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阪神・淡路大震災

阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)とは、1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震による大規模地震災害である。1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒(日本時間=UTC+9)、淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、Mj7.3の兵庫県南部地震が発生した。近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)が大きな被害を受けた。大阪府ではABC朝日放送本社1階(2008年5月の移転前の建物)のショールームの窓ガラスが割れて散乱した。新大阪駅では新幹線ホームの駅名表示看板が落下したり、駅構内の窓ガラスが散乱するなどの被害を受けた。奈良県でも建物のガラスが道路上に落ちるなどの被害もあった。京都府の広隆寺などの寺院でも被害が出た。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区・灘区・中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)・兵庫区・長田区・須磨区)の被害は甚大で、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。戦後に発生した地震災害としては、東日本大震災に次ぐ被害規模であり、戦後に発生した自然災害では、犠牲者の数で伊勢湾台風の5,098人を上回り、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであった。1995年1月25日の政令により、激甚災害法(激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律)に基づく激甚災害に指定。などなど地震による揺れは、阪神間および淡路島の一部に震度7の激震が適用されたほか、東は小名浜(福島県いわき市)、西は長崎県佐世保市、北は新潟県新潟市、南は鹿児島県鹿児島市までの広い範囲で有感(震度1以上)となった。戦後に発生した地震では、1946年(昭和21年)の南海地震や1948年(昭和23年)の福井地震を大きく上回り、当時の地震災害としては戦後最大規模の被害を出した。被害の特徴としては、都市の直下で起こった地震による災害であるということが挙げられる。日本での都市型震災としては、大都市を直撃した1944年(昭和19年)の昭和東南海地震以来となる。福井地震を契機として新設された「震度7」が適用された初めての事例であり、実地検分(担当者による現地調査)によって震度7が適用された最初の事例であった(2004年の新潟県中越地震や2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2016年の熊本地震における震度7の観測は、震度計によって実測されたものである)。キラーパルスを伴った地震動は、数値上でも当時最大級のものとして記録され、10秒以上続いた地域もあった(ただし、その後の地震では兵庫県南部地震を超える地震動が観測されている)。神戸海洋気象台(現・神戸地方気象台)では、最大加速度818ガル、最大速度105カイン、最大変位27cmの地震動が襲ったと分析されている。これらは、釧路沖地震(922ガル、67カイン、変位93cm)、ノースリッジ地震(約800ガル、128カイン)に匹敵するものである。六甲アイランドの地震計では縦揺れ507ガルが記録された(日本で過去最大は2008年(平成20年)6月に一関市で観測された4022ガルである)。道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などの生活インフラ(現代社会においてはライフラインと通称される例が多い)は寸断されて広範囲において全く機能しなくなった。これ以降、都市型災害および、地震対策を語る上で、「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」「罹災認定」等の行政の対策などが注目されるようになった。もともと日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震にも耐えられない構造であると分かり、1981年(昭和56年)には大幅な建築基準法の改正が行われた。しかし、日本の建造物が安全であるとする報道に基づいた誤解をしている市民も多く、1982年(昭和57年)以降に建てられたビル・マンション・病院・鉄道の駅舎などでも広範囲にわたって倒壊・全半壊が多く見られた。地震が発生した1月17日、気象庁はこの地震を「1995年(平成7年)兵庫県南部地震」(The Southern Hyogo prefecture earthquake in 1995) と命名した。しかし、気象庁による正式名称に先立って毎日新聞が「阪神大震災」と呼び始め、他の報道機関の中にもこれに追随する動きが出始めた。その一方で、朝日新聞や日刊スポーツでは「関西大震災」、読売テレビでは「関西大地震」など、当初は様々な名称が入り混じっていた。2月14日に政府は、今回の災害の規模が大きい事に加えて今後の復旧に統一的な名称が必要であるという見解に至った。淡路島地区の被害も大きかった点を踏まえ、「関東大震災」に準え、災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称することが閣議で口頭了解された。2月24日には、5年間の時限立法として阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律(1995年(平成7年)法律第12号)が制定、即日施行された。この時から広く「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになり、この名称が現在でも使用されている。大阪府下では豊中市を除くとそれほど大きな被害が生じていないにもかかわらず、「阪」の文字が入っているのは、兵庫県内における地域区分である「阪神」間(灘区・東灘区・芦屋市・尼崎市・西宮市近辺)における被害が甚大であったためである(なお、豊中市では南部を中心に甚大な被害が出ており、死者9名が出たほか、避難所暮らしを余儀なくされた人も多い)。ただし、上記の用法による「阪神」では神戸市、明石市も豊中市も外れてしまうことになり、大阪市や神戸市も含めた、より広義の「阪神」では大阪府西部・兵庫県南部の順で表現されていることになるため、なお異論は少なくない。そうしたこともあって、「南兵庫大震災」という表記を用いる書籍もある。また、現在でもマスメディアなどで単に「阪神大震災」と呼ばれることがある。これに対して疑問を持つ被災者もいる。大都市・大工業地帯・観光都市の一つである神戸・阪神地区だけが壊滅的な被害を受けた様に表現され、同様に甚大な被害を受けた淡路島北部のほか、阪神地区の周辺について考慮されていないからである。なお、これ以前に戦後最大の地震災害(各自治体人口の1〜5%が死亡するという、有史上最悪の被害率となった)であった福井地震においては、全体の1%超の死者が石川県から出ているにもかかわらず、北陸大震災あるいは福井・石川大震災と呼ぶべきだという議論は特に起こっていない。、関東大震災では、木造住宅が密集する地域での火災が被害を大きくしたため、主に焼死により日本の災害で最悪となる約10万人の死者を出し、東日本大震災では津波による水死を主に1万5千人を超える戦後最悪の死者を出したが、当震災では断層沿いに被害が集中して被災地域が狭かったものの、冬季の早朝に発生したため自宅で就寝中の者が多かったため、圧死を主に6千人を超える死者を出した。甚大な被害を伴った震災であったが、その中でもいくつかの被害軽減の要因となった事項が挙げられる。また、西宮市仁川では、住宅街に面した造成斜面において大規模な地すべりが起こり、34名が犠牲になった。死者の80%相当、約5000人は木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死した。特に1階で就寝中に圧死した人が多かった。2階建て木造住宅の場合、「(屋根瓦と2階の重みで)1階の柱が折れて潰れるケース」が多かったが、建物が倒壊しても2階の場合は生存のスペースが残りやすく、死者は少なかった。死者の10%相当、約600人は「室内家具の転倒による圧死」と推定する調査(山口大学・教授大田らのグループ)があった。また、死亡に至るまでの時間も短かった。遺体を検案した監察医のまとめでは、神戸市内の死者約2456人のうち、建物倒壊から約15分後までに亡くなった人が2221人と92%にも上り、圧死・窒息死で「即死」した人が大半を占めた。サンデー毎日による調査では、分析対象とした247人のうち、47人が建物の下敷きになる一方、家具の下敷きは2人のみだった。死者のうち、20代が30代よりも200人近く多く、年齢階層ごとに死者数が増える東日本大震災と異なった様相を呈している。20代が多かった理由としては大学が多い神戸市灘区などで高齢者と同様、文化住宅など木造アパートに住んでいた学生が、倒壊したアパートの下敷きになったケースが多いとみられている。31大学111人が死亡し、特に、神戸大学では学生39人、教職員2人の大学関係最多の死者を出した超高層建築物は概ね無事であった。さらに、1978年宮城県沖地震の被害を踏まえて1981年(昭和56年)に改正された建築基準法に従って建築されたビルは被害も少なかった。老朽化したビル・一階が駐車場のビル・マンションの物件では被害も多かったものの、幸いにも死者は少なかった。一部の鉄筋コンクリートのマンションでは火災が発生していたが、隣戸に延焼することはなかった。古いビルでは、日本ではありえないとされていた中層階のパンケーキクラッシュが多数起こり、低層ビルでは1階の崩壊や、今まで日本では見られなかった建物が土台から切り離されて倒壊したりなど、多数の被害があった。傾いた状態だった柏井ビルは、翌朝の余震によって完全にフラワーロードに横倒しになった。そのほか兵庫区の「三菱銀行兵庫支店」(1968年(昭和43年)、鉄筋6階建て)、兵庫県薬剤師会館(1967年(昭和42年))、第一勧業銀行神戸支店(1926年(大正15年)、2階建て、長野宇平治)が崩壊した。兵庫県内の342病院のうち、全半壊焼失が13であった。診療所を併せた2,926のうち、全壊239、半壊270、全半焼13、インフラの停止による診療停止973となり、約半数が機能を停止した。公式に数えられた負傷者だけでも35,000人である。神戸市内の災害医療機関3つのうち、西市民病院本館が全壊し、中央市民病院が孤立し機能を失った。県立西宮病院438人、明和病院658人、笹生病院1029人、西宮渡辺病院1200人など負傷者で溢れかえった。逆に西宮市武庫川町の兵庫医科大学病院では救命救急センターの22人を含む274人の医師が待機したが、患者は平日の8%の約200人だけだった。長田区にある神戸市立西市民病院は本館5階が圧壊して入院中の患者44人と看護婦3人が閉じ込められる状態になったが、生存空間があったため即死することはなかった。後に患者1名が死亡した。他の損壊を免れた病院には多大な数の負傷者が搬送されることとなり、病院は軽度の入院患者については当日中に早期退院、またはほかの病院に転院させるなどして病床をできるだけ確保した。しかしそれでも病床の数が全く足りず、ロビーや待合室にソファーや布団を敷き詰めて病室とするなどの緊急処置を取らざるを得なかった。また、治療を行う医師の数も患者の数に対して圧倒的に不足していたこともあり、治療を待っている間に息絶えた人もいた。長田区海運町の高橋病院には87人の入院患者がいたが、熱風や爆発のため鷹取中学校に避難した。神戸発祥の竹中工務店建築では神戸国際会館7階、神戸市役所第2庁舎6階、神戸新聞会館、神戸阪急ビルが倒壊し、2,500のビルのうち倒壊17、大破25、解体56、補修217であった。大成建設施工の明治生命ビルは、フラワーロードに2.5mせり出した。神戸新聞は本社を西区の制作センター(印刷工場)に仮移転するとともに編集業務はダイヤニッセイビル(ハーバーランド)で仮構築し、1996年(平成8年)7月に神戸情報文化ビルへと正式に移転する。ただし、新本社への移転は震災以前からの既定方針で、同ビルも建設中だった。当時、須磨区にあったラジオ関西の本社も被災し、敷地内の仮設スタジオに移転したのち1996年(平成8年)6月に現在のハーバーランドへと移転した。兵庫県芦屋市若葉町・高浜町に位置する、海岸沿いの高級高層マンション群「芦屋浜シーサイドタウン」では、厚さ5cm、幅50cmの極厚ボックス骨が3cm程度の距離で全面破断し、52棟中25棟で57箇所の破断があった。これは、想定通りの被害であったが、重量鉄骨造の脆性破壊の、日本での初めての例であった。マンションの鉄骨はむき出しとなっており、当時の気温(0℃程度)や使用鉄骨の低温特性、埋立地で増幅された地震動の高層ビルの固有周期との一致などにより、限界を超えたと考えられている。日本瓦を使い、基礎が石に柱を載せただけで、筋交いの少ない老朽化した木造住宅でも多くの死者が出たため、神戸地域においては新築の瓦屋根はほとんど見られなくなった。日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法の住宅に被害が集中し、新しい住宅においても筋交いなどが不十分であった物件は大きな被害を受けている。坂本功著の『木造建築を見直す』という書において「死亡者のうち5,000人近くは、軸組構法の住宅の下敷きによって圧死した」と述べている。しかし重要なのは、「構造的に問題のある建築に瓦屋根のものが多かった」にもかかわらず、一般的には「瓦が重いから問題」であると誤解されている。古い木造住宅は年月の経過によって乾燥している点や、耐火材を使っていないなどの理由による火災の被害も多い。これは、神戸地区の木造住宅は、地震よりも台風に対応した木造住宅であり、振動に弱く瓦部分が重く、なおかつ瓦の固定方法も屋根に土を葺いてその上に瓦を載せる方法が多かったことにも起因している。なお、筋交いを多く入れてある木造住宅においては耐震性も十分にある。また、同じ木造住宅でも、プレハブやツーバイフォー(木造枠組壁構法)と呼ばれる構法の住宅が耐震性を示している。3階建住宅の被害もほとんどなかった。日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法で多くの即死者が出た原因は、ペシャンコになった建物の下敷きになり生存空間が無くなったためである。分解しやすい構造の為、地震の場合瓦屋根、屋根土、土壁、床、柱、がバラバラになって落下し、下敷きになって人体が潰れるためである。揺れが小さい場合は土壁が建物を守るが、揺れが大きい場合は土壁も破壊され落下し凶器になる場合がある。鉄筋コンクリート造りの場合は、強固な一体構造であり、大破しても柱、屋根、床、はバラバラになって潰れることがない。柱は破壊されても、天井が低くなるだけで床や屋根部分はバラバラに成る事は無く、即死することが少ない。さらに普通のマンションの場合、壁が多く、壁が柱の役目をするので構造的にぺしゃんこになり難い構造である。マンションは大破した場合でドアが開かない、大きな亀裂が入るなど住むことはできないが、建物の下敷きになって怪我をしたり即死することはない。例外的に低層階に会社、スーパーマーケットなど窓が大きく、柱が少なく、壁の少ない構造のマンションでは一階の柱が破壊され、天井が極端に低くなった例がある。耐震性を考慮に入れて建築基準法が改正された1981年(昭和56年)以降で1982年頃から建築された物件の被害が少なかったことが報告されている。結果的に、改正された建築基準法の有効性が証明されることになった。倒壊して死者の出た住宅は1982年(昭和57年)以前の建築物件で、当時の建築基準法により設計されていて耐震性が弱かったともいえる。震災後も、1996年(平成8年)・2000年(平成12年)・2006年(平成18年)に建築基準法は改正されている。危険な合法住宅の問題点としては、古い住宅の場合は耐震性がなく危険であっても違法ではない。違法かどうかは、新築時の建築基準法に対して判断するため、新築時の法規に適合していた建物は、その後老朽化し危険になっても違法ではない(既存不適格と呼ぶ)。たとえば、建築基準法が無い江戸時代の建造物は危険であっても合法である。3階建て住宅ではほとんど被害が出ていないのは1988年(昭和63年)に建築基準法が改正・施行されるまでは、準防火地域において木造3階建ての建築は禁止されていたため、耐震性がない合法3階建住宅(古い3階建て)がなかったためである。また、日本では耐震性が不十分な住宅が国土交通省の推計より2008年(平成20年)時点で約1050万戸(日本の住宅総数の約23%に当たる)あるといわれている。道路においては、中国自動車道や国道43号・国道2号において、復旧のための車線規制による渋滞が発生。特に、高架が崩落した阪神高速道路神戸線(第二神明道路や姫路バイパスなども通じ、大阪 - 姫路間の連絡道路となっている)は、長らくの間不通となった。このため、単に関西を通過するだけの道路交通にも深刻な影響を及ぼし、復旧までの期間には、国道9号・国道372号(両国道で、京都 - 姫路間を迂回できる)などに、長距離トラックや長距離バスが殺到した。京阪神を通らない迂回ルートの当時の貧弱さが浮き彫りとなった。鉄道においては、兵庫県などを走る阪急電鉄・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道などが、震災による甚大な被害を受けた。(高架構造の駅舎である)ホームに、地震発生時に電車を留置した状態だった阪急伊丹線伊丹駅や東海道本線(JR神戸線)六甲道駅の崩壊した映像は、阪神高速道路が倒壊した映像とともに、この震災を象徴することとなった。地下の神戸高速鉄道東西線の大開駅が崩壊したために、その上の国道28号において陥没が発生した。直後の交通規制などが迅速に行われなかったため、国道43号・国道2号・山手幹線などの神戸方面に至る主要幹線道路において、大規模な渋滞が発生した(規制をしなかった理由としては、この時の警察の方針が「倒壊家屋などからの人命救助」を優先していたためである)。震災直後からJR・私鉄など各社間で、連携して行われたバスや他社鉄道線による代替輸送は、不通区間の解消とともに順次終了された。4月の段階で、最初に不通区間を全て解消したJRは、新年度の定期券発行でも優位な状況となり、その結果、利用者のシェアはJRへとシフトする形となった。収益源である神戸港も被害を受けて、多くの埠頭の使用が不可能となった。また、神戸市中央区のポートアイランド・東灘区の六甲アイランド・芦屋市の芦屋浜・尼崎市の築地地区など埋立地を中心に、地面が軟弱化する「液状化現象」が見られた。このために、海からの支援なども難しい状態となってしまった。当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震による直接的な被害は無かったものの、全長が1m伸びるという事態が発生した。大橋の淡路側の山上に、フランス革命200周年記念事業として日仏友好モニュメントが建設予定で、1995年1月12日に日仏の関係者約220人が参加しくわ入れ式を挙行したが、その5日後に震災が発生し事業を休止していた。しかし、2015年11月に発足時メンバーの逝去や建設再開の機運醸成が難しいことから、日仏友好のモニュメント日本委員会が事業中止と委員会解散を提唱。関係者がこれに承諾し、このプロジェクトは未完に終わった。阪神高速道路神戸線の倒壊は、震災の甚大な被害を象徴するものとして世界中の新聞の一面に大きく掲載された。「倒壊した高速道路が、倒壊する寸前に波打っていた」という目撃談話が報道番組において報じられている。橋脚と道路面の接合部分が地震によって破壊されたことも確認された。そのため、「柱の上にただ乗っかっている板」のような状態になり、耐震性はほぼゼロになったと考えられる。崩落した高速道路と、辛うじて残った部分との境に取り残された高速バスの写真が印象深いが、その部分ではこの事象が発生していたと考えられている。中国自動車道では、吹田JCTと西宮北ICの間が不通となった。このことから、近畿地方内で京阪神を経由せずに、亀山(東海道沿線)や米原(中山道沿線)から姫路(山陽道沿線)まで行くには、北近畿の敦賀から和田山までを通らなければ迂回できないということが指摘されている。また、近年、論議がかまびすしい道州制においても、この北近畿迂回路の存在から「地域的・交通的問題を解決するには、交通的一体性を重視した枠組みにすべき」という意見が出されている。震災直後、被災地の幹線道路で大規模な交通規制が実施された。当初は警察署が通行許可標章を発行していたが偽造が出回り渋滞の改善が見込めないため、その後コピーのできない新たな標章「復興標章」「除外標章」への切り替え、標章の交付審査を厳格にした。交通規制は阪神高速3号神戸線の復旧に合わせ徐々に緩和され1996年(平成8年)8月には全て解除となった。交通規制実施道路は次の通りである。西日本旅客鉄道(JR西日本)も私鉄各社同様の被害を受けたが、どの私鉄よりも先に急速な復旧を遂げて、最初に運行を再開した。「資本力の違い」「旧国鉄線だったため、線路脇に比較的余裕があり作業が行いやすかったこと」「旅客列車のほか、貨物列車も往来する物流の大動脈でもあったこと」「全国のJRグループから応援を呼んだこと」などが要因とされる。被災地区を運行する鉄道路線のうち、最も南を走行する阪神本線は主に、東灘区から灘区における高架構造である区間に大きな被害を受けている。特に大きな被害を挙げると、御影駅西方の留置線の車両が横転して大きく損壊した。石屋川車庫も崩壊し、地震の発生が早朝であったために前夜から留置されていた多数の車両が崩壊に巻き込まれて損傷した。これは、この高架構造の区間が高度経済成長期の1967年(昭和42年)に竣工した物件であり、耐震構造が十分ではなかったことが原因の一つとして指摘されている。また、この区間においては数箇所で鉄橋が落下し、南北にいたる道路が遮断された。その後、日本各地の橋梁において落下を防止するための補強工事が行われる契機ともなっている。三宮付近の地下区間で運行中に被災した車両と合わせて、41両の車両が一挙に廃車され、一度、車庫自体を全て解体撤去した後に、工事を翌年までかけて再建せざるを得なかった。阪神に関しては、三宮駅 - 高速神戸駅間でピストン運転をしていた。このピストン運転はすでに運転再開された三ノ宮以東の東海道線と連絡することで被災者の大きな足となった。神戸港には、フェリーなどが四国・九州方面を中心に多く発着していたが、各発着所が壊滅的な損害を受けて使用不能に陥ったため、一時的には大阪南港などに発着地を変更して運航されていた。陸上輸送が麻痺状態に陥っていたため、四国・九州方面とを結ぶメインルートとして、その後機能した。また、ウォーターフロントの地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて、大阪 - 神戸間、神戸 - 西宮間など短距離の臨時航路も設けられ、代替交通機関として疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力を行った。残された海岸部分を利用して、医療物資などの搬入も優先的に行っていた。多くの手助けの下、2年後の1997年(平成9年)3月31日に、全ての埠頭・コンテナバースが復旧した。そして、同年5月19日に「神戸港復興宣言」が発表された。揺れの激しかった大阪国際空港(豊中市・池田市・伊丹市)では滑走路・誘導路に亀裂が生じた。空港ターミナルビルも外壁などが損傷した。震源から離れた関西国際空港(震災発生前年の1994年に開港)も空港ターミナルビル・関西空港駅・駐車場エリアにて建物の損傷が確認された。しかし、両空港ともに、航空機の運航等に影響は出なかった。特に、被災地の大阪国際空港では、その日のうちに、警視庁・東京消防庁・自衛隊・アメリカ軍・政府チャーター便が支援に多数飛来した。さらに、特別措置として、大阪国際空港は通常7時〜21時の運用時間制限を設けているが、運用時間外になる21時台の臨時便を運航させるなどして、復旧・復興に協力した。特に神戸市の長田区においては、木造住宅が密集していた地域を中心に火災の被害が甚大だった。全体で7,000棟近い建物が焼失している。また、火災旋風は発生しなかったとされている。消防庁の資料によると、地震後に計285件の火災が発生している。うち7割は地震発生当日の火災だが、6時までの出火件数が87件と、地震発生から一定時間が経過した後の発生が相当数ある。出火原因が判明したのは全体の約半数で、最も多かったのが電気による発熱体の85件で、ガス関係の13件、火種関係の12件と続く。地震翌日以降の出火では、送電の再開に伴うものがかなりあったとされている。消火活動では上水道が断水したため、わずかな防火貯水槽を探しているうちに炎が延焼して被害が大きくなる結果となった。断水で水が出ないホースを持ったまま炎の近くで立ち尽くす消防士の姿が、報道映像として残されている。また、風によって巻き上げられた火の粉により消火活動が困難になった地域もある。火の手が大きくなりすぎて消火困難と判断した場合は、火勢に任せるまま消防員の判断で罹災者らの安全誘導を優先する「放任火災」と呼ばれる消防活動に切り替えられた。被災地近辺で放任火災活動が行われたのは、戦時中の明石空襲以来となった。一方、周辺住民が主体となり機械に頼らないバケツリレーによる消火(延焼防止)活動も行われている。放任火災活動と併せて国道2号線・28号線などの大通りに消防隊を配備し、鎮火活動より延焼拡大を防ぐ活動が精一杯だった。17日午後からは各地から応援で駆けつけた消防隊員も加わってようやく鎮火活動に動き出した。消防隊は付近の新湊川、兵庫運河にホースを伸ばし、徹夜で放水活動を行った結果、完全に鎮火したのは2日後の19日であった。震災後、兵庫県・神戸市では防火貯水槽の整備、消防へのヘリコプターの活用が検討されている。地震発生後、消防・警察・自衛隊などの各組織は救助活動に入っているが、幾つかの問題点も指摘された。また、この災害で一般にはあまり知られていなかった「挫滅症候群(クラッシュ症候群)」が広く知られることとなった。消防庁や警察庁が調整を行って全国の消防・警察から応援が現地に送られていたが、交通渋滞に巻き込まれずに到着した人はほとんどいなかった。到着出来ても、大規模災害に対する技術・知識・装備・機材どれも満足とは言えない状況だったため、活動は難航した。なお、東京消防庁は航空隊の消防ヘリコプターによりいち早く特別救助隊を被災地に派遣して成果を上げた。当日11時八王子消防署特別救助隊に対しヘリコプターで直接神戸市に出動せよとの指示があり大型ヘリひばりで現地に向かい手持ち可能な器具のみの持ち込みであったが孤軍奮闘した。都市部の消防・警察においては、自身が被害を受けていることもあり、初期における救助などの活動は円滑とはいえなかった。一方、淡路島においては、「地元の消防団および近隣住民が中心となった救助活動」が行われた。特に、北淡町においては発生から約11時間で捜索救助活動および遺体収容が完了している。建造物や人口の密度を勘案すれば、神戸市街地とは救助に要する時間を単純に比較はできないが、地震発生直後における近隣住民などの地域コミュニティーによる救助活動の重要性を示している。瓦礫の下の被災者を救出する車両が不充分であったほか、防災機関の(救急ヘリ)での搬送も少なかった(震災当日のヘリ搬送:西宮市にて1名のみ)。この搬送は大阪市消防局から緊急医薬品輸送に従事した機体が帰りに搬送したものである(62人/1週間(内、17人/3日間))。ゆえに、負傷者の救出・搬送が遅れることとなった。消防・警察はこの地震を教訓に全国の応援体制として緊急消防援助隊(消防)と広域緊急援助隊(警察)をそれぞれ創設し、東京消防庁は消防救助機動部隊(通称:ハイパーレスキュー)を、横浜市消防局は機動救助隊(現在の特別高度救助部隊:スーパーレンジャー)を創設することになる。自衛隊については、地震発生数分後には行動を始めたものの、阪急伊丹駅へ近傍派遣(災害派遣)を行った第36普通科連隊を除き、神戸市中心部への災害派遣は直ちにはなされなかった。第36普通科連隊は、「近傍派遣」(自衛隊法第八十三条三項)によって出動しているが、他の部隊は知事の要請(自衛隊法第八十三条一項)の待機状態になっていた。貝原俊民・兵庫県知事(当時)からの災害派遣要請はすぐに行われなかった。これは、「貝原知事が情報を座して待っていたこと」「(各所轄の警察署単位で調査した被害情報を取りまとめる立場の)兵庫県警察本部警備部から貝原知事への報告も少なかったこと」が原因だった。例えば、東灘警察署だけでも8時に「死者100名以上、行方不明者数百名」という情報を把握していたにもかかわらず、本部警備部が知事への報告を地震発生後2回しか行わなかったため、10時の段階で知事に伝わっていた兵庫県全体の被害情報は「死者4名」というあまりに現実とかけ離れたものだった。貝原知事は、「被害情報が正しく伝えられていれば、即座に自衛隊派遣要請を出来ていた」と答えている。逆に、知事が即座に派遣要請を出していれば、建物の下敷きとなり圧死した犠牲者の数はさらに減っていたという意見もある。また、知事以外の首長が要請を出すことは許されないという、当時の法制の不備も原因している。こうした状況把握の混乱の中、派遣要請は、地震発生から4時間後に自衛隊との電話が偶然繋がった野口一行・兵庫県消防交通安全課課長補佐(当時)の機転で行われ、知事へは事後承諾となった。これを教訓に、自衛隊への派遣要請を都道府県知事のほか市町村長または警察署長などからも行えるよう、後に制度が改められた。発生から数か月の間の自衛隊報道については様々な内容のものが存在する。批判もあれば過度の期待をにじませた内容もあるが、一部については事実と異なるとして、防衛庁広報誌『セキュリタリアン』にて反論が行われている。下記に、同誌で否定された項目を列挙する。カッコ内は同誌が批判した報道(同誌は紙誌名の特定をしていないため、全て「某〜」といった表記になっている)。なお、「指摘した事項はほんの一部」と記事は結ばれている。全国からさまざまな形の「救援・支援」が寄せられた。救援物資・義援金・ボランティア活動のほか、インフラストラクチャーの復興には他府県の電力会社・ガス会社などの多くの職員が復興応援のために現地入りした。復興事業では、ライフラインの復旧が最優先とされた。電気はほとんどの地域で3日から1週間程度で復旧が可能だったが、地下に埋まっている水道・ガスの復旧に長期間を要した。また神戸市では、当時水道局があった神戸市役所2号館6階が7・8階に押し潰されて被災したため、即時に資料が用意できず、水道管の経路情報の把握に時間を要するなど復旧に影響を及ぼしたとされる。その後、2号館は6階〜8階までを撤去し、5階建てとして修復されており、水道局も4号館に移転している。復興支援物資の輸送も全国各地において受け付けられた。また、交通網も至る所で寸断されていた。大量の復興支援物資を早急に送るため、復旧よりも残された道路を優先的に整備して被災地と大阪市を結んでいた。神戸近郊の道路でも、「神戸市に行く」といえば交通整理などで最優先に通行させてもらえるなど復興活動を支援する場面が見受けられた。建造物の本格的な復興事業が開始されたのは、翌月に入ってからである。この頃には多くの機材・人材が全国から駆けつけて瓦礫の撤去や再建をサポートしていた。家が全・半壊した住民は学校や公共機関の建物に避難した。被災地の学校の多くは休校。被災者は、体育館・教室などで寝起きした。また、公園にテントを張ったり、自家用車において寝起きしたりする人もいた。震災当初は、公的な避難所として学校等の公共施設を避難所として認めて食料・飲料水の配布がされていたが、その後、公園への避難者が形成していたテント村についても食料等の配布が行われるようになった。震災発生後1か月を経て、プレハブ工法による仮設住宅が建設されて、入居が始まった。しかし、その多くが被災地を離れた郊外や周辺の自治体に建設されたために避難所から仮設住宅への移行が進まなかった。学校等の避難所は、4月以降の授業開始に合わせて解消するために、都心部での仮設住宅の建設や学校等避難所から待機所への移行を促す措置がとられたり、民間の住宅を借り上げて被災した住人への提供などが行われた。その後、復興支援住宅(災害復興住宅)と呼ばれる高層の恒久住宅の建設が、兵庫県によって行われた。仮設住宅よりもプライバシーが守られる反面、近所付き合いのコミュニティが形成しづらいこともあり、孤独死の問題も増えた。水道が長時間使われない場合に自動で警告を知らせるシステムなどで、防ごうと対応しているところもある。これらの被災者向けの住宅の供給については、各市町村によって発行された罹災証明書が入居の根拠とされた。その証明を行うための調査が短期間のうちに少人数によって行われたこともあり、その精度の荒さが指摘されている。政府側の対応が遅れる一方で、民間企業からの支援活動が目立った。企業以外の団体による支援活動としては、救世軍、神戸に総本部を置く日本最大の暴力団組織・山口組、阪神地域で強い影響力を有する宗教団体の崇教真光・PL教団・天理教・創価学会・金光教・2か月後に地下鉄サリン事件を起こすオウム真理教といった組織・団体が、食料や飲用水の供給・便所・風呂・避難場所の提供などの積極的な支援を行った。その他、渡哲也・渡瀬恒彦兄弟や、河島英五・嘉門達夫・ジャイアント馬場・田中康夫、そして、当時は阪神タイガースの現役選手だった南牟礼豊蔵・弓長起浩といった関西にゆかりがある芸能人・タレント・文化人も現地入りし、炊き出しや支援を個人単位で行っている。NHKや民間放送各局は、震災発生1週間前後の時期から、全国の視聴者に募金を呼びかけるようになった。NHKと在阪民放局の毎日放送などは、日本赤十字社の義援金受付口座を震災報道番組の中で連日紹介し、募金を呼びかけた。そして、その集積を地元自治体に寄付するなどして、被災者支援を側面から支えた。3月7〜9日には、東京の日本武道館にて有志のミュージシャンによるチャリティーコンサート「MARCH OF THE MUSIC」が開催されて収益が全額寄附された。公演に参加しなかった多くのミュージシャンも、自らのコンサートやラジオ番組での募金などの取り組みがなされた。復興と重なり合って日本のジャズ教育が活発化する拠点ともなっている(神戸はジャズが日本での第一歩を記した地として知られる)。中央競馬では6月3日、4日の京都競馬(1月21日、22日中止分の代替開催。4日にはGI宝塚記念が行われた)、翌1996年(平成8年)7月7日の中山、阪神(前年同様宝塚記念が組み入れられた)、札幌競馬が復興支援開催として催されて馬券の売り上げの一部が寄付された。日本国郵政省(現在の日本郵便)が、1995年(平成7年)4月20日に阪神・淡路大震災寄附金付切手を発売した。これは額面80円の切手を100円で販売し、差額の20円を震災支援の寄付金としたもので額面は「80+20」と表記されていた。ただしデザインは準備が間に合わなかった為、例年発行されている「切手趣味週間」の切手に便乗する形になった。そのため、デザインは金島桂華の絵画『画室の客』であり、被災地に全く関係ないものとなった。印刷数5000万枚のうち約4728万8000枚が販売され、諸経費を除いた9億4000万円が地元に配分された。その後、郵政省は2000年(平成12年)12月22日発行の「20世紀デザイン切手」の17集のなかで、同震災の事を題材にした切手を発行している。デザインは復興のシンボルとされた手塚治虫の「火の鳥」と阪神・淡路地区の地図と倒壊した高速高架道路をイメージしたものであった。地震直後に現地において、被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は1日平均2万人超、3か月間で延べ117万人とも言われる。被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。現地には行かずに被災負傷者の為の献血・義捐金拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えるものと見られる。このために、この年は日本における「ボランティア元年」とも言われる。後に、内閣は1月17日を「防災とボランティアの日」、17日を中心とした前後3日の計7日間を「防災とボランティア週間」と定めた。この震災で、ボランティアに関わった人々の中には、精神的に大きなダメージを負ってしまった人も多かった。被災した人々のケアだけでなく、ボランティアの心のケアも、とても重要なことであることが明らかになった初めてのケースになった。関東大震災が起こった際の帝都復興院に相当する組織となる「阪神・淡路復興対策本部」(初代本部長は当時の首相・村山富市)が、2000年(平成12年)までの5年間総理府に置かれた。また、「阪神・淡路復興委員会」(委員長は下河辺淳)も設置され、前述の対策本部への提言などで連携した。戦災復興都市計画による土地区画整理事業が完了しようとしていた時期に震災が起こり、また、戦災を免れたことによって戦前からの老朽木造住宅が密集して残っていた地域に特に甚大な被害が見られたため、神戸市は戦災復興の延長線として震災復興を捉えた。復興に当たっては、1976年(昭和51年)10月29日に発生した酒田大火の復興事例が短期間での都市復興の事例として参考にされた。当時、首相官邸をはじめとする政府および国の機関が、直接に被災地域の情報を収集する手段は整備されておらず、地方自治体や各省庁の地方支分部局、自衛隊の部隊などから本省等へ上げられた情報を迅速に集約する体制も、収集した情報を内閣総理大臣等へ通報する体制も整っていなかった。そのため、テレビやラジオなどの報道機関が最大の情報源となり、集約整理されていない情報をもとに、各機関が行動する体制となっていた。災害対策の所管官庁とされていた国土庁にも独自の情報収集手段はなく、関係省庁に上げられた情報を集約することも十分にはできなかった。内閣総理大臣であった村山富市首相には地震の一報がかなり早い時点で入ったものの、これは村山首相が地震発生直後にテレビでニュースをたまたま見ていたこと(6時のNHKニュース)によるもので、秘書官等から詳細な情報を上げることは遅くなった(首相への第一報は7時30分とされる)。村山首相は総理公邸におり、8時26分に首相官邸に歩いて様子を見に行き待機したが、誰もおらず特に情報も入らず、また公邸に戻った。その後、不完全ながらも随時上げられる情報により未曾有の大災害であることが明らかになりつつある中でも、村山首相は開会が差し迫った通常国会への対応や懸案となっていた新党問題、財界首脳との食事会など予定通りの公務をこなす傍ら災害対応を行ったため、十分な対応を行わなかったのではないかという疑念を生んだ。兵庫県庁の屋上にある衛星通信設備が十分に作動しなかったこと、最大震度(震度6、818ガル)を記録した神戸海洋気象台の記録が送信されなかったということがあったが、この「震度空白域」への対応は十分なものではなかった。震度6の情報が国土庁や消防庁に入ったのは6時19分であった。さらに、村山首相は、地震発生3日後に開かれた衆議院本会議の代表質問に対する答弁の中で、政府の情報収集の遅れと危機管理体制の不備を問われ、「何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われまする」と答えたため、強く批判された。出動した自衛隊も、交通渋滞や被災者がひしめく中で、部隊の移動・集結・宿営地の造営に手間取り、現地に到着したLO(Liaison Officer、連絡幹部)が状況を把握してから大規模な災害派遣部隊が現地に展開されて救助活動を開始するまでに3日間を要した(政治判断に3日を要したわけではない)。最も早く救援体制を敷いた米海軍第7艦隊(横須賀)が、「艦艇を神戸港に入港させてのヘリコプターによる負傷者の救援」を政府に申し入れたところ、神戸市の受け入れ体制の未整備・政治的理由・接岸施設の被災による危険性などの要因により、拒否する事態を発生することとなった。しかし、この対応が特別であったわけではなく、当初から、各国からの支援の申し出にも政府として対応できていなかった。アメリカ政府は空母インディペンデンスの提供を申し出たが、「あの時点では毛布であり水であり、そういうものが緊急である」との判断から日本政府はこの申し出を拒否した。日本が地震多発地帯であるにもかかわらず、前述の被害地域の惨状を把握する手段が十分に講じられていなかったこと、危機管理体制の欠如・縦割り行政といった行政上の様々な弊害が現れた。兵庫県からの自衛隊への災害派遣要請が、発生後4時間以上も後であったことは前述の通りであるが、地元選出衆議院議員・高見裕一(新党さきがけ議員)も神戸市東灘区住吉山手にいて、JR住吉駅まで歩いていき被災状況を直接目にしていた。県知事からの派遣要請がなされていない事を知った高見議員は、携帯電話で東京の議員会館にいる秘書を通じ、8時40分に防衛庁に緊急要請を行ったが、東京では「“大げさだ”」「非公式」「未確認情報」との認識しかされていなかった。高見議員は、さきがけ代表・武村正義大蔵大臣、社会党の五島正規衆議院議員にも8時30分に電話で連絡し、社会党の土井たか子衆議院議長に連絡をとろうとしたが、不在で秘書に連絡した。折り返しの連絡はなかった。初動対処が遅れた原因として左翼的思想の影響も指摘された。批判で指摘されたのは、社会党の反自衛隊思想、被災地である兵庫県をはじめ京阪神地域が革新勢力の票田であること、社会党を支持している全日本自治団体労働組合の影響などである。自治体組織の緩慢な初動の背景としてもこれらは指摘されている。産経新聞は1月28日、1面コラムにて社会党が野党時代に自衛隊の廃止を誓ったことを挙げて批判した。国内の批判は日系資本の英字紙や海外メディアも伝えられている。政治的スタンスと関連した形でも、村山首相にも批判の矛先が向いた。内容的には初動期を通り越して復旧に着手するまでの期間全体を対象としたものもあれば、自衛隊への出動命令や発生から数日のリーダーシップの問題に重きを置いた内容もある。しかし、その後に発生した地下鉄サリン事件も踏まえ、5月頃には産経は首相官邸の当時の危機管理体制の不備として総括、結論付ける社説も掲載することとなった。ただし地震発生当時の内閣は自社さ連立政権下にあり、日本社会党は自衛隊を合憲と認めていた。また小沢潔国土庁長官と後に震災対策担当相に任命された小里貞利はいずれも自由民主党所属の国会議員であった。一方、村山元首相は1997年(平成9年)8月に行われたインタビューにて次のように述べている。また、2006年(平成18年)に大分合同新聞が大分大学と共同で行った連載企画「明日を守る―防災立県めざして―」では責任について次のように語っている。厚生省(当時)は、2月上旬から、国立病院の医師、看護師、ケースワーカーなどを現地に派遣し、災害地の医療を側面から支援する対策を行なった。ただし、これについては、各地の国立病院職員(医師、看護師、他)たちが、震災直後からボランティアとして現地に急行する希望を出していたにも関わらず、厚生省が直ちにはこれを認めず、派遣が大幅に遅れた事への批判がある。震災の情報は報道に大きく取り扱われ、発生後約3日間、テレビ・ラジオはほぼ全てのチャンネルが全日にわたって震災関連の特別番組となり、コマーシャル (CM) もほとんど放送されなかった。ただし地震発生後2-3時間は各社とも全容がなかなかつかめず、行政の初動の遅れの一因となった。近畿広域圏以外のテレビにおいては、顕著な被害が明らかになった17日午後以降になってより大きく扱われた傾向が見られ、報道特別番組が放送された。神戸新聞社は地震により本社社屋が全壊。新聞編集用コンピュータシステム(CTS、社では「ホストコンピュータ」と呼んでいた)の機器および専用高圧電源が損傷し、新聞編集が不可能になったものの、前年に京都新聞社と締結していた災害時相互援助協定を発動。8時半にようやくつながった電話(同日夕方に途絶)で情報を送ったほか社員を京都へ派遣し、同社社員とともに見開き4ページの夕刊を編集し制作した。印刷用原版のフィルムは京都新聞の下請け運送会社の社員がオートバイで6時間かけて神戸市西区の印刷工場まで輸送し、当日19時31分、夕刊発行に成功した(20時頃に刷了)。その後、暫くは京都へ社員を派遣しての制作が続いたが、全国の新聞社からの機材支援や取引先の全面協力により、10日後に一部のシステム再稼働に成功している。デイリースポーツは日本経済新聞および関連会社の全面協力を受けて東京で紙面を作成し発行を継続した。震災当時、日本のインターネットにおいて商用利用、個人利用はまだ始まったばかりであったが、パソコン通信ネットワーク(「NIFTY-Serve」(現在の@nifty)など)の掲示板や電子会議室が、被災者情報や大学の休講状況などの情報交換に役立った。以後、コンピュータネットワークの商用利用、個人利用に、マニア以外からも目が向けられるようになっていくこととなった。普及期で、サービス内容機能の少なかった携帯電話は一部で輻輳状態となった。行政による救援、救助活動が後手に回った一方、前述の組織・団体、特に宗教団体や暴力団などによる現場での救助・支援活動は、日本のマスメディアで報道されることは少なかった。諸団体の宣伝につながりかねないとの懸念からであった。その中で、JNN(TBS)系が、地震から3日目の1月19日に放送したJNNニュースの中で、神戸市内に本拠を置く日本最大の広域指定暴力団である山口組の総本部が備蓄していた大量の食料を地元住民に供出する様子を、「住民の苦渋の選択」として報道した。このとき山口組は石油暖房機を積んだトラックを用意し毎日手際よく食事を提供するなどの援助を行っていたため、多くの被災者が集まっていた。報道機関としては、山口組の宣伝にならないよう決して与しない慎重な扱いであったが(大谷昭宏が『こちら大阪社会部 阪神大震災編』の中で触れ、大谷とデスクが採り上げるべきか否かで議論する様子を描写している)、無数のヤクザに頭を下げながら一般市民が列をなして食料をもらう姿は、震災の過酷な現実の一断面を描くものであった。英・米など日本国外のマスメディアも追随し、BBCは「政府の救助活動は遅々として進まないのに、現地のマフィア(ここでは山口組を指す)が救助活動を行っている」と報道した。なお、一部雑誌に掲載された「外国メディアの方が日本のメディアに先んじて報じた」という指摘は、誤報ないしは虚報である。宝塚歌劇団の本拠地・宝塚市の宝塚大劇場も大きな被害を受けた。竣工して数年であったが壁に亀裂が入ったほか、大劇場内の消火用スプリンクラーが誤作動し座席が濡れるなどした。およそ2か月半の間公演不能の状態になり、安寿ミラの退団公演を上演していたが公演中止を余儀なくされた。3月、「国境のない地図」において公演を再開。神戸国際会館も全壊し、予定されていた公演を中止したり会場を移しての公演になった。1995年(平成7年)12月に神戸ハーバーランドの空き地を借用して建設した仮設公演施設「神戸国際会館ハーバーランドプラザホール」が完成し、神戸での公演が本格的に再開された。阪神競馬場や阪神甲子園球場の一部が損壊。桜花賞や宝塚記念は京都競馬場で開催されるなど代替競馬が開催された。またこの年の「大阪国際女子マラソン」も中止を余儀なくされた。また、4月にTIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で開催予定だったF1パシフィックグランプリも10月に延期された。この年に予定されていたゆうあいピック兵庫・神戸大会も中止になった。プロレスの全日本プロレスは発生当日からわずか2日後の1月19日に大阪府立体育会館での興行を予定しており、慎重を期しながらも当日会場を開放し、なおかつ当日予定していた『全日本プロレス中継30』(日本テレビ)の番組収録を中止する形で無料興行を行った。六甲アイランドで1月21日に開催予定だった日本陸上競技選手権大会男子20キロ 女子20キロ競歩が中止され、翌2月に千葉市で代替開催された。2007年(平成19年)4月、このときの恩返しとして、同年3月の能登半島地震で被災した石川県輪島市で行なわれる予定だった別の競歩大会を六甲アイランドにて代替開催した。第67回選抜高等学校野球大会(春の甲子園)については、「中止すべき」という意見があったものの、吹奏楽などによる鳴り物演奏を自粛して予定通りに実施された。プロ野球のオリックス・ブルーウェーブは『がんばろうKOBE』をスローガンに1995年(平成7年)、1996年(平成8年)とパ・リーグ連覇(1996年(平成8年)は日本一)を成し遂げ、被災者を勇気付けた。また、毎年恒例だった正月映画・男はつらいよシリーズの、12月に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』では、神戸市側から松竹へロケの要請があったことや、山田洋次監督の元に、復興に努めていた夫妻からファンレターが届いたことがきっかけで、当時市民による復興が行われていた神戸市長田区が舞台となり、神戸の復興とボランティアがテーマとなった。JFL(当時)のヴィッセル神戸は1995年(平成7年)1月1日に正式にヴィッセル神戸として始動。日本プロサッカーリーグ昇格を目指し、1月17日に初練習をする予定だった。だが、震災により岡山県倉敷市での練習開始を余儀なくされ、神戸では練習場の確保が困難であるため、練習場を転々とせざるを得なかった。また、このように震災の日にチームが生まれたことを祈念するため、ホームスタジアムでの試合ではサポーター達により、試合前に「神戸讃歌」(「愛の讃歌」の替え歌)が歌われ続けている。サントリーはこの年のサントリーレディースオープンを中止しその開催費用を原資として神戸市消防団に対して手引き消防ポンプ・可搬動力ポンプ積載車を全分団に配置可能な数量を寄贈。その後も毎年4台程度を寄贈している。そごう神戸店も本館が半壊した部分の解体撤去(この撤去した部分が現在のサンファーレ広場となっている)を含めた復旧工事の末、1996年(平成8年)4月28日に全館オープンした(新館と本館地階はそれ以前から再開していた)。大丸神戸店は、本館の3階部分が倒壊したために取り壊して新館として再建。西館についても全面改装を施して1997年(平成9年)3月に復興グランドオープンした。三宮阪急は、入居していた神戸阪急ビル東館の上層階が崩落する全壊のため解体撤去することとなり震災5日後に閉店した(ただし、震災前の1992年(平成4年)に神戸ハーバーランドに神戸阪急が開店していたが、2012年に閉店)。神戸デパートも、被災をきっかけに閉店した。やや離れた大阪市でも北浜の三越大阪店の本館が被災して解体され、売場面積を大きく減らした。これが10年後の2005年(平成17年)に閉店する一因となった。神戸市は、震災直前の1995年(平成7年)1月1日の推計人口が152万0365人だった。同年10月1日に実施された震災後初の国勢調査では142万3792人となり、震災による市内の死亡者数4571人を大幅に超える、約10万人もの人口が減少し、京都市の人口を下回った。2004年(平成16年)11月1日に推計人口が152万0581人となり、震災前の人口を9年10か月ぶりに超えた。しかし、区ごとにみると、震災前より人口が増えたのは六甲山地2区(北区・西区)と沿岸東部3区(東灘区・灘区・中央区)だけであり、沿岸西部4区(兵庫区・長田区・須磨区・垂水区)では現在でも震災前の人口に戻っていない。特に長田区は3万人近く少ないままであり、地域によって復興に格差が生じていることが見受けられる。また、加古川市などの東播磨地域に転居した人も多い。震災で被害を受けた建物に使用されていたアスベストを、住民・作業員・ボランティアなど作業に当たった多数の人が吸い込んでいるため、影響が懸念されている。解体を要した損壊建物は約11.6万棟、生じたがれきの量は約1450万トン(1995(平成7)年12月31日時点)となった。1987年から「大阪湾フェニックス計画」(海面埋め立て)が始まっており、その海面に造成していた広域処分場では、約262万トン分の災害廃棄物を受け入れた。暴力団が救援活動に当たっていた一方で、震災に乗じて災害援護資金を不正に受けたり、建設会社に対し工事の受注を要求する等の触法行為を犯していたことも事実である。警察は暴力団のこういった問題行為を見越して、移動暴力相談車を利用した「巡回暴力相談所」を開設するなどの臨時対策を採っていた。また、暴力団関係者による手抜き工事も存在もしたという。デマとしては、「性犯罪が増加した」などが流れたが、兵庫県内の強姦の事件数自体は前年と変わらず、逆に強制わいせつ事件は減少していた。また、窃盗・強盗の件数も同様に減っていた。また、震災発生直後の1月19日前後及び1か月半後の2月26日、関西で京都府亀岡市の亀岡断層を震源地とする震度7の余震が起こるとの噂が発生した。2度目の噂では、亀岡市周辺の企業で臨時休業や食品スーパーで商品の買い占めが発生した。2003年には、大学生らが「希望の灯」のガラスケースを壊す事件があった。また、2013年1月17日開催の慰霊行事でライトアップする目的で灘区の六甲道南公園の慰霊碑に設置された照明器具が破壊されたと兵庫県警に届けられ、器物損壊事件として扱われた。震災で被災した地蔵などを盗み、質店に持ち込み換金していた人物が、兵庫県警から窃盗容疑で書類送検されている。問題発言としては、井戸敏三兵庫県知事が2008年(平成20年)11月11日に行われた近畿ブロックの知事会議において「東京一極集中を打破するための旗を揚げなければならない。関東で震災が起きれば東京は相当なダメージを受ける。これはチャンスですね」と発言したものがある。当初は謝罪を渋ったものの、猛抗議を受けた後謝罪した。報道倫理に関わる問題として過剰な取材活動が挙げられる。地震発生直後、マスメディア各社が航空取材活動を開始しているが、地震直後から始まった航空映像によって首相官邸など被災地外の人々

出典:wikipedia

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