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明石健志

明石 健志(あかし けんじ、1986年1月9日 - )は、北海道旭川市出身の福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(内野手、外野手)。1986年1月9日に北海道旭川市で生まれた。旭川市立忠和小学校の2年生時に兄のコーチをやっていた父の影響で野球を始め、高学年での守備位置は三塁手と遊撃手だった。旭川市立忠和中学校では1年時から3番・遊撃手でレギュラーとなり、1年夏に旭川大雪ウィナーズでは全国でベスト4、2年生時には全国優勝しMVPを獲得した。3年生の時には主将も務めた。山梨学院大学附属高等学校では当時の監督・鈴木英夫の「守りの中心はセカンド」という持論から、2年秋に本格的に二塁手へコンバートされ、同年秋の第55回関東地区高等学校野球大会山梨県予選では2回戦にサヨナラスクイズ、3回戦に猛打賞など活躍し、8年ぶりの関東大会出場を決め、関東大会ベスト8に貢献した。3年夏の甲子園山梨県予選では内村賢介らと出場し、2回戦で先頭打者三塁打を放って5回コールド勝利へ貢献したものの3回戦で敗れた。甲子園出場経験は無いものの身体能力の高さから注目され、11月19日にドラフトで福岡ダイエーホークスから4位で指名され入団した。入団1年目の5月2日、対大阪近鉄バファローズ戦で8回表1点ビハインド一死無走者から本間満の代打で初出場すると、川尻哲郎のスライダーをプロ入り初打席初安打となる右中間三塁打を放ち、川崎宗則のライトへの同点犠牲フライにより初得点も記録した。三塁守備要員として吉本龍生が送られたため守備に付くことはなかった。その後3試合は代打起用のみ、5月9日の対オリックス・ブルーウェーブ戦9回1点ビハインドの場面でヒットを打った先頭ペドロ・バルデスの代わりにプロ初の代走起用され、二死満塁本間の打席中に山口和男が暴投した所、すかさず本塁を陥れ同点とし、本間のサヨナラ打を呼んだ。王貞治監督の構想により本格的に外野練習に取り組むことが決まった。5月12日対西武ライオンズ戦9回表、高橋和幸に代わり中堅手としてプロ入り初の守備に付き、二死二三塁の場面で佐藤友亮のセンター前ヒットを処理して本塁へ好返球して二塁走者の後藤武敏を刺した。5月13日から実戦経験を積むため二軍で調整することになった。10月27日の宮崎キャンプ2日目、右肩痛でキャンプ不参加の川崎、ポスティングシステムによりメジャー挑戦を狙っていた井口資仁という二遊間事情から、王監督は明石を内野で育成する方針を打ち出した。ウエスタン・リーグでは81試合に出場し、打率.304(リーグ6位)、三塁打12本(リーグ1位)、19盗塁(リーグ4位)と力を示し、ウエスタン・リーグ優秀選手賞を受賞した。3月29日からウエスタン・リーグに二塁手として先発出場して43試合に出場し打率.281を残していたが、6月23日北神戸田園スポーツ公園野球場で行われた対サーパス神戸戦で本塁へ突入した際に、右足首を捻挫し、二軍公式戦を長期欠場。9月13日のウエスタン・リーグ対広島東洋カープ戦で1番二塁手として先発出場して実践復帰した。復帰後は打率.270まで下げ、一軍に昇格することは無かった。8月10日に福岡市内の病院で右肩上方関節唇縫合手術を受け戦線を離脱し、一軍には昇格できなかった。6月30日から一軍に出場、7月8日グッドウィルドームで行われた対西武戦9回1点リード無死満塁で山崎勝己の代打として出場すると岩崎哲也からライト前タイムリーヒットを放ちプロ初打点を記録した。7月13日千葉マリンスタジアムで行われた対ロッテ戦で8番指名打者としてプロ入り初のスタメン出場したが、三振、捕邪飛、右飛、三振という成績だった。この年は代打、指名打者として15試合に出場したものの打率.176で守備機会も無く終わった。6月21日から一軍に出場。7月19日対楽天戦の6回にマイケル・レストビッチの代打で出場すると田中将大-嶋基宏のバッテリーから初球打ちでセカンド内野安打を打ち出塁し、プロ入り初盗塁を決めた。7月25日対ロッテ戦では7回二死二塁根本朋久からライト線へのタイムリーツーベースを放ち、これが本拠地福岡 Yahoo! JAPANドーム初打点となった。一軍では一塁の小久保裕紀の守備固め、北京オリンピック野球日本代表に選出された川崎宗則の代役の遊撃手として29試合に出場した。8月27日のウエスタン・リーグ阪神戦でサイクル安打のかかった8回にクリス・リーソップから右手に死球を受け、福岡市内の病院で右手第2、3指骨折と診断された。この日はナイターの対オリックス戦にも出場予定だったが出場選手登録を抹消され代わりに森本学が一軍へ昇格した。以降の一軍昇格は叶わず、二軍では46試合に出場し打率.282、リーグ最多の8三塁打を記録した。7月に1軍昇格。8月2日に一軍で5年ぶりに外野手で先発出場。8月11日クリネックススタジアム宮城で行われた対楽天戦で岩隈久志から3安打し、プロ入り初の猛打賞を記録した。8月26日千葉マリンスタジアムで行われた対ロッテ戦では小林宏之からプロ初本塁打となるライトへのソロホームランを放った。9月4日対西武戦では岸孝之らから本拠地ヤフードームでの猛打賞を記録した。9月29日対楽天戦では岩隈から2打席連続の三塁打を放った。多村仁志が欠場しがちだったことから、外野で24試合にスタメン出場、初めて打席数が100を超え、打率も.291をマークした。CSファーストステージでは右翼手で2試合ともスタメン出場し8打数2安打だった。39試合に出場しスーパーサブとして内外野7ポジション全てを守ったが、打率.128と振るわずレギュラー獲得とはならなかった。11月7日秋季キャンプ中、第16回アジア競技大会野球日本代表との練習試合で初回西郷泰之の右中間への本塁打となった打球を追った際にフェンスに激突し、左足甲を骨折した。なお同日の宮崎市内の病院では精密検査の結果、ねんざと診断されていた。7月に一軍へ昇格し、小久保裕紀、アレックス・カブレラに代わりに一塁手として18試合スタメン出場した。途中からの守備起用も一塁手が35試合と多く、外野での起用は左翼手6試合、右翼手1試合だった。打率、出塁率ともに安定し、全25安打のうち三塁打を5本放った。川崎宗則のシアトル・マリナーズ移籍で空いた正遊撃手の候補の一人として大いに期待され、オープン戦の遊撃手争いでは打率、盗塁ともに今宮健太を圧倒したため、3月30日開幕戦(対オリックス戦)の2番遊撃手スタメンを勝ち取り、5回には相手先発のアルフレッド・フィガロから駄目押しとなるタイムリーを放った。その後も2番で起用されていたが、本多雄一が故障で登録抹消され、明石は打率.281だったことから4月29日の対ロッテ戦から5月20日まで1番二塁手で起用され続けた。本多が一軍復帰した5月21日からは再び遊撃手に戻ったが、5月の月間打率は.340と絶好調であり、1番打者として起用された。6月5日対読売ジャイアンツの9回に山口鉄也からライトスタンドにソロホームランを放ち、これがプロ入り後の本拠地初本塁打となった。6月6日の対巨人戦、1回表の守備中にぎっくり腰を発症してベンチに下がり、6月8日に一軍登録を抹消された。6月22日に一軍復帰後し、7月7日の対北海道日本ハムファイターズ戦では、9回表の第5打席に乾真大から19球粘った末に四球を選び出塁。1打席19球は1947年11月11日の太陽ロビンス対金星スターズ戦で、大陽の松井信勝が19球粘って四球を選んで以来65年ぶりのNPBタイ記録。7月20日から開催されたオールスターにも辞退選手の補充としてであったが初選出された。同日の第1戦で8回表から遊撃手の守備で初出場しショートフライを2度処理した。7月21日第2戦(松山坊っちゃんスタジアム)では4回裏から遊撃手の守備で出場し、谷繁元信のセンター前へ抜けそうな打球をダイビングキャッチしてショートゴロとすると、7回にはオールスター初打席で野村祐輔からレフト前ヒットで先頭打者出塁、直後李大浩の打席で5度のエンドランを仕掛けたが相川亮二に阻止され失敗、7回には坂本勇人の打席で併殺参加し、好守が評価され同試合の敢闘選手賞に選ばれた。7月23日の第3試合は4回の守備から出場したが、6回に畠山和洋のショートゴロを一塁へ悪送球エラーし、打撃も2打席凡退だった。8月1日に松田宣浩が死球を受けて骨折して以降は三塁守備で46試合に先発した。6月以降は打撃は好調と言えず、月間打率は.191〜.247の間であり、打順は1番の他、2番、9番を経験した。遊撃で先発出場した試合では、終盤に守備固めとして今宮健太が送られ、一塁守備に回ることも多かった。最終的に自己最多の135試合に出場し、打点、安打、盗塁数においてキャリアハイの成績を残した。また猛打賞も11回記録し、6月26日対オリックス戦と8月4日対西武戦では1試合4安打だった。1月の沖縄自主トレ中に右膝を痛め、4月7日に一軍に昇格したが15試合で打率.103と結果が出ず5月18日に抹消となった。6月4日ウエスタン・リーグの対中日戦で守備中に中西健太と激突し担架で運ばれた。8月29日に一軍へ昇格すると同日の対ロッテ戦で7番一塁手で出場、4回に西野勇士からライトスタンドへ勝ち越しスリーランホームランを放った。復帰後は50打数15安打、打率.300と活躍したが、今宮健太の急成長により遊撃手で起用されることはなかった。開幕を一軍で迎えると5月中旬まで控えでの起用が続いたが、本多雄一が5試合で打率.158と不振に陥り、5月21日から二塁スタメンでの出場が増え始め、5月末に内川聖一の肉離れ、7月上旬に松田宣浩の骨折、8月上旬に本多雄一の骨折、9月上旬に長谷川勇也の靭帯部分断裂と立て続けに主力が故障し、彼らが戻るまでに生じたスタメン・守備の穴を埋め続け、シーズン終了まで一度も出場選手登録を抹消されることなくチームを支えた。8月17日対オリックス戦吉田一将-伊藤光(プロ入り初)、8月22日対ロッテ戦涌井秀章-田村龍弘、8月31日対楽天戦武藤好貴-嶋基宏と各バッテリーからマルチ盗塁を記録した。CSファイナルステージでは6試合全て二塁手でスタメン出場し、23打数7安打4得点、打率.304、2度の盗塁がともに得点へ繋がった。日本シリーズも5試合全て二塁手でスタメン出場し、10月30日第5戦では3回二死二三塁の場面でセンターへ打ち返し落ちれば先制という当たりを放ったが大和のダイビングキャッチに阻まれた。8回は無死一塁から2ストライクと追い込まれながらランディ・メッセンジャーの投球後の癖を計算して冷静にスリーバントを決めて松田宣浩の先制決勝打を呼んだ。1点リードで迎えた9回デニス・サファテが3四球で一死満塁のピンチを作って迎えた西岡剛のファーストゴロを冷静に捌いて本塁へ送球し封殺、細川亨の返球を受けて3-2-3の併殺で自身がボールを受けゲームセットと思いきや、ボールは西岡の体に当たって外野へ転がり守備妨害により併殺完成となりチームの日本一を決めた。14打数3安打3四球3得点、打率.214だったが3の犠打が全て得点と勝利へ繋がった。4月29日に故郷・札幌ドームで行われた対日本ハム戦の2回3点ビハインドの場面で中村勝からプロ初となる逆転満塁本塁打を放った。またセーフティバントを含む3安打猛打賞の活躍でチームの連敗を3で止めた。この年は本多雄一が開幕早々に離脱したため、二塁のレギュラーの座を高田知季・川島慶三と争う。夏場から調子を上げ、8月には一塁または二塁で1番もしくは2番のレギュラーに定着。自己最多の3本塁打を放つなど115試合に出場、優勝に貢献した。日本シリーズでは全5戦に2番・二塁でスタメン出場、本塁打も放つなど16打数7安打7四死球で打率.438、出塁率.609という好成績を残し、優秀選手賞を受賞した。プロ入り前は高校時代に1試合で5盗塁、50メートル走のタイムが5秒6、遠投110メートルと高い身体能力を示していた。プロ入り後は内野ならどこでも守れるユーティリティープレーヤーとして一軍で活躍している。外野手としてはレフトとライトは2012年10月8日に途中出場で守り、センターは2010年5月19日に先発出場したのが最後となっている。打撃では三塁打が多く、自身もこだわりを持っており、『ミスタースリーベース』の異名を持っていた時期がある。北海道にいた頃から秋山幸二に憧れ、ダイエーホークスファンの大ファンであり、2003年11月20日にスカウトが指名挨拶を行った際には「秋山さんのような、どれを取っても一流と言われる選手になりたい。」と述べた。高校2年時の修学旅行で福岡ドームに隣接するホテルに宿泊した際には「いつかは自分もここでプレーがしたい」とプロへの思いを固めていた。お笑い芸人のとにかく明るい安村は、同じ旭川出身で、同じ少年野球チームの先輩・後輩の関係。

出典:wikipedia

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