白露型駆逐艦(しらつゆかたくちくかん)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。初春型駆逐艦の準同型艦ともいえる艦級であった。なお、白露から春雨までは有明型駆逐艦(ありあけがたくちくかん)に類別されていた時期もあった。当初「マル1計画」で12隻の建造予定であった初春型は過剰な武装のため重心が上昇し、建造は6隻で打ち切られた。そして設計をF45Dと変更、武装を練り直した改良型として建造されたのが「一等白露型」であった。主砲配置は改装後の初春型と同じであるが、仰角を55度に戻したC型が採用されている。魚雷は、6門では少ないとされ海軍初の四連装魚雷発射管を2基装備し8射線を確保した。竣工時には九〇式空気魚雷を搭載していたが、開戦前に九三式酸素魚雷搭載に改造したといわれている。また、改装という形であった初春型とは異なり、設計段階で発生した第四艦隊事件の結果を取り入れ、安定性と船体強度に留意した構造になった本型は、初春型より強度が上がっている。しかし、結局この排水量で満足する性能を持った駆逐艦建造は不可能と判断した海軍は10隻で本型の建造を中止し、より大型の朝潮型駆逐艦の建造に着手することとなる。なお、初春・白露両型は共に規定排水量をオーバーしているが、このことは諸外国には伏せられていた。戦後、海上自衛隊初の国産護衛艦として設計されたはるかぜ型護衛艦のタイプシップの一つとなった。艦艇類別等級別表においては、1933年(昭和8年)12月15日、有明と夕暮は初春型から外され、白露、時雨、村雨とともに有明型駆逐艦として新設された。1934年(昭和9年)10月13日、さらに夕立と春雨も追加されるが、夕暮までと白露以降は設計が変更されており船体構造も大きく異なることから、同年11月19日、有明と夕暮は初春型に復され、有明型は白露型と改められた。第二次軍備補充計画(通称「マル2計画」)で計画された海風以降の4艦は第四艦隊事件の影響で設計が若干改められ、改白露型もしくは海風型と呼ばれることもある。海風型駆逐艦は、設計段階までは実際に使用されたものの、最終的には「白露型駆逐艦」に類別されることになった。変更は主に船体構造であった。外観の特徴としては艦橋形状が変更され、朝潮型、陽炎型と同一形状となった。対空用に採用した40mm単装機銃2挺は、改白露型では13mm連装機銃2基に改められている。また25mm連装機銃2基を搭載したとする文献もある。また第二次軍備補充計画では改白露型を14隻建造の予定であったが軍縮条約脱退もあり4隻で打ち切り、残りは設計を改め朝潮型として完成した。12.7cm連装砲C型2基、同単装B型1基を装備した。これらは最大仰角55度だった。なお白露は単装砲にA型改1を仰角55度に変更したものを搭載した。また夕立の連装砲は写真よりB型改2であることが判明している。大戦後半になり機銃増備のため単装砲は撤去された。日本海軍の駆逐艦で初めて4連装発射管を装備する。当初魚雷は九〇式魚雷だったが開戦までに九三式魚雷に変更した。魚雷本数は昭和18年以降は12本(何時から12本となったかは不明)となっている。上述したとおり竣工時は40mm単装機銃2挺もしくは13mm連装機銃2基だったが、1942年末に九六式二十五粍高角機銃2基と交換、代償重量として予備魚雷2本と格納庫を撤去するよう通達された。その他に艦橋前に25mm連装機銃1基、主砲1基を撤去し25mm3連装機銃1基を装備してあ号作戦時には合計25mm3連装3基、同連装1基となった(白露の例)。残存していた時雨と五月雨にはその後さらに単装機銃が装備され、時雨ではそのために搭載艇の一部を降ろしている。電探(レーダー)は1943年以降、前マストに22号を装備した。その後13号も装備したものと思われる。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると、時雨、五月雨は昭和19年後半の時点で前マストトップに13号電探を搭載した。水中探信儀は1940年の時点で装備されているが竣工時からの装備かどうかは不明。水中聴音機は開戦後の装備のようである。爆雷は大戦中に36個に増備した。初期2隻は後期初春型2隻と駆逐隊を組み、残りの8隻はそれぞれ4隻で駆逐隊を編成した。横須賀鎮守府籍の白露・時雨と初春型の有明・夕暮で編成。1934年(昭和9年)3月1日で解隊した楢型駆逐艦4隻からなる先代に続く四代目の第九駆逐隊である。1938年(昭和13年)12月15日付で佐世保鎮守府の樅型駆逐艦からなる先代第二十七駆逐隊が舞鶴要港部第三十四駆逐隊に転出し、入れ替わりに佐世保に転籍したため、三代目の第二十七駆逐隊となる。白露型の竣工が遅れたために編成には1年半もかかったが、白露・時雨の就役に先駆け、改初春型2隻で一水戦に編入されている。太平洋戦争中は、蘭印攻略・インド洋機動作戦・珊瑚海海戦・ミッドウェー海戦と広範囲で活動し、第二段侵攻作戦のため第四水雷戦隊に転籍して鼠輸送や第三次ソロモン海戦等のソロモン諸島攻防戦に従事した。1943年(昭和18年)7月、第四水雷戦隊の解隊にともない第二水雷戦隊に編入されるも、夕暮・有明が相次いで戦没したため、最後の1年は白露型五月雨・春雨を含めて白露型4隻の駆逐隊となった。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の戦歴は各艦の項目を参照。横須賀鎮守府籍の村雨・夕立・春雨・五月雨で編成。1935年(昭和10年)4月10日に解隊した峯風型駆逐艦4隻からなる先代に続く四代目の第二駆逐隊である。佐世保鎮守府籍の海風・山風・江風・涼風で編成。1937年(昭和12年)5月31日に解隊した楢型駆逐艦4隻からなる先代に続く二代目の第二十四駆逐隊である。
出典:wikipedia
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