豊川市(とよかわし)は、愛知県の東三河に位置する市である。計量特定市。豊川稲荷(豊川市豊川町1番地)の門前町から発展し、曹洞宗の専門僧堂を有する。市名の豊川(とよかわ)の由来は、律令制の宝飯郡豊川郷。愛知県内に「豊」の付いた自治体名が多いが、最古はこの豊川市で、8世紀の木簡から確認できる。2006年(平成18年)2月1日に宝飯郡一宮町を、2008年(平成20年)1月15日に同郡音羽町、御津町を、2010年(平成22年)2月1日に同郡小坂井町を編入合併した。この結果、県内7位の人口を有する都市となった。また、面積で瀬戸市、一宮市、東栄町を抜き、県内9位に浮上。可住地面積で、安城市、新城市、稲沢市、春日井市を抜いた。合併の際、新市名候補として「穂の国市」の案もあったが、市民アンケートにより「豊川市」に落ち着いた。東名高速道路や国道1号、国道23号、国道151号、国道362号などが通っており、東三河の道路交通の要衝となっている。豊川稲荷や御油の松並木は全国的に有名で、歴史的建造物なども数多くある。また、冬の晴れた日には、市内各地から富士山を眺めることができる。愛知県の東部に位置する。市の東部には豊川(とよがわ)、西部には音羽川、中心部には佐奈川などが流れ、市南西部にある三河湾に注ぐ。市の北部は主に山地で、ゴルフ場が多数存在する。市の平野部は、鎌倉時代の『東関紀行』に、既に本野が原の名称で呼ばれており、1934年(昭和9年)の豊川海軍工廠開設までは小集落で、入会の山林が広がっていた。穂ノ原地区は工業地区となっており、陸上自衛隊の豊川駐屯地もある。市では中心市街地の区域を、公共機関や商業施設などが所在する「諏訪地区」、豊川稲荷の門前町として発展した「豊川地区」、両地区をつなぐ「中央通地区」の3地区122.4ヘクタールとし、「中心市街地商業等活性化基本計画」を策定して中心市街地の開発促進に取り組んでいる。ただ、元々が個々に中心地を形成していた4町村による合併で誕生した市であるために、戦後もそれら旧町村が形成していた市街地の間を埋める形で市街地が形成されていったことに加え、市名を冠している豊川駅が市の中心駅として機能しておらず、その機能は各地区に所在するいくつかの駅に分散されているのが特徴であるために、市街地が広範に連続して広がっているものの、市としての中心市街地の形成が思うに任せず、都市の規模の割に大規模な商業施設などの進出も遅れ、長らく購買人口が近隣都市に流出している状況にあった。国道1号が市の西部を、国道23号が市の南西部、国道151号が市の東部から南部を通る。また、姫街道と呼ばれる通りが市内を東西に貫いている。鉄道路線は4路線あり、前述の幹線道路とほぼ並行している。春になると佐奈川や音羽川、桜トンネル(市役所の近くにある桜並木)の桜が咲き、街を彩る。夏には市内各地で祭りが開かれ、大変賑わう。比較的温暖な気候であるため、冬でも雪はほとんど降らない。豊川市の地名を参照。市内の土地の利用状況(2013年現在)をみると、農用地が3,370haで、森林が5,856ha、原野が78ha、水面・河川・水路が705ha、道路が1,359ha、宅地が2,833ha、その他が1,955haとなっている。より詳しくは、以下の通り。太平洋側気候に属し、比較的温暖な気候である。ただし冬場(12月 - 3月頃)の最低気温に関しては、摂氏0度を下回るのが一般的である。律令制の宝飯郡豊川郷にあたる。律令時代には国分寺が設置された。鎌倉時代になって、鎌倉街道が整備されると、豊川宿として機能した。鎌倉時代の史書では、『海道記』に「豊河の宿」、『東関紀行』に「豊川といふ宿」と記載される。三河裁判所(豊橋市関屋町)の廃止に伴い、慶応4年(1868年)から明治2年(1869年)まで東海道赤坂宿の代官所が三河県の県庁(豊川市赤坂町)として用いられた。第二次世界大戦中は、市内に豊川海軍工廠があったことにより空爆の標的にされ、大きな被害を受けたが、終戦後、工廠跡周辺に多くの工場や商店ができ、工業・商業地域となった。高度経済成長期には市外からの流入人口も増え、戦争によって激減した人口も市制施行時と同じ水準にまで回復した。豊川市内の文化財の指定件数(2014年1月20日現在)は、以下の通り。
出典:wikipedia
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