ルノーF1()はフランスの自動車メーカー、ルノーが運営するワークス・チームである。2016年からのエントリー名は、ルノー・スポール・フォーミュラワン・チーム(Renault Sport Formula One Team)。本項ではレーシングチームとしての活動のほか、ルノーおよびその子会社のルノー・スポールによるエンジン供給のかたちでのF1参戦についても扱う。フランスに本社を置くヨーロッパ最大(1977年当時)の自動車製造会社であるルノーのF1チームとして、1977年に参戦を開始した。シャシー・エンジンを自製するフルコンストラクターとしては通算35勝を記録しており、2005年と2006年にはコンストラクターズ(製造者)、ドライバーズ(フェルナンド・アロンソ)のダブルタイトルを連覇している。エンジンサプライヤーとしても輝かしい戦績を残しており、F1で使用されるエンジン銘柄としては通算168勝(2015年終了時点、詳細は別項参照)を獲得している。これはフェラーリの225勝、フォード・コスワースの176勝に次ぐ、史上3位の記録となっている。活動組織の法人名は時期により以下の通り変遷している。1970年代、スポーツカーレースにおいてターボチャージャーエンジンを導入して成功を収め、1977年よりエキープ・ルノー・エルフとしてF1に参戦。3リッター自然吸気のフォード・コスワース・DFVエンジンが大勢を占める当時のF1界に、グランプリ史上初の1.5リッターV6ターボエンジンを搭載した車体で「フルコンストラクター」(車体もエンジンも自社で製作するチーム)として参入した。タイヤはミシュラン(F1初のラジアルタイヤを投入)、燃料はエルフ、ドライバーは開発兼務のジャン=ピエール・ジャブイーユというオールフレンチ体制だった。過給器付きエンジンはF1選手権初期にスーパーチャージャー式が使用されたが、その後自然吸気エンジンが主流となり、自然吸気エンジンの半分という排気量制限の枷により、挑戦する者は現われなかった。ターボチャージャーについては、スロットルに対しての反応が遅い「ターボラグ」が指摘されており、グランプリには自然吸気エンジンの方が適していると言うのが当時の常識であった。当然ルノーの挑戦に対してもグランプリでは懐疑的な意見が多かった。実際、参入当初は熟成不足のためもありエンジントラブルで白煙を上げながらリタイアすることが多かったため、その黄色いカラーリングをもじって「イエロー・ティーポット」と揶揄されもしたが、次第に信頼性を上げ実力を発揮し、デビュー3年目の1979年にジャブイーユが地元フランスGPで初勝利を達成した。その後のF1界は、ターボエンジンを搭載した車体で勝利を重ねるルノーに倣って、自然吸気エンジンからターボエンジンへの移行が大きな流れとなった。1981年に加入した新鋭アラン・プロストがエースとなり、ルネ・アルヌーとのコンビで選手権争いに絡んだ。1982年のフランスGPでは、アルヌーがチームオーダーを無視して優勝し、シーズン後にチームを去った。1983年にはプロストがドライバーズチャンピオン争いをリードしたが、終盤戦に失速し、最終戦南アフリカGPでブラバムのネルソン・ピケにタイトルを奪われた。プロストもこの件で責任を負わされ、チームを離脱した。1983年からはロータスやティレル、リジェなど、当時の強豪チームへのエンジン供給も行ない、ロータスのアイルトン・セナとエリオ・デ・アンジェリスにより計5勝をものにした。1983年途中からルノーエンジンを搭載したロータスが、1984年には早くも同じエンジンを積む本家ルノーを選手権順位で上回る結果となったことで、ルノーの車体性能の劣勢が露わとなる。プロストが1983年限りで離脱したこともあって、チーム力の低下は否めず、コンストラクターとしての参戦は1985年に終えた。エンジン供給は1986年まで行ったものの、コンストラクターとしてのルノー、そしてエンジンサプライヤーとしてのルノーともに選手権でのタイトルを何も獲得できないまま、ルノー本社の一時的な経営不振を受け、ルノーにとっての最初のF1挑戦を終えた。グランプリに革命をもたらしたターボエンジンは、1982年にフェラーリがターボエンジンとしては初めてコンストラクターズチャンピオンを獲得し、1983年にはBMWがドライバーズチャンピオンを獲得した。1970年代に隆盛を極めていたフォード・コスワース・DFVエンジンは1982年に最後のドライバーズチャンピオンタイトルを、1983年に最後の優勝を獲得したものの、それが最後の輝きとなり、F1界の1980年代中盤以降はターボエンジンが主流となっていくこととなる。パイオニアとしてターボエンジンを持ち込んでおきながら自身は他社のターボエンジン搭載チームにとうとう勝ち得なかったということはルノーにとって皮肉な事ではあるが、同時に、ルノーが揶揄されながらもターボエンジンをグランプリに持ち込んだ事が間違っていなかったという事は、ターボエンジン搭載車が初タイトルを獲得した1982年以降、規則改正によりその年限りで禁止された1988年まで選手権を席捲し続けたという事実によって証明されることとなった。ターボエンジンの全面使用禁止と3.5リッター自然吸気エンジンの導入が開始された1989年に、ルノーはエンジンサプライヤーとしてF1界に復帰した。この時もルノーは復帰第1作となる「RS1」で、V10エンジンというターボに続く新機軸を持ち込んだ。V10エンジンは共振の問題からF1では採用例がなく、ルノーとホンダが初めて導入した。ルノーの場合、ターボ時代のパートナーだったロータスに「シャーシ側からみて、どのような構造のエンジンが望まれるか」と相談し、その返答から導かれた選択であった。ホンダを初め、他メーカーがV12エンジンに移行する中、ルノーはニューマチックバルブ(従来の金属ばねではなく、圧搾空気を用いて吸排気バルブを制御する方式)を搭載して高回転化を実現。トラクションコントロールの開発など、エンジン単体よりも、車体も含めたトータルパッケージを重視する路線を打ち出した。これらの技術・思想はターボ時代の馬力至上主義を払拭し、1990年代以降のF1エンジンのスタンダードとなった。まずはウィリアムズへの独占供給を開始し、後にリジェ、ベネトンにもエンジンを供給するようになった(リジェには1992年から1994年にカスタマー仕様を供給)。最初の2年こそ、当時隆盛を極めていたホンダエンジン搭載のマクラーレンの後塵を拝することが多かったが、1992年から1997年にかけては、エンジン供給先のウィリアムズとベネトン(1995年からエンジン供給開始)の両チームがコンストラクター(車体製造者)部門のタイトルを6年連続、ドライバー部門のタイトルを計5回(詳細は別項参照)獲得した。9年間に75勝という勝利数は、ほぼ同期間(1983年-1992年)にウィリアムズやマクラーレンなどにエンジンを供給していたホンダの69勝をしのぐもので、1990年代のF1界において最強エンジンサプライヤーの名をほしいままにした。特に1995年はルノー勢がシーズンを圧倒し、ベネトン・ルノーとウィリアムズ・ルノーの2チームで年間全17戦中16勝を収めた。過去にはフォード・コスワース勢が年間全勝した1969年(全11戦)、1973年(全15戦)の例があるが、年間の勝利数としては、ルノーが樹立したこの16勝という記録が、2015年終了時点でもエンジンサプライヤーとしての最多勝記録となっている。加えて、長年ルノーの悲願とされてきたモナコグランプリ制覇もミハエル・シューマッハによってこの1995年に初めて達成されている。1996年フランスGP中に、翌年末をもっての撤退を発表した。当時経営不振に陥っていたルノーのリストラ策の一環としての苦渋の選択であった。また、撤退の理由のひとつとして、“もはやルノーがグランプリで勝ってもニュースとなることはなく、ルノーが負けた時にのみニュースとなる”ことへの嫌気が挙げられた。ルノーは1997年シーズンの終了をもって、F1でのエンジンサプライヤーとしての活動を終了する旨を発表したが、その後も1997年シーズンのルノーエンジン「RS9」をベースとしたエンジンが供給された。このエンジンは元々カスタマー仕様のルノーエンジンの供給を請け負っていたメカクローム社が製作し、元ベネトンのフラビオ・ブリアトーレが販売権利を取得の上、スーパーテックの名称で販売され、ベネトン(1998年から2000年まで一貫して自社のブランドネーム・プレイライフのバッジを付けてプレイライフエンジンと呼ばれていた)、ウィリアムズ(1998年のみメカクロームの名称。1999年まで供給)の旧ルノーユーザーだけではなく、B・A・R(1999年)、アロウズ(2000年)といったコンストラクターにも供給された。なおメカクロームでは、2005年からは、ルノーブランドでのGP2のエンジン開発、供給を行っている。スーパーテックエンジンは型遅れのエンジンであり、戦闘力はフェラーリやメルセデスと言ったワークスエンジンには遠く及ばなかったものの、これらのエンジンに比べて比較的手に入れやすいエンジンであったため、多くのチームがスーパーテックの恩恵に預かる事となった。このスーパーテックの活動はワークスとしてのルノーが復活する2000年まで続けられた。この間に蓄積されたデータは、その後のルノーのF1活動にフィードバックされることとなる。その後2000年3月15日に、かつてエンジン供給を行っていたイタリアのファッションブランドであるベネトン社が所有していたベネトンF1チームを買収する形でコンストラクターとしてのF1復帰を発表。当初は2002年シーズンを目標に新規参入を計画していたが、1年前倒しで1200万ドルで買収し参入をはたした。2001年はコンストラクター登録期限の関係で「ベネトン・ルノー」として参戦。2002年に「マイルドセブン・ルノーF1チーム」として17年ぶりにコンストラクターとして復帰した。この際に、2005年までにコンストラクター部門でのタイトルを獲得するという目標を掲げた。ルノーによるワークスエンジン供給を打ち切られた後には一時低迷していたベネトンチームであったが、ルノーとなってからは次第に競争力を取り戻し、ベネトン時代にチームをチャンピオンに導いたイタリア人指揮官のフラビオ・ブリアトーレの下、マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズなどに並び、F1を代表する強豪チームの一角に返り咲いた。技術部門はテクニカルディレクターであるマイク・ガスコインの指揮下、ふたつのデザインチームが交互に開発を担当するローテーション制を導入。Vバンク角111度という低重心型のエンジンを投入し、ミシュランタイヤに特化した車両開発を進めた。2003年にはフェルナンド・アロンソがハンガリーGPで初優勝し、ルノーのフルワークスチームとして1983年以来の勝利を獲得した。2004年にはヤルノ・トゥルーリのドライブにより、ルノーチームにとって念願のモナコGP優勝を果たした。2005年シーズンはティム・デンシャム率いるデザインチームの手になる「R25」に、フェルナンド・アロンソとジャンカルロ・フィジケラの2人のトップクラスのドライバーを揃えた。R25の高い戦闘力と信頼性を武器にシーズン前半から勝ち続け、後半マクラーレン・メルセデスの猛追を振り切り、最終戦の中国GPでコンストラクター(車体製造者)部門のタイトルを獲得した。最終的に、全19戦中開幕4連勝を含む8勝をあげ、シーズン累計で191ポイントを獲得した。また、第17戦ブラジルGPにおいて、アロンソがシーズン終了まで2戦を残してドライバー部門のタイトルを獲得した(シーズン累計で計133ポイントを獲得)。アロンソは、スペイン人としては初のチャンピオンとなり、同時に、1972年シーズンのエマーソン・フィッティパルディの記録(25歳273日)を更新する、当時F1史上最年少(24歳58日)のドライバーズチャンピオンとなった。アロンソはシーズン後、2007年よりマクラーレンに移籍することを発表した。コンストラクターの「ルノー」としては、コンストラクター部門、ドライバー部門ともに初のタイトル獲得となった。レギュラードライバーは前年と同じで、テストドライバー兼リザーブドライバーだったフランク・モンタニーがチームから離脱し、後任には、2005年には第2テストドライバーを務め、GP2でシーズンランキング2位になったフィンランド人ドライバーのヘイキ・コバライネンが就いた。第2戦マレーシアGPで、フィジケラ 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アロンソの順で1-2フィニッシュを果たした。これはベネトンを買収した「100%ルノー」になってからは初めてのことで、エキープ・ルノー時代を含めても、1982年フランスGPでのルネ・アルヌーとアラン・プロストによるもの以来、実に24年ぶりで2回目のことであった。シーズン中盤までは快調だったが、R26に搭載する「マスダンパー」の使用禁止により戦力を削がれ、フェラーリによる猛追を受けた。両選手権とも終盤に一時的に逆転を許したものの、ドライバーズ選手権はその後再逆転し、最終戦である第18戦ブラジルGPにおいて、アロンソが2位で入賞しドライバーズタイトルを獲得。また同時にコンストラクターズタイトルも獲得し、2年連続のダブルタイトル獲得となった。EUによるタバコ広告への規制強化に伴い、ベネトン時代の1994年以降長年に渡ってチームのタイトルスポンサー(メインスポンサー)を務めてきた日本たばこ(マイルドセブン)は2006年シーズンをもって撤退した。2007年シーズンからオランダの保険会社INGグループがタイトルスポンサーとなり、エントリー名は「ING・ルノーF1チーム」となった。移籍したアロンソに代わり、テストドライバーのヘイキ・コバライネンがレギュラードライバーに昇格し、ジャンカルロ・フィジケラとコンビを組んだ。テストドライバーにはトヨタから移籍のリカルド・ゾンタと、かつてのF1チャンピオンの息子であるネルソン・ピケJr.が新たに就任した。この年は、新たに採用されたブリヂストンワンメイクタイヤの特性にマシンを合わせられず、さらに風洞施設の計測誤差で、R27は優勝を狙えるマシンではなかった。最高位は日本GPでのコバライネンの2位。また、この年より他チームへのエンジン供給を再開し、レッドブル・レーシングへカスタマーエンジンを供給するようになった。マクラーレンからアロンソが復帰し、テストドライバーから昇格したピケJr.とコンビを組む。サードドライバーに2007年GP2ランキング2位のルーカス・ディ・グラッシ、テストドライバーとして2007年F3ユーロシリーズ・チャンピオンでルノードライバー養成プログラムのロマン・グロージャンと山本左近が発表された(但し、ディ・グラッシがスーパーライセンスを保有していなかったことから、リザーブドライバーとしては山本とグロージャンの二人が登録され全戦に帯同することとなった)。第9戦ドイツGPでピケJr.が2位表彰台を獲得。初のナイトレースとして行われた第15戦シンガポールGPでは、アロンソがチームにとって2006年日本GP以来となる勝利を果たした。アロンソは次戦日本GPでも勝って連勝を成し遂げた。しかし、シンガポールGP優勝の背景には、アロンソが優位になるようにピケJrに故意のクラッシュを行わせたという不正行為があり、2009年にチーム体制を揺るがすスキャンダルに発展することとなる。新たにトタル(エルフの親会社)やヒューレット・パッカードとテクニカルパートナー契約を結んだが、開幕前にタイトルスポンサーであるINGグループが、2009年シーズン限りで撤退することを発表した。ドライバーラインナップは2008年と同じくアロンソとピケJr.。新車R29はKERSの熟成不足などで不振が続き、アロンソがポールポジション1回(第10戦ハンガリーGP)、ファステストラップ1回(第9戦ドイツGP)を獲得するにとどまった。シーズン途中に、チームは成績不振のピケJr.を解雇し、テストドライバーのロマン・グロージャンをレギュラーに昇格させた。ネルソン・ピケJr.を解雇した直後の8月末、2008年シンガポールGPでチームがピケJr.に故意にクラッシュするよう命じていたという疑惑が浮上した。このレースでは予選13位からスタートしたアロンソがピットインした直後にピケJr.がクラッシュし、セーフティカーが出動した結果、アロンソが大きく順位を上げて優勝した。ピケJr.本人が真相を国際自動車連盟 (FIA) へ告発し、チームの首脳フラビオ・ブリアトーレとパット・シモンズとの間で、事前に実行する周回数や場所を打ち合わせたと証言した。ルノーはピケJr.および父のネルソン・ピケに対して法的措置をとると表明したが、その後態度を変えてピケ親子の供述に異議申し立てを行わず、ブリアトーレとシモンズのチーム離脱を発表した。ブリアトーレに代わるチーム代表にはボブ・ベルが就任した。世界モータースポーツ評議会は、ルノーに対して2年間の執行猶予付の参戦資格剥奪という有罪判決を下した。ブリアトーレとシモンズにはモータースポーツ競技からの追放処分が下されたが、民事裁判を経て処分が緩和された。FIAによるこの裁定は、事件が人命に危険性がある非人道的な行為かつ、FIAスポーティングレギュレーション第39条の1項「チームオーダー」に違反していたことにもかかわらず「事実上ペナルティーなし」であった。2007年に起こったマクラーレンのスパイゲートなどと比較され、あまりにも寛大な措置であるとして批判された。世界同時不況によりホンダとBMWが撤退した後、ルノーもこれに続くことを怖れたFIAの配慮ではないかと考えられた(この事件後にはトヨタも撤退を表明した)。この騒動の余波を受けて、タイトルスポンサーであるINGグループと主要スポンサーであるムトゥア・マドリーニャ (Mutua Madrileña) が即時に契約を終了することを発表した。シンガポールGPでは、今までINGと書かれていたマシンのスペースをRENAULTに変えて参戦した。ルノーはメーカー系ワークスチームの中でも本社からの支援額が少なく、ときおり撤退の噂が流れた。2005年末にも2006年シーズンをもって撤退するという噂が流れたことがあったが、これは2006年のR26発表の際、ルノーのカルロス・ゴーン会長が否定し、2007年以降も参戦を続けることを明らかにした。しかし、同会長はその年その年の「成績、コスト、費用対効果、本業の業績、2008年以降のレギュレーション議論の行方」などを見たうえで判断を下すとの見解も明らかにしており、ルノーがフェラーリのごとく永続的にF1参戦を続けるとする見解は少数派となっていた。クラッシュゲート発覚後の2009年12月16日、ルノーが保有するルノーF1の株式の大部分がルクセンブルクの投資会社「ジェニー・キャピタル」に売却されたことが発表された。一方で、少なくとも2010年シーズンに関しては従来通り「ルノーF1」としてF1に参戦すること、またレッドブル・レーシングへのエンジン供給も継続されることが同時に明らかにされた。この際2011年以降のチームの扱いについては発表されなかったため、ルノーがチームに対する関与を段階的に減少させ、遠くない未来にF1から撤退するのではないかとの憶測が飛ぶこととなる。また、ロシアのウラジーミル・プーチン首相がルノーF1チームを支援することを発表した。この背景にはロシア人初のF1ドライバーであるヴィタリー・ペトロフと契約したことによる影響が大きいとみられ、EFE通信にも「協力の大きなシンボル」と語っている。この発表の前にルノーのゴーン会長と、プーチン首相とで会談を行い、今後も財政的な支援を拡大させていく姿勢を明らかにした。この契約により、この年のルノーのマシンには、ルノーが資本参加していたロシアの自動車会社アフトヴァース社の国内外向けブランド「ラーダ」のロゴが掲載された。さらにロシアの造船会社であるヴィボルグ社とスポンサー契約をしたと9月21日に発表された。チーム代表職はクラッシュゲート後に臨時的にボブ・ベルが務めていたが、2010年1月5日にかねてより噂のあったグラビティスポーツマネジメント社のエリック・ブーリエが後任となることが発表された。ドライバーは、前年限りで離脱しフェラーリに移籍したアロンソ、チームから解雇されたロマン・グロージャンに代わって、BMWザウバーの撤退でシートを失っていたロバート・クビサ、セカンドドライバーとして、初のロシア人F1ドライバーとなるヴィタリー・ペトロフがレースシートを得た。サードドライバーとしては、ホーピン・タン、リザーブ兼テストドライバーとしてジェローム・ダンブロジオ、ヤン・シャロウズがそれぞれ決定した。新体制初年度はクビサが3位表彰台を2度獲得。マルチディフューザーやFダクトの熟成により、後半戦は他チームにとって脅威となる存在感を示した。2010年12月8日には、ルノーが保有する残るルノーF1の株式を「グループ・ロータス」(プロトン傘下のロータス・カーズを中心としたグループ)に売却し、エントリー名を「ロータス・ルノーGP」と改めることが発表された。この結果、2011年のみコンストラクター登録としては「ルノー」のままとなるものの、ルノーはチーム運営や車体開発からは2010年限りで手を引き、2011年以降はエンジン供給のみを行うこととなった。この背景には、2010年にルノーエンジンを積むレッドブルのセバスチャン・ベッテルがドライバーズタイトルを、レッドブル・レーシングがコンストラクターズタイトルを獲得し2冠を達成したにもかかわらず、ワークス・チームが存在するためにこれらの成果をプロモーションに利用することが難しく、ワークスの存在がむしろマイナスの方向に働いていることも指摘された。前述の通り、2011年に関しては車体開発から撤退し、ルノーはエンジン供給のみを行う。ルノーがチーム運営から手を引いたことで、“ロータス・ルノーGP”チームの国籍登録もフランスではなく、本拠地と車体開発ファクトリーが置かれているイギリスに変更となった。ルノーエンジンの供給先は、新生「ロータス・ルノーGP」、レッドブル・レーシングという従来の2チームに加え、前年から参戦している新チームであるチーム・ロータスが加わり3チームとなった。ロータス・ルノーGPのドライバーは2010年シーズンと同じくクビサとペトロフ、テストドライバーはタン、ファイルーズ・ファウジー、ブルーノ・セナ、そして2009年シーズン以来の復帰となるグロージャンが務めると発表された。しかし、2011年2月6日に、イタリアでラリーに参戦していたクビサがクラッシュにより負傷、長期離脱を余儀なくされた。そこで、2010年シーズンいっぱいでレースシートを失っていたニック・ハイドフェルドがクビサの代役として参戦することになった。クビサの代役として見込まれたハイドフェルドだったが、結果的にチームの期待に応えることはできず、シーズン中盤のベルギーGPからはブルーノ・セナがレースシートに座ることとなる。次戦イタリアGP前にハイドフェルドはチームを正式に離脱することとなった。新車両のR31は前方排気レイアウトを採用し、シーズン当初は2人のドライバーがそれぞれ表彰台に登るなど競争力があるように見えたが、実際は予想したほどダウンフォースが発生しないことがシーズン前の最初のテストからわかっており、すぐに成績は低迷した。何とかコンストラクターズ選手権は前年同様5位は確保したものの、4位のメルセデスGPとは90ポイント以上離され、6位のフォース・インディアとは4ポイント差しかなく、シーズン終了後にはテクニカル・ディレクターのジェイムズ・アリソンをしてR31は「失敗した実験」と言わしめた。ロータス・ルノーGPは2012年からエントリー名は「ロータスF1チーム」、コンストラクター名は「ロータス」に変更になった。2011年は名称が残っていただけではあったが、これにより2002年から続いたコンストラクターとしてのルノーの活動は完全に終了した。チーム株式の完全売却後、2010年12月8日にルノーは新組織ルノー・スポールF1の設立を発表した。ルノー・スポール時代よりエンジン開発を行っていたフランスのヴィリ-シャティオンを拠点として、引き続きF1エンジンの開発・供給を行うためである。同社は、当時検討されていた、2013年から1.6リッター直4ターボを導入するという計画を支持し、この案の延期が検討されるとF1からの撤退を示唆したが、最終的には2014年より1.6リッターV6ターボを導入するという修正案に同意した。2012年にはロータス、レッドブル、ケータハム(前年の「チーム・ロータス」が名称を変更)に加えて、ウィリアムズへのエンジン供給も開始し、1990年代を席巻した「ウィリアムズ・ルノー」のタッグが復活することになった。エンジン供給先ではレッドブルとの関係がより密接になっている。両者はオフスロットル・ブローイング(エンジン排気の空力的利用)という新分野を開拓して、2011年シーズンを席巻した。2011年9月には、レッドブルへのエンジン供給を2017年まで継続し、V6ターボ開発でも協力することが発表された。レッドブル代表のクリスチャン・ホーナーは「レッドブルはルノーのワークスチーム」と発言している。また、ルノーの資本提携先である日産自動車の高級車ブランド「インフィニティ」がレッドブルのスポンサーとなり、技術面での関係強化も進められる。2012年は前年ほど圧倒的な成績ではないものの、レッドブルのセバスチャン・ベッテルの駆るRB8により、ドライバーズ、コンスタクターズの両チャンピオンを3年連続で獲得。RS27のオルタネータトラブルが頻発し信頼性に影響を与えたシーズンであった。2006年から続いたV8エンジン規定の最終年となる2013年は、レッドブルのRB9を駆るセバスチャン・ベッテルが圧倒的な成績で4年連続チャンピオンに輝いた。コンストラクターズタイトルもレッドブルが獲得し、両タイトルで4連覇を達成した。2014年はエンジンの規定に大きな変更があり、それまでの2.4リッターV8自然吸気エンジンが、1.6リッターV6ターボエンジンにエネルギー回生システム(ERS)も含めた“パワーユニット”に改められた。ルノーが用意したルノーエナジーF1-2014は、2013年まで供給していたレッドブル、ロータス、ケータハムに加え、トロ・ロッソに供給された。トロ・ロッソが加わった一方で、ウィリアムズは離脱したため、この年も4チームに“パワーユニット”を供給することとなった。前年までは選手権を席巻したレッドブル・ルノーだったが、この年はメルセデスエンジンの圧倒的な強さの前に苦杯をなめさせられ、3レースで優勝しコンストラクターズランキングでは2位を確保したものの、年間16勝を挙げタイトルを獲得したメルセデスワークスチームに大きく水を開けられる結果となった。レッドブル以外のルノーエンジン搭載チームにいたっては、いずれもメルセデスエンジン搭載チームの下位に甘んじる結果となった。そうした事態を受けて、同年末にルノーはイルモアとの提携を発表し、開発体制の再構築を行うことになった。2015年はロータスがメルセデスに変更、ケータハムがF1から撤退したため、レッドブルとトロ・ロッソの2チームへの供給体制となったが、前年に引き続きパワー不足と信頼性の低さに悩まされ低迷。これに業を煮やしたレッドブルとトロ・ロッソはルノーとの供給契約を2015年一杯で打ち切ることを決断する。トロ・ロッソはフェラーリの1年落ちのエンジンを供給されることが決まったが、レッドブルは他のエンジンメーカーからの供給を拒否されたため、引き続きルノーエンジンの供給を受けるものの「タグ・ホイヤー」のバッジネームを付けて2016年シーズンを戦うことが決定した。一方、ルノーは、フルワークスチームでの参戦を再開する道を模索し、2000年代のルノーワークスチームを前身とするロータスチームを再買収する交渉を行っていた。当時破産寸前となっていたロータスとの交渉は9月28日には基本合意に至り、12月3日にルノーのフルワークスチームとしての復帰が正式に発表された。買収額は「1ポンド」だが、これとは別にロータスが抱えていた負債の支払いも行った。2月3日、チーム体制発表会にてチーム名を「ルノー・スポール・フォーミュラワン・チーム(ルノー・スポールF1チーム)」とすること、新車RS16、ドライバー体制(ジョリオン・パーマーとケビン・マグヌッセン、リザーブドライバーはエステバン・オコン)が発表された。ドライバーについては当初、パストール・マルドナドを起用する予定だったが、スポンサーのPDVSAの経営難により資金提供の折り合いがつかなくなりチームを離脱。代わってマグヌッセンが契約し参戦する事となった。第4戦ロシアGPでマグヌッセンが7位に入賞し、F1復帰後初ポイントを獲得した。
出典:wikipedia
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