』が連載され、同年2月号から1968年(昭和43年)8月号にかけては『奔馬』、同年9月号から1970年(昭和45年)4月号にかけては『暁の寺』、同年7月号から1971年(昭和46年)1月号にかけては『天人五衰』が連載された。単行本は、1969年(昭和44年)1月5日に『春の雪(豊饒の海・第一巻)』、同年2月25日に『奔馬(豊饒の海・第二巻)』、1970年(昭和45年)7月10日に『暁の寺(豊饒の海・第三巻)』、1971年(昭和46年)2月25日に『天人五衰(豊饒の海・第四巻)』が新潮社より刊行された。文庫版は各巻新潮文庫より刊行されている。翻訳版は、『春の雪』『奔馬』は英米のMichael Gallagher訳(英題:Spring Snow、Runaway Horses)、イタリア(伊題:Neve di primavera、Cavalli in fuga)、『暁の寺』は英米のCecilia Segawa Seigle、D.E. Saunders訳(英題:Temple of Dawn)、イタリア(伊題:Il tempio dell'alba)、『天人五衰』は英米のエドワード・G・サイデンステッカー訳(英題:The Decay of the Angel)、イタリア(伊題:La decomposizione dell'angelo)をはじめ、世界各国で行われている。三島は1960年(昭和35年)頃から大長編を書きはじめなければならないと考え、19世紀以来の西欧の長編小説とは違う「全く別の存在理由のある大長編」、「世界解釈の小説」を目指して、『豊饒の海』を1965年(昭和40年)6月から書き始める。壮途半ばで作家人生を病で終えた高見順の死も執筆に拍車をかけたとし、その執筆動機を以下のように語っている。そして、学習院時代の旧師の松尾聰の校注に成る『浜松中納言物語』に依拠した「夢と転生がすべての筋を運ぶ小説」を四巻の構成にし、「王朝風の恋愛小説」の第一巻は〈たわやめぶり(手弱女ぶり)〉あるいは〈和魂〉を、「激越な行動小説」の第二巻は〈ますらをぶり(益荒男ぶり)〉あるいは〈荒魂〉を、「エキゾチックな色彩的な心理小説」の第三巻は〈奇魂〉を、第四巻は「それの書かれるべき時点の事象をふんだんに取込んだ追跡小説」で〈幸魂〉へみちびかれてゆくものと三島は説明している。ちなみに、1950年(昭和25年)の『禁色』の創作ノートにもすでに、「螺旋状の長さ、永劫回帰、輪廻の長さ、小説の反歴史性、転生譚」といった言葉が並び、『豊饒の海』を予告するような記載があり、初期作品の『花ざかりの森』『中世』『煙草』などにも「前世」への言及が見られ、もともと三島には早くから転生への関心を抱いていた傾向が見られる。〈豊饒の海〉の題は「月の海」の名のラテン語の訳語であるが、三島は、作品完成前に有人ロケットの月面着陸が行わることに触れて、「人類が月の荒涼たる実状に目ざめる時は、この小説の荒涼たる結末に接する時よりも早いにちがひない」と述べ、題名は、「月のカラカラな嘘の海を暗示した題で、強ひていへば、宇宙的虚無感と豊かな海のイメーヂとをダブらせたやうなもの」で、禅語の〈時は海なり〉の意味もあると説明している。三島は、論理も体系もない芸術の宿命や限界に、大きな哲学の論理構造を持つ大乗仏教の唯識の思想のような「人間を一歩一歩狂気に引きずりこむような、そういう哲学体系」を小説の中に反映させた長編を書き出したと述べ、第二巻の連載中には、汎神論のような宗教の世界像のようなものを、「文学であれができたらなあ」という願望を示しながら以下のように語っている。また、プルーストも『失われた時を求めて』を書くことで、「現実を終わらせようとした」とし、その理由を以下のように三島は述べている。こういった三島の創作動機を松本徹は、「小説」というものが出現して以来の、最長時間かつ国境を越えた広大な空間に展開させ、「この人間世界全体」を可能な限り覆い尽くし、その成り立ちと意味を解き明かして、「小説なるものの存立の意味を示す」という「究極の小説」を三島が目指し、さらに「日本語として全きもの」を企図したと解説している。『豊饒の海』の「創作ノート」は23冊あるが、ごく初期の大まかな構想では「五巻」構成で、第一巻は〈夭折した天才の物語――芥川家モチーフ〉とあり、主人公を芥川龍之介のイメージにして、その長男次男らも想定に入れ、第二巻は〈行動家の物語――北一輝モチーフ、神兵隊事件のモチーフ〉、第三巻は〈女の物語――恋と官能―好色一代女〉、第四巻は〈外国の転生の物語〉、第五巻は〈転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義、人間性の仮装舞踏会〉というものだった。その後は「四巻」構成に変更され、第一巻『春の雪』は〈明治末年の西郷家と皇族の妃殿下候補との恋愛〉(実際にあったことではなく、三島の創作)で、西郷隆盛の実弟・西郷従道の一家が〈松枝家〉のモデルの一部となり、従道の次男・従徳の妻の実家である岩倉家(従道の息女・桜子の婚家でもある)が〈綾倉伯爵家〉のモデルの一部となる構想で固まり、第二巻『奔馬』は血盟団事件が題材となる。第三巻(五巻構成時の三巻と四巻の合体)は、〈タイの王室の女or戦後の女〉が死なずに生き延びて〈六十才になつた男と結婚し、子を生む〉とあり、その後の構想では、姫が〈聡子or第二巻の女とよく似た女とlesbian Love〉となり、本多は清顕の生まれ変わりの姫に恋するが〈レズビアン・ラブの失恋〉をするという流れに変化する。また第三巻『暁の寺』執筆の期間、三島は「楯の会」と共に1969年(昭和44年)10月21日の国際反戦デーのデモの鎮圧のため、自衛隊の治安出動直前の斬り込み隊として討死する可能性を見ていたため、第三巻は「未完」になるとも考えていた。この時期に三島は川端康成宛てに、自分の身にもしものことがあった場合の「死後の家族の名誉」を護ってもらいたいという内容の手紙を送っている。しかし自衛隊の治安出動はなされずに憲法9条改正の期待は潰え、「楯の会」の存在意義が見失われてしまった。三島は、『暁の寺』を脱稿した時の気持ちを「いひしれぬ不快」と述べ、その完成によって「それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつた」とし、以下のように語っている。第四巻『天人五衰』は、実際に発表された作品と、創作ノートで検討されていたものと大きな隔たりがあるが、これは事前に構成をはっきりと固めずに、終結部分を不確定の未来に委ねていたためで、何度も構想を練り直している。一番初めの具体的な案は以下のようなものであった。これに関連する第四巻の構想では、本多が転生者を探すために新聞の人探し欄や私立探偵を使うなどし、聡子から手紙で「何を探してをられる?」と問われ、聡子を訪問した後に病に倒れて入院し、転生者の黒子がある若い〈電工の死〉(転落死)を窓越しに見て臨終を迎える大団円のプランが看取されている。1968年(昭和43年)のインタビューでも、「ドス・パソスの有名な〈〉みたいに、その時点の日本の現状にあるものをみなブチ込んで、アバンギャルド的なものにするつもりだ」と三島は述べている。この〈若い電工〉という転生者の死が本多に救済をもたらすという構想は、第三巻の完成の「いひしれぬ不快」の後でも基本的には変わらなかったが、しかしその後第四巻の主題は〈悪の研究〉と変更され、〈天使の如く〉であった〈少年〉が、〈悪魔のやうな少年〉に変更されてゆく。また当初、第四巻の完結は1971年(昭和46年)末になるであろうと三島は述べていたが、実際の掲載終了は三島の自死(三島事件)により当初の予定よりも約1年余り早まった。1970年(昭和45年)3月頃、三島は村松剛に、「『豊饒の海』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなった」と洩らしていたという。なお、〈天人五衰〉の前に予定されていた第四巻の題名は〈月蝕〉だった。最終巻の執筆が概ね出来上がっていた1970年(昭和45年)9月の時点で三島は、第三巻以降への流れについて、現世の人間が「これが極致だ」と思考したことが、第三巻で「空観、空」の方へ溶け込まされるとし、その「残念無念」の感覚を設定するには、第一巻と第二巻を戦前に設定させて、第三巻で一度「空」が生じ、「それからあとはもう全部、現実世界というのはヒビが入ってしまう」流れとなり、それが次元は違うが、「現実世界の崩壊」を「戦後世界の空白」のメタファとなると解説し、以下のように語っている。そして三島は「空を支える情熱」は、信仰以外にはないとしつつ、信仰者や信仰になったら小説ではなくなるので、第四巻の主人公を「悪魔的」にしたとし、「空を支えるのが、空観という形で、悪魔の仕業のように考える」方法にしたと説明している。また同時期に、「第四巻の幸魂は、甚だアイロニカルな幸魂で、悪(自意識の悪)が主題ですが、最後の本多の心境は、あるひは幸魂に近づいてゐるかもしれません。(中略)この全巻を外国の読者に読んでもらふとき、はじめて僕は一人の小説家とみとめられるであらうと、それだけがたのしみです」とドナルド・キーン宛てに三島は説明している。自死の一週間前には、『豊饒の海』の主題と終局について三島は以下のように語っている。ちなみに、恩師の清水文雄宛てへの最後の書簡では、「小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならない」とし、以下のように述べている。執筆期間は1965年(昭和40年)6月から1966年(昭和41年)11月まで。モデルとなる寺の取材のため、三島が初めて奈良県の圓照寺に行った日は1965年(昭和40年)2月26日である。松枝侯爵邸のモデル(環境および建築としての邸のモデル)は、西郷従道の邸宅で、この洋風建築は博物館明治村に保存されている。松枝家の別邸として登場する「終南別業」(王摩詰の詩の題をとって号した)は、旧加賀藩主・前田本家第16代目当主・前田利為侯爵家の広壮な別邸をモデルとしている。加賀藩・前田家は、三島の祖父・橋健三、曽祖父・橋健堂が代々仕えた家である。三島は『春の雪』において、「会話のはしばしにまで、古い上流階級の言葉の再現」をしたとし、「あと十年もたてば、これらの言葉は全くの死語となるであらう」と述べ、『春の雪』は、「『花ざかりの森』や『盗賊』の系列の延長線上にあるもの」としている。時代は明治末から1914年(大正3年)早春まで。執筆期間は1966年(昭和41年)12月から1968年(昭和43年)6月まで。『奔馬』の題材は、昭和初期に起こった血盟団事件をヒントにしている。三島は取材のため1966年(昭和41年)8月に奈良県の大神神社と、熊本県の新開皇大神宮、桜山神社を訪れている。作中で勲が愛読している『神風連史話』は、三島の作中作品で架空の歴史書であるが、福本日南の『清教徒神風連』や石原醜男の『神風連血涙史』などが元になっている。『奔馬』について三島は、「『英霊の聲』や『剣』の集大成」だとし、「これを読めば本当の僕がわかってもらえるだろう」と語っている。時代は1932年(昭和7年)6月から1933年(昭和8年)年末まで。執筆期間は第一部が1968年(昭和43年)7月から1969年(昭和44年)4月までで、第二部は1970年(昭和45年)2月にまで。『暁の寺』の取材のため、三島はインドとバンコクに行くが、ガンジス川のベナレスを見て、「インドでは宗教が生きています。あれだけ宗教がナマナマしく生きてゐる国は見たことがありませんね」と語っている。ジン・ジャンのモデルには、タイからの留学生で22歳の東大経済学部に学んでいたスワンチットという美人学生を留学生会館で小島千加子(雑誌『新潮』の三島担当編集者)の協力によって選び、一度三島邸で面会したものの、その後に一晩東京の街で会う約束をすっぽかされたまま、彼女が帰国してしまったために作品の内容もそれに沿ったものに変更されていったという。また、ドイツ文学者・今西康のモデルは澁澤龍彦で、久松慶子のモデルは朝吹登水子と白洲正子を足して二で割ったものだと三島は小島に語ったという。標題の『暁の寺』は、バンコクにあるワット・アルンラーチャワラーラームから来ている。第一部 - 時代は1941年(昭和16年)から終戦の1945年(昭和20年)まで。第二部 - 時代は終戦後の1952年(昭和27年)と、15年後の1967年(昭和42年)。"第一部"第二部"執筆期間は1970年(昭和45年)5月から同年11月まで。三島は最終巻の取材のため、1970年(昭和45年)5月に清水港、駿河湾を訪れ、5月末頃に題名を〈天人五衰〉に決めた。時代は1970年(昭和45年)から1975年(昭和50年)夏まで。『春の雪』『奔馬』の刊行後の反響については、否定的なものも多少混ざっているが、概ねは好意的なものが多い。批判的なものとしては、森川達也が、作品が「荒唐無稽」だとし、北村耕は、作品に込められている「天皇崇拝思想」を批判している。肯定的なものは、桶谷秀昭、福田宏年、奥野健男、佐伯彰一、阿川弘之、村上一郎、高橋英夫が、現代に対する挑戦、三島美学の集大成という受け止め方で、野口武彦は、『豊饒の海』を「三島由紀夫氏の『失われた時を求めて』である」と評し、三島は日本文学の遺産である「物語」を選択したと解説している。中でも澁澤龍彦は、「戦後文学最高の達成」とした上で、そこでは「行動と認識をいかに一致させるかの問題」が作品構成の動機になって、本多は「行動という危険な領域に惹かれつつ、その一歩手前で踏みとどまる小説家の営為」を象徴的に体現している人物と説明し、三島が中村光夫との対談で、〈自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、太陽崇拝は母であり天照大神である。そこへ向っていつも最後に飛んでいくのですが、したがって、それを唆すのはいつも母的なものなんです〉と述べていたことに触れながら、無意識の特性を持つ女(太陽)が男の「悪の芽を育て、悪を唆す」という存在でもある面を鑑みて、勲が死ぬ時に体内に太陽が入り込み、次回に女に転生するのは偶然ではなく、物語の論理的必然であると解説している。川端康成は、『春の雪』『奔馬』を読み、「奇蹟に打たれたやうに」感動、驚喜して、『源氏物語』以来の日本小説の名作と思ったとし、以下のように高評価している。『暁の寺』の刊行後には、文壇全般的な受け取られ方は芳しくはないが、佐伯彰一や池田弘太郎は、認識者の世界攻略のドラマという主題を看取し、田中美代子や磯田光一は、本多とジン・ジャンの関係性を「密通」「エロスの弁証法」と見なすことにより、認識の孕む生の豊饒さへの回路について言及している。三島の自死による『天人五衰』刊行後には、磯田光一や田中美代子が、『豊饒の海』の前半では心情の純化や生の極限が描かれ、後半は認識者・本多が主人公となり、その結末は三島の死と表裏の関係があるとし、粟津則雄は、死の主題への偏執や、個人を越えた全体への志向を指摘している。澁澤龍彦や奥野健男は、『天人五衰』で、三島を襲ったニヒリズムの露呈を指摘している。澁澤龍彦は、末尾の夏の日ざかりを終戦の日の風景だと指摘し、以下のように評している。謎の多い『豊饒の海』への論究は非常に膨大な数があり、様々な観点から研究論がなされている。三島の他の作品との共通点を探る比較論的なもの、典拠となった『浜松中納言物語』との比較論や、作品世界の構造を論じたナラトロジー的なもの、『竹取物語』や『源氏物語』と重ねる研究論、個別の作中人物(本多、清顕、勲、ジン・ジャン、透、聡子、みね、蓼科、鬼頭慎子)の行動や内面を探ったもの、誰が贋物の転生者であるかを探ったもの、輪廻転生と唯識論の宗教論的な観点からのもの、結末部の解釈を巡っての解釈論、日本の近代史などの歴史や社会的な背景(神風連、二・二六事件や天皇)との相関関係から論じたもの等々、多岐にわたって論究されている。奥野健男は、最終巻『天人五衰』の終り方が、三島の初刊行小説『花ざかりの森』の終結部で老婦人が、〈どこへ行つてしまひましたやら。あんなものずきなたのしい気分。……わたくしのどこかにでも、そんなものがのこつてゐるやうにおみえでせうか〉と言った後に、客人を庭に案内し、〈生がきはまつて独楽の澄むやうな静謐、いはば死に似た静謐ととなりあはせに。……〉という末尾と酷似していることを指摘している。奥野は「三島由紀夫の文学の華やかで激しい三十年は、同じ空夢の幻影から空夢の幻影への夢のまた夢というであったのであろうか。それが真の文学というものなのかもしれない」と述べている。井上隆史は、三島の自死の日が、『仮面の告白』の起筆日の日付と同じことに着目し、『仮面の告白』の執筆動機が、〈私が今までそこに住んでゐた死の領域〉を超克することで、〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉ような〈生の回復術〉だと三島が位置づけていたことから、以下のように論考している。佐伯彰一は、三島が「純粋情念こそ歴史をふみこえ、時間をのりこえ得るという思念」に繰り返し心惹かれていた作家であったことを鑑みて、『豊饒の海』の「時間の流れ」自体の定着に三島の意図はなく、むしろ「時間から脱け出し、時間を超えること」に三島の的があり、「時間の超克、棄却」が目指されていたとし、「近代小説の大前提と常識に向って正面切った反抗をくわだてた作品」で、「三島流の壮大な反・小説の試み」がなされていると解説している。柴田勝二は、『金閣寺』や『憂国』『英霊の聲』など三島文学には、主人公を行動に駆り立てる「他者的な精神や霊魂的な浸透」や、「別個の人間間で、その精神や魂が憑依する関係性」があるとし、『春の雪』の煮え切らなかった清顕が、聡子への強い恋情を自覚する「変身」も、「烈しい恋愛者の霊魂が入り込んだ」場面だと考察し、その〈みやび〉の烈しさや荒々しさは、倭建命や王朝貴族に底流し、〈非常の時には、「みやび」はテロリズムの形態をさへとつた〉という三島が『文化防衛論』で言及している意識と同じだと解説している。また、『サド侯爵夫人』にも見られるように、三島が作中の年や日時にメッセージを込める傾向を鑑みながら、聡子と皇族の婚約の勅許が下るのが5月15日で、清顕が月修寺の聡子を訪れる日に雪が降り、2月26日だという、「五・一五事件」と「二・二六事件」との連携性を柴田は考察し、転生する主人公たちの寿命が〈二十歳〉であるのは、伊勢神宮の式年遷宮が20年ごとに行われるという神道的な意味合いで、三島が『文化防衛論』で展開している、〈いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであつて、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになる〉という関係性がそこに反映されているとし、本多が勲を見て〈清顕がよみがへつた!〉と感銘するのは、清顕が勲に「再生」していることの表われだと柴田は解説している。そして『天人五衰』の入稿日と自決の11月25日の意味については、「昭和天皇が摂政に就任した日」という安藤武の考察と、松本健一の〈(三島が)じぶんだけの〈美しい天皇〉を抱きしめ、その〈美しい天皇〉の歌をもはや誰にも歌わせまいとして、一人あの世へと走り去ってしまったのではないか〉という考察を敷衍しながら、「時代への抗議」と共に三島が、昭和天皇が事実上〈神〉になった日に自決することで、人間天皇の代りに自らが「〈神〉の連続性」を掴んで、「神になる」行為であったとし、自国の主体性がなくなった時代背景を基調に書かれた最終巻の意味について柴田は以下のように論考している。松本徹は『天人五衰』の最終場面について、生まれ変わりの連鎖にずっと立ち会い、それに囚われてその連鎖から脱け出せない本多と、輪廻の連鎖から逃れたところの解脱の立場にいる聡子が「向き合っている」ということが肝心だとし、最後の〈何もない。記憶もなければ何もないところ〉は、「世界すべて消えるのではなく、輪廻の一つの輪が終わろうとしているところ」だと説明しながら、そこには「輪廻する生を根底で成り立たせているところのものが、露わになっている」と解説し、以下のように論じている。佐藤秀明は、この松本の論を敷衍しながら、本多の自意識の〈悪〉(直接手を下さずに世界を〈虚無〉に陥れる)についても考察し、本多が聡子に再会しようとしたのは、聡子から世界を肯定されることで、「その時本多の自意識は、世界を無に陥れようと図っていた」とし、以下のように論じている。宮崎哲弥は、第三部『暁の寺』でさかんに説かれている仏教は「中観ではなく、唯識仏教」だとして、「(阿頼耶識を個我の根本識、対象世界の諸法の根本因と看做す)唯識説が仏教哲学の精華として礼賛されて」いるとし、ナーガセーナの見解も「不徹底な立場と決めつけられている」と批判しつつ、「かかる仏教観が、そっくり三島自身のものでもあったとしたら、彼の仏教理解は、極めて浅薄なものであったと断ぜざるを得ない」としている。小室直樹は、第三部『暁の寺』について、「仏教のエッセンスは、ここにつきていると言ってよい」とし、三島が『ミリンダ王の問い――インドとギリシャとの対決』の一節を説明して、〈ナーガセーナ長老は、はるかはるか後世になつてイタリアの哲学者が説いたのとほとんど等しく、《時間とは輪廻の生存そのものである》と教へるのであつた〉と導いてゆく件りについて、以下のように評している。また小室は、第四部『天人五衰』冒頭で三島が海の波を描き「万物流転」を表現していることについても、「仏教における因縁のダイナミズムを、これほど見事に表現した文章をほかに知らない」と評している。『豊饒の海』は、多様な解釈を誘うような細部の仄めかしや、嘘をつく人物がいたり、物語自体が本多の認識にすぎなかった、あるいは、転生者が贋物ではないか、など様々な読み方が可能で、謎に満ちている作品である。例えば、勲の母・みねが息子の顔を見て、〈飯沼と似てゐるやうでもあり、似てゐないやうでもある〉と思う場面など、勲の実父が松枝侯爵でもある可能性が仄めかされていたり、ジン・ジャンの死亡日が明確でなく確認できなかったこと、安永透は天人の死を意味する〈天人五衰〉となっているため、本物の可能性もあると佐藤秀明は解説している。安永透が贋者だと、作中では久松慶子が断定しているが、村松剛によると、作者の三島は、透が贋者か本物かは不明にしているとテレビで述べていたという。また村松剛は、透が作中で過去世を2度見ていることと、透の手記で、ある雪の日に窓から外を眺めている中で、老人が落した鴉の屍骸が〈女の鬘のやうにも思はれ出した〉と書いてある描写に触れ、この光景は『春の雪』で剃られた、聡子の髪の幻(前世の記憶)を見たということだと解読している。鴉の屍骸のようなものを落すこの老人は、話の筋と無関係に唐突に出てくるが、この黒いベレー帽の老人が、本多が公園で覗きをする箇所でも出てくることが指摘されている。作中において、この黒いベレー帽の老人が誰で何を意味しているのかは不明であるが、柏倉浩造は、この人物は未来の三島本人であると憶測し、ヒッチコックのように登場させていると解釈している。また柏倉は、本多の瞼から飛翔した三羽の黒い鳥や、三つの黒いほくろ、鬘のような黒い鴉の死骸、清顕や勲が猟銃で鳥を撃つ場面や、今西と椿原夫人が〈黒いレエスのブラジャー〉を拾って捨てる場面などを関連させて意味を考察している。三島が取材のために京都・奈良の尼寺を歴訪し、ある尼寺で高齢の尼門跡に会ったときに、『春の雪』がどんな筋かと聞かれて、「宮様の許婚になった恋人を犯して妊娠させ、そのため恋人は剃髪遁世し、自分は病歿する青年の話」だと答えると、その尼僧が三島をじろじろと疑わしげに見つめて、「どこでそれをおききになりました?」と言い、逆に三島の方がびっくりし、自分の純然たる創作だと尼僧に言ったが信じてもらえなかったという。単行本の『奔馬』のカバーには、神風連の副首領加屋霽堅の墨書を基としたものが使われているが、これは三島が捜して選んだものである。三島は担当編集者の小島千加子に、『暁の寺』の刊行後、〈君は三巻までの装幀のうちでどれが一番好きかい? どれもいいね。……だけど僕は二巻が好きだねえ〉と言ったとされ、神風連の志士が数多のこした書のなかから、三島が加屋の遺墨を選んだことに、この書と『奔馬』への愛着がうかがえる。荒木精之でさえその所在を知らない、その加屋の遺墨「長刀賦」を三島がどうやって入手したかは今なお謎だという。三島の辞世の二首のうちの一首、〈益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜〉は、加屋霽堅のこの漢詩の最終行をふまえていることが見てとれるという。荒木精之は三島から贈られた『奔馬』のカバーを見て、「おやとおどろ」き、以下のように述べながら、売れる、売れない、といったことはどうでもよいという、「真剣な態度」がこのカバーから窺われるとし、それだけに三島が神風連にいかに傾倒しているかが伝わってくるように感じられたと語っている。映画『地獄の黙示録』を監督したフランシス・フォード・コッポラは、撮影の際、しばしば『豊饒の海』を手に取り、作品の構想を膨らませたという。島田雅彦は、自作『無限カノン三部作』(『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』)を、『豊饒の海』を意識して書いたものと述べている。実現には至らなかったが、晩年の市川雷蔵は『春の雪』の舞台主演を強く希望していた。病状悪化と逝去により叶わなかった。
出典:wikipedia
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