ドミートリー・アナトーリエヴィチ・メドヴェージェフ(、、、1965年9月14日 - )は、ロシア連邦の政治家。現在、同国首相(第10代)。大統領(第3代)、ヴィクトル・ズブコフ内閣での第一副首相などを歴任した。1965年9月14日、ソビエト連邦時代のレニングラード(現:サンクトペテルブルク)に生まれる。両親はともに教育者で、父アナトーリー・アファナシエヴィチ・メドヴェージェフはの物理学教授で祖父アタナシウス・フョードロヴィチ・メドヴェージェフとともにソ連共産党員であり、母ユリア・ベニアミノブナは教育大学でロシア語とロシア文学を教えていた。なお兄弟はおらず、一人っ子であった。知識人層の家庭だったものの、メドヴェージェフは40m² の広さのアパートメントで育つ。少年時代のメドヴェージェフは成績優秀な学生で、将来は法律家になる夢を持っていた。また、カヤックなどのスポーツや写真撮影、読書(ブーニンやチューホフ、ドストエフスキーの作品など)、ロック音楽に熱中した。1987年にレニングラード大学(現:サンクトペテルブルク大学)法学部を卒業し、同大学院に進学する。1990年には専門の私法分野で博士号を取得した。その後、1990年から1999年までサンクトペテルブルク大学で非常勤講師として教壇に立ち、法律専門家として私法の教科書を共著で執筆した。その一方で、大学時代にアナトリー・サプチャークと出会ったことがきっかけで政治に関わることになる。1989年にサプチャークが人民代議員大会に出馬すると、その選挙運動に参加した。そして1990年にサプチャークがレニングラード市ソビエト議長に就任すると、同年にメドヴェージェフは議長参事官に就任した。この時、同じく参事官だったのが、同郷かつ大学の同窓でもあるウラジーミル・プーチンであり、当時はメドヴェージェフの同僚として働いていた。1991年まではソ連共産党に所属していた。1991年から1995年までメドヴェージェフはプーチンが議長を務めるサンクトペテルブルク市渉外委員会で法律顧問として働いた。1994年にプーチンが同市の第一副市長になるとプーチンの顧問も兼任した。1999年8月にプーチンが首相に就任すると、プーチンはサンクトペテルブルク出身者(いわゆる「サンクト派」)を要職に登用するようになる。メドヴェージェフもその中の一人であり、同年11月にロシア連邦政府官房次長に任命される。さらにプーチンが同年12月31日に大統領代行に就任すると、それに伴いロシア大統領府副長官に就任する。2000年の大統領選挙では、プーチン陣営の選挙対策本部責任者としてプーチンの大統領当選に貢献し、ロシアにおいて最も有力な政治家の一人に台頭する。大統領選後の2000年6月3日には大統領府第一副長官に昇格した。同時に、2000年から2001年までガスプロムの取締役会議長(会長)、2001年から2002年まで副会長、2002年6月30日から再びガスプロム会長を務めた。その後、2003年10月30日にアレクサンドル・ヴォローシンの跡を追って大統領府長官に就任する。さらに2005年11月14日にはプーチンによって第一副首相に任命される。第一副首相としてメドヴェージェフは保健・教育・住宅建設・農業の4分野の改革で社会基盤の整備を目指す「優先的国家プロジェクト」を担当した。第一副首相就任に伴い、同じく第一副首相だったセルゲイ・イワノフ、2007年9月に首相に就任したヴィクトル・ズブコフなどとともにプーチン後継の最有力候補の一人と取り沙汰されるようになる。そして2007年12月10日、プーチンは翌2008年実施の大統領選挙で自身の後継者としてメドヴェージェフを指名した。これに続き、政権与党である統一ロシアや、公正ロシア、ロシア農業党、市民勢力、緑の党、ロシアの愛国者などの諸政党も大統領選挙の候補者にメドヴェージェフを擁立することを決定した。一方、指名を受けたメドヴェージェフは大統領選挙後にプーチンを首相に指名する意向を示した。また12月20日、ロシア中央選挙管理委員会に大統領選への立候補を申請した後、大統領に当選した場合はガスプロムの会長職を退くことを表明した。選挙公約としては、中小企業への支援や司法改革、汚職対策などを掲げた。その後2008年3月2日に大統領選挙が行われ、メドヴェージェフは下馬評通りに圧勝した。勝利後、メドヴェージェフはプーチン路線を継承すると発言した。メドヴェージェフは2008年5月7日にロシア連邦第3代大統領に就任した。就任演説では市民と経済の自由を擁護することを最重要課題として掲げた。同日、かねてから言及していたとおり、プーチンを首相に指名し、翌8日に連邦議会下院でも承認された。このためプーチンとの「タンデム体制」による政権となった。大統領選で公約に掲げていたように、メドヴェージェフは汚職対策に積極的に取り組んだ。大統領就任後の同年5月17日にメドヴェージェフは汚職対策を行うための大統領令に署名し、それに伴い「反汚職評議会」が設置された。同年7月には具体的な汚職対策を含んでいる「反汚職国家計画」に署名した。同年8月7日、グルジアが南オセチアに侵攻した時はヴォルガの川下り船中で夏期休暇中であり、プーチンも北京オリンピックの式典に出席していたため、完全に間隙を突かれる形となった。翌8月8日にロシア連邦軍がグルジアとの戦闘を開始。メドヴェージェフはこの進軍を南オセチア内に居住するロシア人の保護のためであると説明した。その後メドヴェージェフは8月12日に戦闘停止を表明し、欧州連合(EU)議長国であるフランスの大統領ニコラ・サルコジの調停もあり8月16日に和平合意文書に署名した。そして8月25日に連邦議会上院が全会一致で南オセチアとアブハジアの独立承認をメドヴェージェフに求める決議を行うと、メドヴェージェフはこれを受けて翌8月26日に南オセチアとアブハジアの独立を承認するという大統領令に署名した。その後も、ロシアの軍事行動を厳しく批判するアメリカに対しては不信感を表明した。8月28日に南オセチア紛争について開かれた上海協力機構の首脳会議の冒頭では、「自国の利益のためにグルジアを唆す国がある」として暗にアメリカ合衆国を非難した。「ロシアをG8から追放すべき」という主張に対しては、9月2日にイタリアのテレビ局とのインタビューで「G8はロシア抜きでは成り立たない。我々はG8からの除名を恐れない」と発言した。また、こうした動きが出ているのは「大統領選で共和党の支持率を上げるためのブッシュ政権による陰謀である」と主張した。同年11月5日、大統領就任後初となる年次報告演説を行った。その中でメドヴェージェフは、大統領の任期を4年から6年、下院議員の任期を5年に延長することや、地方議会の議員から上院議員を選出することなど、統治機構の改革を提案した。また、アメリカが東ヨーロッパにミサイル防衛システムを配備する計画をしていることに対抗し、ヨーロッパ内にあるロシアの飛地のカリーニングラード州に地対地ミサイル「イスカンデル」を配備することを表明した(ただし後日、アメリカ側がミサイル防衛計画を白紙撤回するならば、ミサイル配備を取りやめると表明した)。この中の統治機構改革案については、同年11月から12月にかけて上下両院及び全地方議会で憲法改正が承認された後、同年12月30日にメドヴェージェフが署名し、翌31日に発効された。2012年5月7日に大統領の任期満了を迎え、プーチンが後継の大統領に就任したことに伴い、プーチンと入れ替わる形で首相に就任した。メドヴェージェフはプラグマティストであり、有能な行政手腕の持ち主である。その経歴からシロヴィキには含まれないが、シロヴィキの路線に同調し、プーチンに対して常に忠実な支持を与えてきた。その一方で、ロシア国内外で比較的、自由主義的な政治観を持った政治家と見なされており、大統領府副長官ウラジスラフ・スルコフなどが提唱する「主権民主主義」にはリベラル派として「批判を許さない民主主義はない」と異議を唱えたとも伝えられる。また大統領就任後も、統一ロシアの議員が起草したメディア規制法案の廃案を求めるなどリベラルな一面を見せている。2008年12月12日のロシア憲法採択15周年記念式典では、メドヴェージェフが演説している最中、憲法改正に異を唱える野次が聴衆から投げ付けられ、その人物を強制的に退出させようと駆け寄った警備局員を「放っておけ。いろいろな意見があって構わない。この憲法はそのために作られたのだから」と制止したメドヴェージェフに聴衆から拍手が起こり、この模様はロシアのテレビニュースで放映された。しかし、2008年のロシア大統領選挙では、多くの自由主義的ないし政権に批判的な政党、候補者が立候補を阻止されたことに対しては何ら批判的な見解を述べておらず、国内外にリベラル派としての知見が真実なのか疑念を持たせている。また、メドヴェージェフのこれまでの経歴が補佐役としての域を出ていないことから、大統領退任後も首相に就任し、政治的影響力を維持するプーチンとの二頭政治(双頭政治)の推移とともに指導力を発揮できるかが今後の焦点とされる。2009年に入り、独自色の強い人事刷新に乗り出したり、プーチン内閣の金融危機への対応を「遅い」と率直に批判するなどした。これらのことにより、「プーチンとの関係に隙間風が吹いている」、「双頭体制に変化の兆しが現れている」といった観測も出ている。また、2009年11月21日に開催された与党「統一ロシア」の党大会で、党首であるプーチン首相の面前で「選挙は民意の表明であるはずなのに、民主的な手続きが行政手続きと混同されていることがある」と統一ロシアを批判した。これについて、メドヴェージェフ・プーチン両者の陣営が水面下で権力争いを始めたの観測も出ている。2011年に入ったあたりから、プーチンとメドヴェージェフの関係悪化が盛んにロシア国内外のメディアで取り上げられるようになり、また、両者の発言の一致性に齟齬が生じている。2011年3月のリビアへの多国籍軍の空爆を「まるで十字軍を見ているようで容認できない」と痛烈に批判したプーチンに対し、メドヴェージェフは「私の考えは首相とは異なる」と発言した。また、獄中のロシアの豪商ミハイル・ホドルコフスキーの扱いについて、プーチンが数十年でも収監されるべきと言う姿勢を見せているのに対し、メドヴェージェフはホドルコフスキーは危険な人物ではないので釈放しても良いという姿勢を示している。更に、旧ソビエト連邦最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフが「統一ロシアは旧ソ連共産党のできの悪いコピーだ。プーチン首相の大統領復帰など論外」とメディアで語ると、メドヴェージェフはその直後にゴルバチョフをクレムリンに招き、最高位の国家勲章を授与し、周囲を驚かせた。5月には、メドヴェージェフが内外の記者を集めて長時間会見を行ない、「『従来の継続』(プーチンの大統領復帰を婉曲的に表現)ではロシアの近代化は進まない。新たな発展段階に入っている」と語り、続投へ強い意欲を見せたものの、2011年9月24日の統一ロシアの党大会にて2012年3月の大統領選候補者にプーチンを推薦した写真参照。メドヴェージェフは南オセチア紛争後の2008年8月31日に以下の5つからなる「外交の5原則」を表明した。この「外交の5原則」を表明した演説の中でメドヴェージェフは「ロシアには他の国と同じように特権的利益を持っている地域がある」と発言し、その「特権的利益を持っている地域」を保持していくという考えを示した。「特権的利益を持っている地域」とはロシアの国境付近の地域を含むが、その地域に限定しないと述べた。さらにメドヴェージェフは、居住する場所に関係なく、ロシア人の生命を保護すると語った。それでもロシアは孤立を求めず、欧米諸国や他の国と友好関係を築いていくとも語った。そして、アメリカのような大国による一極支配の世界は受け入れられないと主張した。メドヴェージェフはアメリカの一極支配体制に強く反発している。2008年の年次報告演説でも南オセチア紛争や金融危機はアメリカの一極支配が原因だと主張した。また、前述の南オセチア紛争やミサイル防衛等でのアメリカに対する強硬姿勢は「新冷戦」の勃発であると言われることもあり、メドヴェージェフ自身も「我々は新冷戦を恐れない」と発言している(ただし、首相のプーチンは新冷戦の勃発を否定している)。北方領土問題解決に関しては意欲的な姿勢を示している。2008年7月に北海道洞爺湖サミットに出席するため来日したが、サミットの合間に当時の首相であった福田康夫と個別に日露首脳会談を行った際に、「北方領土問題が解決されれば、両国関係が最高水準に引き上げられることに疑いはない」などと述べ、北方領土問題の解決に意欲を示した。2008年11月22日の麻生太郎との会談でも、「北方領土問題の解決を次世代に委ねることは考えていない」と述べ、解決に前向きな姿勢を示した。2009年7月日露首脳会談が予定されており、北方領土問題について何らかの表明が期待されるが、一方で5月29日、河野雅治駐露大使らが出席した信任状捧呈式の場で北方領土問題に言及し「パートナーである日本がロシアの南クリル(千島)諸島への主権に対して疑いを差し挟む試みを指摘せざるを得ない」と発言し日本側の期待に水を差した。2010年11月1日、国後島を訪問し、ロシア領であることを主張し、以後も数度に渡り北方領土を訪問、視察を繰り返し、ロシアの実効支配をアピールする姿勢を強めている。2012年7月3日、オリガ・ゴロジェツ副首相、ヴィクトル・イシャエフ極東開発相とともに国後島を訪問した。2012年9月24日、副首相を集めた会議で道路整備のため2007年から2015年に実施される「クリル(千島)諸島社会・経済開発計画」の予算を増額する政令に署名したことを明らかにした。2015年8月22日、ロシアの首相として初めて択捉島を訪問し、中華人民共和国と大韓民国はロシアの「友人」で日本は「隣人」と表現した。家族は妻と1男。妻のスヴェトラーナ・メドヴェージェワとは小中学校時代の同級生であり、後に結婚。学生時代から夫人とは付き合いがあり、1982年に学校を卒業後、数年間の交際を経て結婚した。1995年には、夫人との間に長男のイリヤが誕生している。学生の頃からロック音楽を好み、特にピンク・フロイド、ブラック・サバス、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリンがお気に入りのバンドである。ソ連時代にロックは「西側の退廃的な文化」とされ、聞くことが禁止されていたが、その時代にメドヴェージェフは友人と海賊版を交換し合っていた。その後アルバムを本格的に収集し始め、今ではディープ・パープルの全コレクションを所有していると語っている。なお、2008年2月に行われたガスプロム創設15周年を記念したディープ・パープルのコンサートにもセルゲイ・イワノフと一緒に行っている。プーチンと同様にスポーツマンであり、大学時代は重量挙げの選手で、今でも朝と夕方に一時間重量挙げをしているという。ほかにヨガやジョギング、水泳などもする。スポーツ観戦の方では、サンクトペテルブルクのサッカークラブであるゼニト・サンクトペテルブルクのファンであることを公言している。ペットは「ドロテウス」という名前の猫を飼っている。ロシアの大衆紙『モスコフスキー・コムソモーレツ』2008年3月15日号で、この猫はメドヴェージェフの隣人であったミハイル・ゴルバチョフの飼い猫と喧嘩をしたが負けてしまい、その後1ヶ月間、抗生物質を投与される治療を受けたことがあると報じられている。さらに、二度とこのようなことをしないために去勢までさせられたという。2008年7月の北海道洞爺湖サミットでは、日本に親しむため、緑茶を毎日飲んでいると報道された。また、ロシアの大衆紙『コムソモリスカヤ・プラウダ』2008年4月29日号のインタビューでは、健康のために寿司や刺身を食べており、村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』を最近読んでいると答えている。アップルの携帯電話「iPhone」と同じくアップルのパーソナルコンピュータである「Macintosh」を愛用している。2010年6月にアメリカを訪問した際にはアップルよりiPhone4を贈られ、Twitter社ではアカウントを開設しつぶやきを行った。
出典:wikipedia
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